『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス
十九. 賄賂について
最近の学者の中では、称賛に値するかの法学者、故イブン・ナジュム・アル=ミスリーが、この主題に関する論文を書いて大好評を博している。現在、賄賂のやり取りは世間に大いに広まっている風潮であり、筆者もここにその論文の抄訳を載せておく。
賄賂の正確な定義は、有利な評決やその他の希望するものを確保するべく、裁判官またはその他の人物に、何であれ供与するものを指す。アブー・ナスル・アル=バグダーディーが、Quduri の解釈書の中で賄賂と贈答の区別を示している。「賄賂とは、援助を得るために与えられるものを指す。こうした条件は、贈答には存在しない」。
さて、賄賂は啓典とスンナによって禁止されている。啓典には以下の章句がある。「おまえたち、むだなことで自分の財産を使い果たしてはならない。また、知りつつ不当に人の財産の一部を食おうとして、裁判官に贈賄してはならない(2章184節)」。スンナについては、この件に関して以下の伝承がある。「神は賄賂を与える者と受け取る者を呪いたもう」。また、「神の呪いは賄賂を与える者、受け取る者、橋渡しする者の上にある」。
賄賂にはいくつかの種類がある。また別の法学者イマーム・カーディーハーン2は、著書 Fatawa (『フェトワ集成』)の法廷の項において、以下の通り四種類あるとしている。
(1)どちらの側の者にも禁じられているもの。例えば、賄賂を払うことで地位を得た裁判官は裁判官たり得ない。(賄賂を)与えることにより、禁じられた行為に加担したのである。受け取る者にも、それは禁じられている。
(2)有利な判決のために裁判官に賄賂を払うこと。例えば、ある者が裁判官に自分に有利な判決を下してもらえるよう賄賂を払う場合。これは裁判官が実際に正当か不当かに関わりなく、与えるのも受け取るのも禁じられている。また判決は無効となる。
(3)与える者には許されても、受け取る者にはそうではない賄賂。例えば自分や、自分の財産に害を加えられる危険を避けるために賄賂を払う場合。この類いの賄賂は、与える者には許されているが受け取る者には禁じられている。もしも専制的な君主が誰かの財産を欲したとする。この場合、一部を差し出して残りを守ろうとするのは罪とはならない。
(4)統治者の支持を取りつけるための賄賂。これもまた、与える者には許されても受け取る者には禁じられている。もしも受け取る者が、自らの行為によって悪しき結末を迎えたくないならば、その際には両者が朝から夕までの一日単位で「服務の宣誓」を用いねばならない。この宣誓は合法であり有効である。もしも「雇用者」が望めば、この服務のために他の「被用者」を使うも使わないも自由である。支持を取りつけるための賄賂が事前に支払われるならば、この法的手段は有効であるとされている。しかし賄賂がそれと分かる形で支払われなかった場合、また支持が取りつけられた後で支払われた場合については、イマームの意見は異なっている。ある者は、このような方法で与えられた場合も合法であると言い、また別の者は合法ではないと言う。前者が正しい。何故なら取りつけられた支持に対する報酬を支払うことは許されるからである。
以上でカーディーハーンの要約を終える。Khulasa や Bazzaziya3 の要旨も、これと同様である。Hidaya の注解者イブン・ハンマームは、Fath al-Qadir4 において以下の通り異なった分類方法を示している。
(1)裁判所、またはその他の官庁へ支払われる賄賂。
(2)裁判官から有利な評決を勝ち取る目的の賄賂。
これらはどちらも、与えるのも受け取るのも非合法である。
(3)危害を避けるか、利益を確保するために統治者に支払われる賄賂。
(4)自分または財産への危害、または危害の危険性を避けるために支払われる賄賂。
これはどちらも、与えるのは合法だが受け取るのは非合法である。
論文の要旨は以上である。以下、見解を示そう。
賄賂はすべて不法であるという信念が、一般の人々の間には広く行き渡っている。賄賂にどのような種類があるのかも分からないまま、オウム返しにお題目ばかりが繰り返される。分かっている人でさえ、このように言う。「口論して何になる?非合法と言ったら非合法だ」。そう言いながらも裏ではこっそりと、賄賂をやり取りしているのである。払わねばならない理由が、天地がひっくり返っても何ひとつ見当たらないような場面であってさえ、誰も賄賂を受け取ることを躊躇しない。賄賂を受け取らない人というのは、何も信仰や神を畏れてそうするのではない。こうした人々は受け取ったことを隠し通すことの難しさや、醜聞への怖れといった思慮深さに基づいて行動しているのであって、むしろ賄賂そのものについては、楽しく好ましいものとみなしている。事実その通りであって、賄賂に対する嫌悪感が皆無であるのが、今という時代なのである。最上の道は以下の通りである。第三、第四の種類の賄賂については、イブン・ナジュムによるカーディーハーンの引用にある通り、悪しき結末から自らを守るためにも、両方の側が「服務の宣誓」を用いるべきである。昨今の官庁での賄賂のやり取りは、裁判法廷における任命を除けば、あらゆる場面でこの方法に従ってやり取りされている。
さて、人々が真実を無効にして誤ったものに固執し、それを常用し続けようとすれば、既存の秩序は混乱の危機を抱えることになる。過去のイスラムの裁判官もスルタンも、危険を回避するために、帝国の腐敗を招く潜在的な原因を除き、賄賂に対しては固く扉を閉ざし、聖法に基づいて彼らの職務を行ない、また彼らの身内をも聖法の下に保ったものである。聖法の遵守が必須であることは、現代においても変わらない。後になって後悔しても何の助けにもならないのである。「われわれとしては法的にも問題がなかったものと認識しております」と、口で言うだけでは無駄である。合法という衣裳を着込もうとも、理性が容認しえない行為は山ほどある。衣裳の下には、様々な腐敗が潜んでいる。
1. Mukhtasar al-Quduri とは、バグダード出身のアフマド・イブン=ムハンマド・アル=クドゥーリー(1037没)によるハナフィー法学の著名な手引書。アフマド・イブン=ムハンマド・イブン・アル=アクター・アル=バグダーディー(1081没)を含め、多くの注釈者を惹きつけた。
2. カーディーハーン・ファフルッディーン・ハサン・イブン・マンスール・アル=ウズジャンディ。フェルガナ生まれ、1196没。
3. Khulasa とは『要約』の意。イブン・バッザーズの名で知られるハーフィズッディーン・ムハンマド・イブン・ムハンマドによるフェトワ集成 Bazzaziya を底本としている。著者不詳。
4. Hidaya については序言 注11を参照。Fath al-Qadir とはその注釈書。著者はイブン・ハマームの名で知られるケマルッディーン・ムハンマド・イブン・アブドゥルワーヒド。スィヴァス生まれ、1457年没。