安楽椅子解釈 – I
*ラマダン中にコーランを読んだ際のメモ書きに若干加筆して備忘録としたもの。
24章と言えばこの節:
神は、天地の光である。かれの光を譬れば、燈を置いた、壁龕のようなものである。燈はガラスの中にある。ガラスは輝く星のよう。祝福されたオリーブの木に灯されている。(その木は)東方(の産)でもなく、西方(の産)でもなく、この油は、火が凡んど触れないのに光を放つ。光の上に光を添える。神は御好みの者を、かれの御光に導かれる。神は人びとのために、比喩を挙げられる。本当に神は凡てのことを知っておられる。
(24章35節)
The Jewel of Crownという形容があるけれど、まさに王冠の真ん中で際立って輝く大きな宝石みたいな節。イスラーム学者さん達が、イスラームを解説しようとする時には必ずと言っていいほど引用する。ガザーリーという学者さんなんか、この節のためだけに解説書を一冊書いているぐらいだし、「偉大なる翻訳者」ユースフ・アリも、この節に関して沢山の解釈を残している。(逆に言えば、この節を引用していない解説書には「?」を付けておくのが無難であるということ)
24章全体の主なテーマは、公共善であるとか、社会倫理であるとか、そういうことなのだが、そうした「外側に顕われるもの」と、「内側に眠るもの」をつなげてくれるのがこの節であって、24章全体の大切さは、この節があって初めて理解される。よく言われる「イスラームは『聖』と『俗』とを切り離さない宗教である」というのも、24章のレイアウトというか構成そのものを眺めてみると、ある程度実感できる。
illustrationという言葉がある。今では「イラストレーション」という独自の視覚芸術に発展しているが、平たく言えば「挿し絵」のこと。もとを辿れば百科事典なんかで、言葉では説明し切れないものを図画によって説明する、という目的のために選ばれた手法である。illustrationという言葉は、「lustro」というラテン語から派生しており、これはそもそも「光らせる」という意味。語源を同じくする言葉には、他にも「luster(光沢)」とか、「lustrate(浄める)」なんてのもあるね。
「挿し絵」は、この言葉が生まれる以前は「illumination」、イルミネーションと呼ばれていた。こちらも「illuminatio」というラテン語を語源としており、そのものずばり「光」を意味する。
言葉では説明し切れないことを説明し、文章では伝えられないことを伝えるのが「イラストレーション」の役割なのだが、知識を分け与え理解を促すための手段を、「光」と名付ける、というのは、実はなかなかすごいことだ。「光」と「理解」は深くて密接な関係にある、というのを、直感に知らせる好例だと思う。
見渡せば、例えば仏像などにも背中に光輪を背負っているのがあったりする。西洋の宗教画でも、天使の頭部の周囲や聖人の頭部に、放射状の光が描かれていたりする。あれはただ単なるこけおどしというか装飾として作成されていたり描かれたりしているのではない。知識と理解のある状態が、光に托され表現されているのである。
「神は、天地の光である。」という語句からは、神様とは、私たちには「光」として経験したり感得したりすることが出来る存在である、ということがまず「理解」できる。
「光」には二通り以上ある。私たちの肉の眼が捉える光と、心の眼が捉える光。つまり、「光」は「外側」にも「内側」にも働いている。
もちろん「心の眼」の方が「肉の眼」よりもはるかに価値が高い。「肉の眼」が捉えられる光は、あくまでも反射に過ぎないからだ。暗くなってしまうと「肉の眼」は働かず、光を捉えることが出来なくなる。だが「心の眼」は、どのような状態であっても「光」を捉える。
壁についてるスイッチをOFFにすれば電灯は消え部屋は暗くなる。だがそれで「光」が失われたことになるだろうか?ならない。蛍光灯が一本だめになったとしても、「光」そのものの量が減ったわけではない。太陽が沈んだからといって「光」が無くなってしまったわけではないし、そこにスタンドを持って来たからといって「光」そのものの量が増えたわけでもない。
電球、蝋燭、太陽、月、星などなど、「光」を発するものは様々あるが、全て「媒体」に過ぎない。「光」そのものは常に「ひとつ」である。ガザーリー先生が「光の壁龕」で詳しく説明している。平凡社から出ている「中世思想原典集成」11巻、「イスラーム哲学」に収録されており日本語でも読める。