『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス
四. 預言者と教友の祝福祈願について
何のことかというと、「全能の神が彼を祝福し、平安を与えたまいますように」とか「彼の上に神の祝福と平安あれ」とか「ムハンマドに祝福あれ」といった、栄誉ある預言者たちについて言及があった際に発せられる表現や、預言者の栄誉ある教友に対する言及があったときに発せられる「神の御満悦がありますように」といった表現の使用についてである。これは信仰のイマームたちの中でも特に選ばれた者1 –– 神よ、彼ら全員をご承認あれ –– に帰するとされている言葉「一生涯に一度は、『預言者に祝福あれ』と口に出して言うことは宗教的義務である」が受け継がれてきたものである。その他に従えば、これは単なる宗教規範的な賛美に過ぎない。しかし一部の人々は、預言者への言及があるたびにこの定式に従うことが伝統からしても必須の義務である、と言う。この点について、全員の合意は確実に存在しない。
さて、フトバの最中にムエッズィンたちが一斉に叫ぶ「神よ、彼を祝福したまえ」「神よ、彼にご満悦あれ」が、やかましく取り沙汰されている件についてである。フトバの間は沈黙するのが義務であることは、「イマームのフトバの最中に、隣の者に『静かに!』と何度も言うおまえも間違っている」という金言からも明白である。祝福祈願の義務的性質については若干の論争があるのに対して、フトバの間は沈黙するのが好ましいことについては一般的な合意が確立している。
しかし慣例として好まれているやり方というのが、たとえある特定の見解への単純な好みに基づくものであるかもしれず、またそれが誤りであり罪深いことであったとしても、特定の習慣に慣れ親しんで育ち、それを義務と見なすよう習った人間が、それを捨てることはない。多数の人々の間において普通とされていることや慣習となっていることのほとんどは、選択を経た上でそうなっているのであり、これには老いも若きも関係がない。従って、彼らの好きにさせればよろしい。たとえ「逸脱」であり「罪」であるとしても、それを止めさせようなどという自惚れた思いつきで苦労を背負い込んだところで、結果としてその人自身の愚かさと無知があらわになるだけである。古くから言われている通り、「自分と時代を共にする人々のやり方を認めない者は無学の者である」。
そのような行ないに深くのめり込んで人々を思いとどまらせようとすれば、舌による会話と議論は剣と槍による戦いと争いを引き起こし、結果として狂信的な戦争に至るというのは我々の父祖が目撃してきた通りである。批判をすんなり受け入れることは、たとえそれがどれほど常識的で正当性があったとしても、人間の性質とは相容れない。反対されればされるほどますます熱心になる。もしも何かしらの反論がなされるのであれば、それは確実に「しかし、彼にむかってものやわらかに話せ。ことによれば反省するか、あるいは畏れかしこむかもしれない(コーラン20章46節)」という章句に示されている通りのやり方でなければならない。親切心と優しさが、論争にいくらかでも実りの多い結末をもたらすかもしれない。加えて、こうした崇拝に関わる問題においては、微細な分析だの揚げ足取りだのは場違いにあたる。人々にあるべき姿を説くならば、神への奉仕にふさわしい誠実な方法で行なうこと。これが統治者や伝道者としての、ものごとにあたる際のあるべき姿である。また誰であれ、このような些細な誤りにいちいち目くじらを立ててはならず、何故ならそれが自分自身のためだからである。
いったい人間の崇拝は、そうとあるべき態をなしているだろうか?書物を通じて命じられている通りにできているだろうか?イマーム・ガッザーリーのような偉人でさえ、自らの不十分さを謙虚に認めている。「われわれの人生すべてをもってしても、全能の主にふさわしい礼拝の二ラカートさえ出来ていない」「おお、比類なき主よ。われわれには、あなたに適う崇拝が出来ていません」とまで言っているのである。
「創造の主は、ご自分の造りたもう者たちのために言い訳を見つけてくれる神である。主は全額を、それも正確にではなく多めに支払ってくださる」。主の親切とお優しさは、主の慈悲の海と同じく広大である。それには終わりがなく、また主の慈悲をさえぎるいかなる境界線も存在しない。さしあたって主のしもべたる者の責務とは、以下のような言葉をもって述べられている通り、自らの弱さと欠陥を悔悟し、主のいと高き命令に従うことである。
王よ!あなたの玉座の足の下に、私は避難を求めます。
あなたの荘厳なる聖域に、私は恥じ入るばかりです。
私は四つのものを持って来ましたが、
あなたの恩恵の宝庫には、そぐわぬものばかりです、
貧窮、欲望、無力、そして罪。
罪を悔悟する哀れな者の方が、これまでも神に従ってきた者よりも良いとも言われる。
他の者たちはそうではないにせよ、一部の説教師が、自分たちの説教の合間に預言者を祝福するよう聴衆に押しつけるという事実について。これは論じるにほとんど値しない単なる習慣の問題である。それは意見の相違から生じるものであり、これが当世の学者たちの風潮なのである。彼らは相違から多くの利益を引き出しているが、詳細は後述する。2
1. オスマン帝国のテュルクたちが、自らのイマームとして選んだのはアブー・ハニーファである。「解説 II. イスラム的背景について」を参照。
2. 論争から得られる利益については、「二十一. スィヴァースィー対カディザーデの論争」を参照。