安楽椅子解釈 – I
「Ecce Homo」と名付けられた彫刻作品。「21世紀のイエス像」として、(1999年から2000年の期間限定で)ロンドンの中心部・トラファルガー広場に設置されていたものです。
「何も皮肉ったり、奇抜なことがしたくてこれを作ったわけじゃあない。普通の人間としてのイエス、少なくとも迫害された人々の政治的指導者だったイエスが、ここ(トラファルガー・スクエア)に、巨大化した帝国主義の象徴の真正面に据えられていいと思ったんだ」
(Mark Wallinger・現代美術家)
コーランには、イエスが十字架にかけられた、という記述がありません。
どこかで、「ムスリムはイエスが十字架にかけられたことを信じない」というような説明を聞いたことがあるような気はしますが、それだけに限定してしまうのではつまらない。
誰か別のひとに読んでもらうのも、時にはわるくないですけれど、せっかくの聖典なのだから、ひとつひとつのモチーフが何を意図しているのかを、自分自身で読み取って、どう自分を生きていくかを考えることを優先した方がもっと豊かになれるでしょう。
伝統的に語り継がれてきたものは全て単なる言葉の羅列に過ぎない
それらが何を意図しているのか見出すのはわれらに委ねられている
と、イブン・アラビー先生が言っているのは全くその通りだと思う。
例えばパレスチナ人でムスリムの画家イスマイール・シャンムートは、現在のパレスチナの状況を、十字架上で苦しむイエスになぞらえた作品を描いています。彼はイエスという預言者について、そのように読んだのでしょう。
私は、と言えば、
昔、あるムスリムが「私は神だ」と叫んだのを理由に処刑されたというはなしと、神を父と呼び父は私の中にある、と言ったイエスが磔にされたというはなしとの、私の中では双方のイメージがぴったりと重なりあっており、それは今のところどうしてもはがれようがありません。そんなふうに、自らの責任において神様と愛し合う個人というのは、律法学者や教条主義者、支配者にとっては相当目障りな存在だったことだろう。そういう意味では、私はこのふたりが共通しているように感じているし、そのように読んでいます。
使徒は、主から下されたものを信じる、信者たちもまた同じである。(かれらは)皆、アッラーと天使たち、諸啓典と使徒たちを信じる。わたしたちは、使徒の誰にも差別をつけない(と言う)。また、かれらは(祈って)言う。
「わたしたちは、(教えを)聞き、服従します。主よ、あなたの御赦しを願います。(わたしたちの)帰り所はあなたの御許であります。」
(雌牛の章・2章285節)
人類の父とされるアーダムに始まり、コーランには25名の預言者たちが登場します。いろいろな数え方があるので一概には言えないのですが、全ての民族にはそれぞれの預言者が使わされている、ともあります。
少ないと見るか、多いと見るかはひとそれぞれでしょうけれども、もしも人間が、最初から最後まで皆同じように考え、同じように行動するのが神の理想であれば、ロールモデルである預言者はたった一人だけでこと足りたはず。皆預言者として、同じひとつの神を信じ、同じ「イブラーヒーム/アブラハムの宗教」を実践していても、これだけ多様な生き方があり、これだけ多様な道がある。
複数の、少なくとも25通りの生き方を、私たちがそこに読むことができるように、そのようにコーランは下されてあります。
*イブン・アラビー:”Tarjuman al-Ashwaq”, translated by Reynold A Nicholson
*「Ecce Homo」:「このひとを見よ。」ヨハネによる福音書19:5