『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス
十三. 墓参の巡礼について
昔の人々は墓地を訪れることに大いなる関心を寄せ、これに傾倒していた。原因として、ひとつにはこれが偶像崇拝にその根拠と起源を持つ習慣であるというのが挙げられる。これを理由に、われらが世界の栄光(たる預言者)は、イスラムの創始期においてしばらくの間は墓地の訪問を全面的に禁止した。しかしその後は以下の言葉をもって徐々にこれを許した。「私はかつてあなたがたに墓地を訪れるのを禁じた。しかし今は、あなたがたは訪れても差し支えない」。それ以来、墓地を訪れ、死者に呼びかけて嘆願することは合法となった。
現在、問題となっている点とは、死者に対して助けを求める習慣である。これについてウレマーは合意していない。シェイフたちは、「あなたがたが困っているときは、墓の中にいる者に助けを求めよ」と述べてこれを許可している。彼らはまたこうも言う。「魂が身体に結びつけられているのと同じで、魂が墓に結びつけられていないということはない。偉人の墓には、わずかながらも精神性が宿る。その他どのような場所で祈ったり訴えたりするよりも、こうした場所で神への接近を探し求める方がよい。偉大なるナクシュベンディー1のシェイフたちもしばしば彼らの先達の墓を訪れては、彼らから精神性を借り受けて道を歩んだ、という言い伝えを聞き逃したか?」。
だがほとんどの法学者たちはこう述べる。「死者に助けを求めることを許可してしまえば、一般の民衆の手綱をゆるめることになる。古き時代の偶像崇拝も、ここに端を発しているのである。手はじめに彼らは、預言者や聖者の精神を通じて神に接近しようとする。それから徐々に彼らの像を作り出し、これが神との仲介者であるなどと言って崇拝し始める。墓の崇拝者がしげしげと墓に通って断食したり祈ったりするのも、こうした意図によるものである」。こうした理由で、彼らは死者に助けを求めることを絶対的に禁止している。
加えて、それどころかこの習慣は多神教の域である、とも彼らは述べる。よく知られている通り、アブラハム(彼に平安あれ)がニムロドの炎に投げ入れられたとき、ガブリエル(彼に平安あれ)が現れて「何か頼みごとはないか」と言った。アブラハムは「あなたに頼みごとはない」と答えた。「では、おまえの主に頼みごとはないか」とガブリエルは言った。しかしアブラハムは、自分の願いや祈りを訴えることを拒否して言った。「神は私の置かれた状態をご存知のはず。何で主に頼むことがあろう?」。2これをもって人々は、厳しい一神教の原則を教えられたものである。すなわち情けも助けも、神以外に求めてはならない。「神のおそばに近づけ」という言葉には、服従の行為と敬神の実践をなせ、という含みが持たされているのである。
こうした見解を持つ者たちのうち、とりわけイブン・タイミーヤ3に至っては、預言者その人の墓でさえ訪問を禁じているほどである。「雨乞いの礼拝を求められた際のウマルが、預言者の墓では行なわず、その代わりにアッバースの執りなしを求めたという事実が、執りなしは生者に求めるのが最良であるということの証左である」4と述べた人物が彼である。いくつかの問題に関する彼のこうした極端主義は、エジプトやシリアのウレマーたちとの衝突をもたらした。彼らはイブン・タイミーヤを徹底的に追及し、エジプトのスルタンの御前裁判に彼を引きずり出した。世論は分裂し、どちらの側でも一枚刷のビラが数多く書かれた。彼の弟子に、イブン・カスィールとイブン・カイイムがいた。彼らはその著述の中で、徹底的な調査に対してあますところなく反論を述べた。イブン・タイミーヤの敵対者たちは彼を異端者と宣言し、最終的に彼は投獄されてしまった。728年(1328年)、彼は獄中死した。こうなってくると、墓参巡礼の問題は白熱した議論の的となり、両派は共に調停の裁決を求める必要があることを認めた。裁決として選ばれたのは中庸の道である。そして以下の判定が下された。魂が身体や墓と結びつけられていることの玄妙さを理解している者、また墓とその他の場所で行なわれる嘆願の違いを理解している者は、特定の前提を条件に墓参りを許される。幾人かのシェイフが実践していた行為はこれに相当する。そして彼らがそうするのは多神教にはあたらない。それどころか、これは一神教の域である。アブラハムの一神教は純粋な一神教であった。「心と体と魂」のすべてをもって神に傾倒する者は、仲裁などには何の関心もない。精神的な力の持ち主の大部分は、この類いの人々である。ところが程度の低い者たちは、精神または身体にかかる問題を解決したり取り除いたりするのに、自分には仲介者や媒介者が必要だと考える。仲介者を崇拝する意図がない限りにおいては、そこに多神教が含まれる余地はない。
中庸の道を選ぶ者たちにとり、適切なふるまいとは以下の通りである。墓参巡礼の目的地に近づいたなら、神(壮麗の主に栄光あれ)の承認を得るためにファーティハを暗唱し、その報奨については墓の主の魂に捧げ5、それ以上のことはすべきではない。それ以外のいかなる創案も持つべきではないし、墓に接吻したりしがみついたりすべきではない。人間の長たる預言者の聖墓を訪れる幸運に恵まれた者は、定められた作法に従って立ち、両手は体の前で握り、心からの敬愛と祈祷を捧げるべきである。格子に取りすがったり接吻したりといった無作法の罪を犯してはならない。これが聖法によって定め置かれた所作である。それ以外のふるまいは何であれ無礼を意味する。最良の作法とは、そのような危険を招かないことである。こういった無意味な行ないが自らを精神的に高めるなどという考え方は、誰にも抱かせてはならないものである。
両極にあるふたつの派閥間の平衡は、このようにして保たれることになった。一方では、人々は墓参を完全に禁じられたわけでもないし、また一方では一般の人々の手綱がゆるみ、墓に助けを求めることが完全に許可されたというわけでもない。
が、人々の間では墓場にランプを灯すことが一般的になっているのも事実である。墓場を訪れては墓に顔や目をこすりつけたり、ランプの油を自らに塗りつけたりするのが、知性のぜい弱な男や女や子どもたちの習慣となっている。こればかりは決して改まることはないだろう。墓場の管理人もランプの売り子も、これで生計を立てているのである。
これについて言い争ったり、議論したりするのは馬鹿のやることであり無駄でしかない。彼らを阻止することはできない。墓は別として一部の野蛮な人々は、道ばたの大木だの、あまつさえ大岩だのに敬意を表して麻の布を巻きつけたりする。自然由来の治療薬を用いた医学的療法であるとか、イスラムの一部である黒石6の特例を除けば、石や樹木は崇めたり尊んだりするものではない。これについてはれっきとした確証がなされている。
1. ナクシュベンディー教団はブハラ出身のバハーウッディーン・ナクシュベンド(1318-89)により中央アジアにおいて創始され、ティムールの軍勢と共に小アジアへ伝播した。スンニ派の正統教義に最も近しい教団のひとつである。
2. この物語は複数の解説者によって語られているが、しかしコーランには存在しない。
3. イブン・タイミーヤ(1328没)は聖者崇拝を禁じる説法を唱え、その他にも、初期のスンナに加えられたありとあらゆる物事に反駁した。皮肉なことに彼自身の墓は、信仰に死した聖者であるからという理由をもって巡礼地となった。
4. 「ウマルは、旱魃の際にはアッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの名において雨乞いの祈願を行ない、こう言ったものである。『神よ、我々はかつてわれらが預言者の名において雨を降らせてくれるよう祈りました。するとあなたは、雨を降らせたまいました。今、我々はわれらが預言者の叔父の名において祈ります。どうか雨を降らせて下さい』。すると彼らの上に、雨がもたらされた(ブハーリー編 Abwab al-istisqa )」。
5. 墓所を通り過ぎるときには、死者の休息のためにコーランの第一スーラであるファーティハを暗唱するのが敬虔なる義務とされる。
6. カアバの南東角には、地上から4-5フィートの高さの位置に黒石がはめ込まれている。これを目にしたヨーロッパ人たちは、黒石は変形オーバルの形をしており、最大幅は7インチ程度、複数の小石が隙間なく互いに接合して一塊を構成していると述べている。T. P. Hughes著 A Dictionary of Islam(W. H. Allen & Co., 1885, reprinted by Luzac, 1935), pp. 154-5参照。
7. P. K. Hitti著 History of the Arabs(Macmillan,1937), P. 101に、そのスケッチを見ることができる。