犠牲祭について

安楽椅子解釈 – I

 

巡礼に続いて行われる犠牲祭についても、少しコーランを読んでみたいと思います。犠牲祭と訳されていますが、これをイード・ル=アドハー、Eid Al Adhaといいます。犠牲祭のなりたちについては「巡礼について」にも少し書きましたが、コーランにはこのようにあります:

(この子が)かれと共に働く年頃になった時、かれは言った。「息子よ、わたしはあなたを犠牲に捧げる夢を見ました。さあ、あなたはどう考えるのですか。」かれは(答えて)言った。「父よ、あなたが命じられたようにして下さい。もしアッラーが御望みならば、わたしが耐え忍ぶことが御分りでしょう。

そこでかれら両人は(命令に)服して、かれ(子供)が額を(地に付け)うつ伏せになった時、

われは告げた。「イブラーヒームよ。

あなたは確かにあの夢を実践した。本当にわれは、このように正しい行いをする者に報いる。

これは明らかに試みであった。」

われは大きな犠牲でかれを購い、

末永くかれのために(この祝福を)留めた。

「イブラーヒームに平安あれ。」(と言って)。
(コーラン37章・102-109節)

神様が「すごい」のはもう分かりきったこととしても、この部分を読んでいて「すごい」といつも思うのは、イブラーヒームという方と、その息子さんです。この部分には、何だか背中をどやされるようなきもちになります。

場面としては非常に根源的で衝撃的です。息子を殺そうという父親と、父親に殺されようという息子。この二人が、一見すると全く相反する立場にあるようでいて実は全く同じ「ひとつ」であることの不思議。人間というのはそもそも矛盾した生き物なのである、というのが理解できますか。

神様はかれらの信仰を愛で、「大きな犠牲」great animal sacrifice、によって購いますが、これは「いつ・いかなる場合であっても、人間の生命は尊重されなくてはならない」というヒューマニズムの大原則を、神様がイブラーヒームを試すことによって、私たち後世の者に知らしめている、という節でもあります。

ちなみに、「イード」について:

マルヤムの子イーサーは(祈って)言った。「アッラー、わたしたちの主よ、わたしたちのために(食物を並べた)食卓を天から御下しになり、それでわたしたちへの最初の、また最後の機縁となされ、あなたからの印として下さい。わたしたちに食を与えて下さい。本当にあなたは最も優れた養い主です。」
(コーラン5章・114節)

この節で、「機縁」と訳されているのが「イード」です。これはお互いがお互いに近づき合い距離を縮めるためのできごとを指します。

イーサーとは、つまりイエスのことですが、やわらかく嫋々としていてすてきなお祈りです。優美なだけではなく、伝えるべきをきちんと伝える強さなども、いかにも清廉なこのひとらしい感じが漂っていて、私は個人的にこのお祈りが大好きです。