数珠のはなし

安楽椅子解釈 – I

 

父が他界してもうすぐ8年になるのですが、その父が残した数珠がいくつかあって、ほとんど子供のおもちゃにさせて遊ばせていたのですが、そのうちのひとつの糸がゆるんで切れそうになっていたので、思い切って糸を抜き、108つあった玉数を99にしてタスビーに作り替えてみました。

私の父というのは、何と言うか、あー、彼の兄の言葉を借りると「生きていくのがあまり得意ではなかった」人、彼の最初の妻(つまり私の母ですが)の言葉を借りると「○○○○○で、○○で、○○○○で、○○○で(以下罵詈雑言の嵐が延々と続く)・・・」という人でした。

生前は行方不明になっている時の方が多く、やっと腰が落ち着いたと思ったら何のことはない、病気を患ってふらふらと出歩くことも出来なくなったので戻ってきたというだけのことでしたが、死に際だけはとにかくも看取らせてもらえた、というのは、その時は「なんてこったい」でしたが、後から考えると私にとってこれは大きな救いでした。

数珠というのは、早いはなしが計算機なのですが、仏教はもちろん、キリスト教にもイスラム教にも、これを使う習慣があります。数珠とも球数とも書きます。

キリスト教(カトリック)のそれはロザリオと呼ばれて、これはあいまいな記憶ですが確か51個が正式な玉数ではなかったでしょうか。仏教の108個というのは、人間の持つ煩悩の数で、タスビーの99個は神様の名前の数であるとか言いますが、他にもいろいろな数え方があるみたいです。何にしろこれはとても面白い道具だと思います。

まず第一に、その姿がかわいらしいではないですか。まるくてころころした玉が行儀よく並んでいる。何かを思ったり考えたりする前に手を伸ばしたくなるでしょう。ならない?

以前にそういう仕事をしていたこともあって、工具などをほったらかしにするのもつまらないので、暇とおもしろそうな材料があれば数珠を作って遊んだりします。ばらばらになってしまったネックレスを作り替えたり、ひとつ、ふたつとためておいた材料をつなぐだけなのですが、それが増えていくのを見るのも楽しいです。

ガラスのビーズやエナメルのビーズなどで作ったのは、やはりお遊びが過ぎたらしく、あまりありがたがられることもなく子供たちもすぐに飽きてしまったようですが、引き出しにしまってある象牙や琥珀、あるいは木を削ったものや種、真珠などをつなげた数珠やタスビーには、よく触らせろとねだられます。

どの宗教にも必ず通ずる何かがあって、数珠はそれをかたちにしたもののようにも思います。子供に何がしかの宗教心を持たせたいと思うなら、何よりも数珠をひとつ持たせることが一番簡単でいいかも知れません。信仰というのは、要するに何かを愛したり大切にしたり、「いつも一緒にいる」ことに安心したりということから始まるものではないでしょうか。

が、ここまで書いていて、以前にある勤労留学生さんが「子供のころ友達と一緒に、モスクで大人が並んで礼拝している後ろからタスビーの玉を投げて遊びました。頭とかねらってぶつけました。(ぶつけられた大人の方は)礼拝中だから叱りたくても叱れないのが面白かったです」と言っていたのを思い出しました。

数珠にはそんな楽しい使い方もあったのか!

子供のころにそれを思いついていれば、親父の頭にぶつけてやることもできたのですがもう遅い。ちょっと悔しいような気もします。