安楽椅子解釈 – I
引っ越しのおかげで、使わなくなっていた工具などが出て来たので、なんとなく撫でさすったりして思い出にひたっていました。昔むかし、宝飾・貴金属加工等に従事していたことがありました。今でも頼まれれば修理修繕くらいはやります。御徒町あたりをうろちょろしていました。2軒目にお世話になったのは真珠屋さんでした。
真珠は、ネックレスなどになってしまうと分かりにくいですが、(と、言うか分からないようにしてあるのですが)あれで一粒づつ色も形も違います。なるべく似ている粒同士を隣り合わせに連ねて、ネックレスにしてあるのです。
一番最初に真珠養殖を思いついたのはミキモトの御木本幸吉さん、ということになっていますが、確かに事業ベースにのせたのは彼なのですが技法それ自体を発案したのは柳宗悦のお父上なんですね(豆知識)。以来真珠養殖と言えば日本なのですが、このごろは中国なんかでもさかんです。ただし中国の真珠養殖は河川などで行われる場合が多く、真珠も「淡水真珠」と呼ばれます。これはこれできれいですが、「和玉」と呼ばれる日本の潮の中で養殖される真珠に比べると、光を反射した時の照りがたよりなくはかなげな感じがどうしてもしてしまいます。
また、オーストラリア・タヒチなどの南洋で養殖されるのは、水温が安定してあたたかいため母貝もすくすく育つので、真珠も1年と待たずに大きなものが出来てきますが、色彩や照り具合がこれまたどうしても単調になりがち。
最低でも2年を待たなくてはならない日本の真珠が、色々見ていてもやはりきれいだな、と思います。
まあこのあたりはもう好みの問題なのですけれどもね。
2年待たないとならないのはなぜかと言うと、日本には四季というものがあるのです。
冬の間は気温が下がるので、母貝もその間は冬眠して育ちません。貝の中に埋められた真珠核も、春がくるまで、じっと待つのです。真珠母貝が分泌する、真珠層を作り出す分泌液も、貝の成長や季節による水温の変化、潮が運んで来るプランクトンなど、外的な変化と共に微妙に成分が違ってきます。そうやって、七色の光を閉じ込めた真珠の照り、と言うか輝きが生まれるわけです。
昭和の終わり頃から、真珠養殖場がひとつ、またひとつと閉鎖されてしまっています。度重なる赤潮の発生など、海水の汚染があまりにもひどく、貝というのはあれでなかなかデリケートな生き物で、ダメージを受けやすいので、とても2年ないし3年の間、できるのかできないのかも分からない真珠養殖などに手を出して、のんきに構えていられない、手っ取り早くフグかなんかで稼ぐか、と言うわけです。
毎年養殖網を引き揚げる季節には、もう誰も彼もが殺気だっててほとんど博打の世界なの。店頭に並べられた時にはいかにもエレガントな顔してますけど。それでもこの博打を打つ、というひとは、これはもう金になるのならないのと言ったレベルを超えてる。逆に言えばエレガントとばかり言ってもいられない段階を踏んでいるからこそ、真珠にはそれだけの価値が生まれるということですね。
更に真珠の母貝にしてみれば、こちらの都合できゅっと埋め込まれた真珠核なんて、異物以外の何ものでもないのです。貝に痛覚があるのか、とか、貝も悲鳴をあげるんだろうか、とか、考え出すと涙が出そうになります。「鯨を食うな」と叫ぶことに情熱を傾けている人たちがいますが、あの人たちアコヤ貝のこと知ったらどうするだろね、わしら間違いなく火あぶりにされるね、などと、仕事仲間とささやきあったりもします。
それはともかくとしても、「貝が痛い思いして、涙(分泌液のこと)を流してくれたおかげで、こんなきれいな真珠ができたんだから、アンタきっちりしごとしていいもんつくらなくちゃ罰があたるよ」と、私は教わったのでした。
本当に困難と共に、安楽はあり、
本当に困難と共に、安楽はある。
(コーラン94章5-6節)
痛いなあ、とか、苦しいなあ、とか、悲しいなあ、とか、そういうことがあるたびに、私は真珠のことを思い出すわけです。これは必要なことなのね、と思います。それでなぐさめられるわけでもないし、と言うか、なぐさめられたいと思うわけでもなく。ただ、「あーいてえ」と思うのです。
いたいとかかなしいとかつらいとか、確かにその最中は嫌ですけど、でもだからと言ってそういう思いをしたくない、とも思わない。だってロボットじゃあるまいし。第一そういう思いをなくしたら、楽しいこととか嬉しいこととか、そういうのもなくなってしまうような気がするし。
だから全部必要。
全体としては、たぶんそれがしあわせというやつなのね、と思ったりもします。
かれは2つの海を合流させられる。
(だが)両者の間には、(アッラーの配慮によって)
障壁があり一方が他方を制圧することはない。
それであなたがたは、主の恩恵のどれを嘘と言うのか。
両方は真珠とサンゴを産する。
それであなたがたは、主の恩恵のどれを嘘と言うのか。
(コーラン55章19-23節)
「真珠」ひとつにも色々な呼び方がアラビア語にはあります。「潜る、潜水する、真珠を採る」という動詞には、「(考えや物思いに)耽る、浸る」という意味もあります。なんだか素敵かも。
ちなみにコーランに出て来る真珠の場合は、lam-waw-lam-waw、と書いて「るうるう」。これまたかわいい響きですね。声に出して詠むときは「る・るう」と、ちょっと詰まった感じになります。