「医療における宗教の果たす役割」 三岡肖江
(静岡県立大学短期大学部 研究紀要第9号 1995年度)
現代医学の問題点
近代医学がまだ誕生する 17 世紀以前,日本や欧米においても,医療と宗教は一体化していた.しかし,科学的思考が重視されるに従って医療と宗教は,全く異質のものと認識されるようになった.その結果,治療技術の面に関して,急速に高度医療を実現することができた.
ところが昨今,生の人間 (病む人) を対象とする医学領域において,病気の治しはできても,病人の癒しは不得手という現実が指摘されるようになった. 例えば, ターミナル期患者への「生命の質」 の問題や 「死への心の準備 (死の受容)」 の対応がうまく図れていないという現状から分かる通り,近代医学システムにおいては,人を癒すという視点が十分に配慮されていなかったのである.これらの事実は,主にマス・メディアを通して医療者だけでなく,一般の人にも西洋医学の人間学的視野の欠落として問題提起されるようになった.
全人的医療の復興
西洋医学の問題点が提示される一方で,患者をphysical (肉体的), mental(心理的), social(社会的) としてだけでなくspiritual (スピリチュアル) な存在者としてもとらえ,全人的な配慮に基づいたケアをめざそうとする動きも増えてきた.スピリチュアルという言葉は,まだ日本人には馴染みが薄いと思うが,その意味については,宗教的,精神的,霊的,魂のなど多義的な内容を含んでおり一語で訳し難い.このスピリチュアルな面への配慮に,日本の医療の場合,具体性が乏しいような気がしてならないのである.
論者は,以前,友人であり敬虔なイスラム教徒であるM氏から,日本のある病院を見学した後に 「日本人のスピリチュアル・フード (food) は一体何なのだ!」 と強く問いかけられたことがあった.むろん論者には,即答できる知識 (宗教的土壌) もなく,言葉を濁すことしかできなかったのだが.このM氏の問いかけは,論者に患者のスピリチュアルとは何なのかというもやもやとした問題意識を募らせていき,スピリチュアル・ケアについての2カ月間の研修(イスラム系病院) へとつながることとなった.
イスラームにおけるスピリチュアル
前述したように,日本人で無宗教の論者には,スピリチュアルを適確に言い表す事ができない.その事を良い意味でとれば,偏った宗教観を持たずに白紙の状態で一つの宗教的土壌におけるスピリチュアル・ケアに接することができたということである.
イスラム教とは,厳密にはイスラームと言い,7世紀の初頭にアラビア半島のメッカ (アラビア語ではマッカ) で預言者ムハンマドが創唱した一神教で,仏教,キリスト教と並び三大世界宗教とされている.現在,平凡社の 「世界大百科辞典・百科年鑑」 の1990年のデータではイスラム教徒 (ムスリム) は約9億人とされており,世界総人口の約17%を占めていると言われている (勿論,宗教人口は統計がとりにくく,出版社や発表する機関により数値が変わってくるのだが).そしてムスリムの世界的分布状況をみてみると,中近東を中心にアフリカ, 東南アジア,少数ではあるがバルカン半島,ロシア,中国本土とかなり広域にわたりムスリムが居住している.しかも大半の国々では,ムスリムがその総人口の80%を占めており,その他の国々でも独自の緊密な共同体を形成している場合が多く,人種,民族,国家,階級,身分というものをすべて越え万人に等しく開かれた普遍的宗教であることが,世界宗教と言われるゆえんでもある.
論者が研修を行なったインドネシアにおいても,全人口の約90%がムスリムであり,イスラーム=中近東という図式が定着されているなか,意外なことに中近東のイスラーム諸国よりその数は多いとされている.さて,研修先のジャカルタ・イスラム病院では,スピリチュアル・ケア=宗教的ケアという頑強な図式があった.「イスラーム (イスラム教)」 という言葉を聞いて,すぐに紛争というイメージを抱く人も少なくないと思うのだが,本来 「イスラーム」 という言葉は,アラビア語で 「サラマ (salama)」 という動詞から派生してきた言葉であり, このサラマという動詞には 「平和・平安にする」 「服従する」 「純化する」 といった意味がある.これらのことからイスラームという言葉に,「万物の創造主に帰依し,その命ずるところに従うことによって平和を実現していく」 という宗教的な意義を見い出すことができる.また,日本語の「宗教」 という言葉に対応するアラビア語は 「ディーン (din)」 だが, この言葉は 「服従行為の方法」 といった意味を持っている.つまり,イスラームというのは,単に心で信じる宗教ではなく,信じることと生活することを兼ね合わせた宗教であるということが分かる.人間それ自身が,宗教的存在なのである.イスラームは,人間と神との関わりであると同時に,生活のシステムでありルールである.このような宗教的背景に支えられているため,医療者は勿論のこと,患者のほぼ全員がムスリムという病院において宗教家が担う役割は非常に重要であると言える.病院内行事も全てイスラームに関連して行なわれる.一日五回の礼拝は,病院の中にある礼拝所で,医師,看護者,事務職員,患者およびその家族や宗教家が集い行なわれている.彼らに言わせると,これは神との約束事であるとのことであった.神との約束事は,無宗教である論者にとって大変重い負担のように感じられたが,これが彼等のスピリチュアル・フードだったのである.
彼等は,毎日規則正しい礼拝を通じて心の充足感を得るため深々と神に祈る.
「わたしたちはあなたにのみ崇め仕え,あなたにのみ御助けを請い願う」*
クルアーン第1章 (アル・ファーティハ章) 5節
一時,仕事を中断してまでも神の偉大さを称え,宇宙の中における己の位置を思い出すために,毎回5分間を礼拝に費やすのである.
注* 宗教法人日本ムスリム協会出版:日亜対訳 注解 聖クルアーン,1990.
イスラーム臨床における宗教家の役割
病院内の具体的なスピリチュアル・ケアは,主として宗教家が専門的知識に基づき以下のようなスタイルで行なわれる.
1) 午前中は患者のベットサイドに行き,まず患者の声に耳を傾け,患者がどう病気をとらえればよいのかを説く.
患者は,宗教的事項だけでなく,家族のこと,経済的なこと,医療者への注文,治療方法に関することなどどんな内容の話しをしても構わない.そこで出た患者の声は,必ず病棟にもち帰り,医療者を交え全体で話し合われることになる.
また,病気のとらえ方に関しては,信心深いムスリムは平安の内にあり,不信者や偽信者は病人として象徴的にクルアーンに描かれている.イスラームでは,健康や病は神の意志であり,病に対する回復力・治癒力も神の力なのである.要するに,病気も宗教的意義が非常に強いのである.それゆえ,患者の心に神を思い描かせ,患者の家族と共に神へ祈るのである.
患者の状態によっては,ベット上でも祈りができるようにタイヤムーンという方法が教授される.その際,苦痛に対する祈りの姿勢や言葉などもパンフレットを使用し具体的に説明がなされる.特に意識のない患者,言葉が発せられない患者や乳幼患児に対しては,頭,肩,胸あるいは患部に宗教家の手が触れられて祈りが捧げられる.
2) 手術直前の患者に対しては,その傍らで,彼の身内や医療者と共に神のご加護が祈られる.
3) 死を今まさに向かえようとしている患者に対しては,彼の耳元で
「アッラーの他に神はいない」
と語りかけ,死と神の審判を扱うクルアーン第 36 章 (ヤースィーン章) 81 〜 83 節
「天と地を創造なされた方が,これに類するものを創り得ないであろうか.いや,かれは最高の創造者であり全知であられる.何かを望まれると,彼が有れと御命じになれば,即ち有る.彼にこそ凡ての称賛あれ.その御手で万有を統御なされる御方,あなた方は彼の御許に帰せられるのである」
「全てのものはアッラーによって創られ,アッラーによって支えられ,アッラーの御許に帰って行く」
と宗教家が朗読し死に行く者を慰め,来るべき審判に備えさせる.そして患者はムスリムとしてこのクルアーンの朗誦のうちに最後の時を過ごす.
4) 病院で死を迎えた患者に対して,日本でいう湯潅と同様の儀式を行なう.全ての宗教と同じように,イスラームでも死は厳粛な儀式によって際立たされている. JENAZAH (ジャナザ) と呼ばれるその儀式は,そのための特別な部屋が用意され処置がとり行なわれる.遺体は丁寧に親族と宗教家によって洗浄され (ただし三親等以内の同性に限る.例外として夫婦に限り異性でも許されるが,殆どが同性の親族のみである),清潔な白い綿で包み, 香水をふりかけ更に三枚の無地の清潔な白い布で包み込む.また,礼拝の時間に合えば,遺体を病院の礼拝所 (マスジット) に運びそこに集まった人全員で,身も知らずの同胞の死への祈りが捧げられる.
5) 家族をなくし,悲嘆にくれている遺族に対してもケアが行なわれる.やはり, まず神を思い描かせ故人の来世を共に祈る.そしてそれは,遺族に落ち着きを取り戻させるための作業である.洗浄の儀式と同様に,いわばグリーフ・ワークの一つである.
6) 家族からの要請があれば,特別に病室に出向き,患者や家族への安寧を願い, 1)と同様のケアを行なう.
7) 病院全体の宗教的行事の運営を行なう.例えば,イスラームの信仰を具体的に表明するムスリムとしての行為,イバーダート (信仰の告白・礼拝・断食・喜捨・巡礼) やスンナ (慣行),シャーリア (イスラム法),クルアーンやハディース (予言者の信仰に関する伝承) についての勉強会や講演会を開催したりなどの儀式を全職員あるいは患者やその家族,そして地域住民を対象にして運営している.
以上,宗教家によって行われるスピリチュアル・ケアの内容である.特徴的だったのはスピリチュアル・ケアの対象者が患者だけでなく,その家族や医療・事務スタッフへも行なわれている点である.日本で取りだたされているいわゆるスピリチュアル・ケアとかなり異なっているのである.宗教家の医学的専門知識は,一般の人達と同レベルであったと思う.痛みを訴える患者に対しては,薬などという言葉は一切なく,ひたすら患部に手を当て患者と共に祈り,心の平安を取り戻すべく言葉をかけていく.彼等の平安とは,神のことを思い祈り,絶対的に信じているということなのだ.宗教家が患者の前に行き話しを始めると,患者の顔が徐々に変わり泣き出してしまう者もいた.
なお,7)で述べた勉強会や講演会,宗教的な行事がどうしてスピリチュアル・ケアなのかを理解するためには,前述した 「スピリチュアル≒宗教的な」 という堅固な図式を思い出さなければならない.それと同時に,ケア (care) には,「看護を行なう」 「世話をする」 という直接行為的な意味以外に,関心,気がかり,心配,苦労,配慮などの非接触的意味もあることを再認識する必要があるだろう.人は,病気になると身体的にも精神的にもダメージを受ける.厳正で科学的な治療 (cure)という態度は,肉眼的な疾患のみ重視し, 心の苦痛には, 目をそらしがちである.患者を慰め勇気づけるのは,医学的事実だけではないのである.ミルトン・メイヤロフも「ケアの本質」**の中で,「ケアは全人的活動を意味するものであって, 単にある人間の一部—それが精神であれ,身体であれ,感覚であれ,理性であれ—を指すものではない」と述べている.
注** ミルトン・メイヤロフ著,田村真,向野宣之訳:ケアの本質,ゆみる出版,1987.
これからの日本における医療と宗教との接点
日本人にとって 「異文化」 であるイスラームのスピリチュアル・ケアをそのままの形で医療現場に持ち込むことはもちろんできないが,学ぶ (再確認する) 点は非常に多かった.現代の日本人は一見,宗教への関心を失ったかのようにみえるが,実際に困難な状況に追い込まれたとき神様や仏様に救済を求める傾向が多い.おそらく,心の深層では信仰を求めているのかもしれないが,いざその時がくるまで自らの持つスピリチュアル・ニーズに気がつかないのであろう.この事を考えると,宗教を強く全面に出すよりも,信仰という言葉を 「大いなるものを敬う心を持っていること」 と解釈し,その心 (信仰心) を持っているかどうかが大切なことであると認識するほうが,今の日本人には受け入れられ易いのではないかと思う.
「人間は,スピリッツを内在したフィジカルな存在である.フィジカルには,食物が血となり肉となる.そしてスピリッツには,信仰が栄養になっているのだ」 とM氏を含めムスリム達の見解であった.死を見つめる時,死に直面する時,人間は己の存在の意味や価値について根本的な問を呼び起こす.死を見つめる事は,同時に生を見つめることであり,フィジカルな治しだけでなく,特にスピリッツの癒しには,科学主義のみ強調された医療だけでは十分でない事を宗教家達は教えてくれた.世界の偉大な宗教のほとんどが,治療よりも癒しを聖職者の重要な役割の一つだと考えているのである.
論者の研修したイスラム系病院では,現在スピリチュアル・ケアを宗教家だけでなく,医師や看護者にもできるようにと勉強会を行なっているという.スピリチュアル・フードの乏しい日本では,医療と宗教的要素を統合した医学に関して,全医学領域の共通認識を得るには時間がかかると思う.しかし,日本独自のスピリチュアル・ケアを研究することと並行して,医療者を育てる教員達が,患者の癒えを心から願う (祈る) 気持を学生達に目覚めさせることも重要事項の一つとなろう.
以上,「異文化」 の中で経験したいくつかの宗教体験を通して,医療と宗教が共存している社会の素晴らしい一面を目の当りにしたわけだが,イスラームは日本人にとってまさしく 「異文化」 であり,当然違和感がある.論者自身 「異文化」 を理解しようとすることで,自分の価値観との葛藤を生じ,日本人としての枠を意識する試練の機会でもあったが,医療と宗教を考察することで,日本の医療文化を改めて見つめる貴重な体験にもなった.
参 考 文 献
1) 「Pedoman Penyelenggaraan Jenazah」,DITERBITKAN PP. AISYIYAH BAGIAN PK U,1983.
2) 「TUNTUNAN ROHANI BAGI ORANG SAKIT」,RUMAH SAKIT ISLAM JAKARTA,1991.
3) 下中直也編:イスラム辞典,平凡社,1987.
4) 井筒俊彦著:コーラン,中央公論社,1992.
5) 牧野信也訳:ハディース上巻・中巻・下巻,中央公論社,1993・1994・1994.
6) 樋口和彦著:ターミナルと宗教 看護ムック3-ターミナルケア-,金原出版,1983.
7) 黒岩卓夫他編:講座 人間と医療を考える2宗教学と医療,弘文堂,1992.
8) 高田節子著:儀礼をとり入れた死前後の処置の意義
死の臨床3225-226,死の臨床研究会編,人間と歴史社,1990.
9) 季羽倭文子著:宗教とターミナルケアをめぐって
ターミナルケアVol. 2 No. 2 69-75,三輪書店,1992.