『真理の天秤』
著 キャーティプ・チェレビー
訳と解説 G. L. ルイス
結語. 著者に対する神の恩寵の詳述ならびに二、三の推奨1
神の恩寵についての詳述。 本書の著者ムスタファ・イブン・アブドゥッラー、またの呼び名をハッジ・キャルファ、あるいは学者諸賢の間ではキャーティプ・チェレビーの通り名で知られる小生、コンスタンティノポリの出身である。父は兵士であったため、法に従って同じ職業に就いた。もって生まれた運と星の影響か、読み書きの技術への傾倒を示した。一〇三二年(1622-3年)、陸軍の会計監査院に実習生として雇い入れられ、その翌年にはテルジャン戦役1に出征した。一〇三五年(1625-6年)にはバグダード遠征2に従軍し、監査院一等書記の徒弟となった。一般には難しいものと考えられている書道、会計、それに siyaqat(スィヤーカト、簿記術)3の素質を持つらしいことが認められたのである。一〇三六年、一〇三七年(1626-7年)にはエルズルム包囲戦4に参加し、その翌年、陸軍と共にイスタンブルへ帰還した。
本書に既出の人物、故カディザーデの名声が、その頂点にあった頃のできごとである。ある日、たまたまスルタンメフメト・モスクの前を通りかかった著者は、説教を聞こうと中へ入った。カディザーデは優れて印象的な話者であり、その説教は聞き手の心を掴んで離さなかった。彼の言葉の大半は、宗教的知識を得るよう励まし、努力して無知から脱却するよう人々に奨める勧告であった。それはまるで聞き手の心の手綱を掴み、修練と勉学の方へ連れて行くかのようであった。それが筆者の父の願いだったこともあって、以前に学んだ付随的な学問の基礎からやり直すと、たちまちアラビア語文法と構文に習熟した。シェイフの講堂に通い、授業を受け、説教を聞き、それはフスレヴ・パシャ戦役5に出征するまで続けられた。一〇三九年(1630年)にはハマダーンおよびバグダード遠征の任務に従事し、それから一〇四一年(1631年)、再びシェイフの講義を受講するためにイスタンブルへ帰還した。受講した科目はコーラン解釈、宗教諸学の復興、それから Mawaqif、Durar、Tariqat の注解である。
シェイフの講義は、おおむね単純かつ表面的なところに終始した。彼は自然科学にはまったく疎かったのである。コーラン解釈に関する質問があると、いつでも決まって以下のごとき格言を引き合いに出した。いわく、
「哲学にびた一文でも払う者があろうか?頭の切れる両替商なら、そのようなものの前に膝を屈するはずもあるまい」
だとか、
「論理学者が死んだところで、誰が涙を流すだろう」
だとか。詭弁である。そういうわけで彼は、「誰であれ、人は自らが理解し得ないものを憎悪する」という格言の真実を、その身をもって例証していた。複数の議論において、彼は世界じゅうの人々を敵にまわしていたが、彼はかなりの数にのぼる書物を読みこなしており、自らの見解と一致する文章を大量に暗記していて、ここぞという場面では、文脈に従いそれらを自在に引き出すことができた。「素早い応答こそ、最も優れた盟友である」。論敵を沈黙させることにかけては、彼は超一流であった。舞踊や旋回に対する大昔の反対論を復活させ、ハルワティー教団やメヴレヴィー教団、それに墓場の管理人たちの敵意を大いに集めた。彼の説教のひとつひとつには、必ずいくばくかの冷笑や嘲笑が込められていた。「おお聖者どの聖者どの!床を蹴って笛吹いて、来たれきたれ、トクゥル=デデ、来たれきたれ、ブカーギリー=デデ!6」。 その一方でスィヴァースィー・エフェンディやイスマイル・エフェンディ、それに他の人々も、聖者を否定する異端者、不信仰者と彼を痛罵したものだった。
かねてからの、預言者たちや教友たちの祝福祈願の実践や定められている以上の礼拝への勧誘といった問題が、多くの議論と論争、紛争を引き起していた。彼は才知に長けて抜け目のない男であったから、こうした議論を、愚か者たちをとらえる罠として利用した。「反論で名を売れ」の原則通り、彼の名声は玉座にも届くほどになった。こうして彼は、同時代の人々からは頭ひとつ抜きん出た著名人になるという、自らの目的を達成したのである。馬鹿ものたちは皆そろいもそろって本気で彼を熱心に見習おうとし、模倣を通じて熱狂したあげく無益な口論に苦しむという、まことに残念きわまりない状態に陥った。今となってはカディザーデの支持者といえば、その過激主義によって悪名高く、世間一般の非難を集めていることは改めて指摘するまでもない。筆者はこれまでも彼らの多くを、節度ある中庸の領域の方へ案内してきたし、たった今この要約を書いているのも、彼らを足枷から解放せんがためである。
一〇四三(1633)年、大宰相メフメト・パシャが最高司令官になったその年、筆者も再び従軍した。隊がアレッポの冬期用営舎に入営している間に、聖なる巡礼7へ行くつもりでいた。筆者はヘジャーズ到着を果たし、メディナでは巡礼と、預言者の墓への訪問を行なった。それから再び、ディヤルバクルで帝国軍と合流した。その冬、筆者はかの地の幾人かの学者たちと共に過ごし、多くを学んだ。
一〇四四(1635)年、筆者はスルタン・ムラトのエレバン遠征8に従軍した。翌年に帰還すると、固めていた決意を実行に移した。十年の間、筆者は遠征と行進に明け暮れた。多くの戦闘や作戦の目撃者となった。それから巡礼や、異教徒を相手に戦う義務も果たした。「われらは今や小さな戦いから帰還し、より大きな戦いへ向かう」との伝承に従い、この時から筆者は勉学の道を歩むことにその魂を使役し、残りの人生を学問の習得に捧げ、あてがわれている収入は、知識の獲得のための経費として使おうと決めたのである。
このような意図でイスタンブルにやって来ると、筆者は神的な示唆を得て文献辞典を書き始めた。アレッポに滞在中、本屋の蔵書を検分しておいたのである。イスタンブルに戻った後で、わずかながら遺産を受け取った。筆者はこれを書籍購入にあて、かなり熱心に仕事に取りかかった。生来の気質に合っていたらしく、歴史や偉人の伝記に取り組むのは楽しいことであるのが分かった。そのおかげで一〇四六(1636-7)年、彼はこの研究を完成させた。
その翌年、また別の親類が亡くなった。裕福な商人で、筆者は数十万アスパーの遺産を相続した。正直な意図と誠実な決断に対する恩恵として、筆者に門が開かれた。暮らし向きを心配せずとも済むようになったのである。天に促されて、諸科学を習得するという筆者の仕事もうまく行くようになった。そして富が筆者本来の性向を助けてくれた。短期間で、多くの分野を網羅することができた。筆者は遺産のうち三十万アスパーを書籍に費やした。そして残りの一部を新居の購入にあてて、自らの家庭生活に必要な条件を満たすこととし、後は生活資金として取っておき、それから新たに見つかった健康上の問題を治療するのに用いた。
一〇四八(1638)年にスルタン・ムラトがバグダードへ出征9した際、筆者は以前の決意通りに、従軍に関する一切の考えを意識から追い払い、多忙を口実に家で過ごした。
その頃、美徳と洞察力を備えた知性で名高い「アーレジュ(跛足)」、ムスタファ・エフェンディが裁判官の職務を退任し、教育に食指を伸ばして講義を行ない始めた。私は、彼によるアル=バイダーウィーの『注釈書』の講義を、第一回目から受講した。宗教の諸科学についても宗教以外の諸科学についても、今までに受講したことのあるどの講義、どの学者よりも、彼が多くの知識を持っていることが分かった。そこで私は、彼を自分の師に選ぶことにした。彼の方も、私に一番多くの好意を寄せてくれ、他の学生とは違った関わり方をしてくれた。私たちの間には真の友情が育ってゆき、それから長きに渡って、私は彼に教わり、共に過ごすことを楽しんだ。一〇四九(1639-40)年、私は聖ソフィアで Ders-i amm(講師)を務めるクルドの人、アブドゥッラー・エフェンディの講義を、翌年にはスレイマニエの講師コチ・メフメド・エフェンディの講義を受けた。宗教の諸科学についても宗教以外の諸科学についても、アブドゥッラー・エフェンディは達人であった。メフメド・エフェンディは完璧なアラビア諸学の学者だった。宗教とは関わりのない世俗的学問に言及するときは、公正にも彼は常にこう述べた。「もしも私の知らないことがあれば、誰でも知っている者に遠慮なく話させるのがよい」。カディザーデとは違い、彼は自分が知らないものを軽んじたり、拒絶したりすることはなかった。
一〇五〇(1640-1)年、シャフラーニー・アフマド・ハイダルの弟子ヴェリー・エフェンディがやって来た。筆者は彼と論理、辞書学、文体の様式などについて議論を交わした。
一〇五一(1641-2)年、筆者は、歴史書に登場する百と五十の王朝について、その概要を解説した一覧を書き、これに Fadhlaka(『概説』)と題名をつけた。シェイヒュル・イスラムであった故ヤフヤ・エフェンディに、スルタン献上用の清書を用意するよう言われたものの、これはやらずじまいであった。
続く翌年、口伝による伝承の経路に連なるべく、筆者は伝道師ヴェリー・エフェンディから Nukhba と Alifiya10 の教えを受けはじめ、その二年後、伝承の基礎についての学習を終えた。この師はエジプトでシェイフ・イブラヒム・ラカーニー11の門下にいたことがあり、二人ながらに途切れることなく最も高貴なる預言者(神よ、彼に祝福と平安を授けたまえ)に遡れる(伝承の)鎖でもあった。そうしたわけで慎ましき筆者も、イスナード(伝承の経路)に鎖のひとつとして加われることになった。
その間も筆者は、バイダーウィーとシェイフザーデ12をとり混ぜたコーラン解釈を、カラ・ケマルが Sadr al-Sharia 解釈を著した際の文体を拝借して、一日一ページの進捗具合で書き始めていた。
一〇五三から一〇五四(1643-5)年も、講義に出席しては勉学にはげむうちに過ぎていった。十年の間、夜となく昼となくはげんだおかげで、筆者は数えきれないほどの書物を読破し、ほぼすべての科学の習得に成功した。ある書物をどうしても読みきってしまいたいと思えば、日暮れから夜明けまでロウソクを灯した。決して、疲れたり飽きたりすることがなかった。
十年めが過ぎようという頃には、生徒たちが筆者のところへ学びに来るようになっていた。生徒たちには、最初は諸科学の基礎を学ぶところから始めさせた。故ヤフヤ・エフェンディには「講義を授けると言ったって、きみは解釈を学んだことはないだろう」と言われたものだが、慎ましき筆者もこう答えたものである。「生徒たちはよく学んでいる。解釈には、ほとんど煩わされずに済んでいるおかげでね」。私の教え方とは、ありとあらゆるものの多元性をタウヒードの道に則してたたき込む、というものだった。普遍概念の理解を通じて、第一原理を習得させるのである。私は昔から、微に入り細を穿つことに人生を捧げ、分野をひとつに絞ってその枝葉末節にまで熟達する、などというのは時間の無駄だと結論づけていた。天にも届くほど高い目標を掲げた男なら、たったひとつの分野に拘束されることには決して満足しないものだ。
一〇五五(1645)年、クレタ島遠征13が始まった。地球と、陸地や海洋の概略に興味を持ち始めたのもこの頃である。それは私の趣味に合っていた。「海図」と呼ばれる図画がどのように描かれるのかを学び、これに関するあらゆる図版入りの書籍を、一冊づごとに丹念に調べた。
同時に一方で、私は自分の職務経歴上のことが原因で、監査院の書記長官と口げんかをした。私は言った。「以前なら、勤続二十年めの者は書記に昇格する決まりだったはずだ。私の順番はどうなっている」。しかし彼は、書記の地位は終身制であり現在は空きがないと決めつけ、これを撤回しようとしなかった。そこで私は彼に、ごきげんようと告げて休職期間に入った。
この状況は研究には好都合で、私はいっそう多くの働きをこなすようになった。三年の間、私は仕事もせず隠遁してものを書き、教えることで忙しく過ごした。この時期が終わる頃には、私は故アーレジュ・エフェンディと共にアドゥードの法源注釈の半分、 Ashkal al-tasis 注釈とチャグミーニー14、アンダルースィー15の Arud(『作詩法』)、それにウルグ・ベグ16の Zij(『年鑑』)から暦の計算法を学んだ。その前にはコーラン解釈について Tawdih の講義を受けていた。それからイスファハーニー、カーディー・ミール17、Adab al-bahth(『討論の作法』)18、ファナーリー19、Tahdhib 注釈、それに Shamsiya20 なども。
一方で私の生徒たちも文法論の基礎に始まり、論理学についてはファナーリーと Shamsiya、それからジャーミー21、Mukhatasar、Faraid、Multaqa、それに Durarなどを学んでいた。幾人か、科目をすっかり修了した者もいて、こうした者たちにはカーディー・ミールによる Maqasid 注釈の、総合的な部分22から読ませていた。
筆者の体調に狂いが生じたのはこの頃のことである。調子を整え回復させるために、医学に取りかかったきりになった。精神的な手段で癒せるようにと姓名判断の本を読み、神の美名の暗唱を通じて生じる特別な益に関する書も読んだ。こうして体調は回復した。
一〇五七(1647)年には、当時の独創的な思想家の一人、アクヒサルのアフメド・ルーミーの息子メヴラーナ・メフメドが、筆者の家の近くに住み始め、数学の講義を受けにくるようになった。幾何学については Ashkal 解釈を、算術についてはアリー・クシュジュ23の Muhammadiya を購読し、それから天文表を用いた暦の作成規則を学んだ。彼には、科学の深遠さを研究するのに適した才能があった。この弟子の要望があって、わたしは Muhammadiya の前半部分の全般的な注釈を書いた。しかし彼もそうだが筆者の息子も、あまりにも優れた知性というのは明らかに致命的なものである。どちらもがこの世を去ってしまい、もはや完成させようという気も失せて、注釈は未完のまま終わった。その後、もう十人ばかり Muhammadiya の購読をやった弟子たちがおり、注釈の続きを書いてほしいとせがまれたが、しかし彼らの能力は死んでしまった二人の水準には到底及ばず、私の熱意も関心も衰えていった。
休職の期限も終わりに近づいた頃、私は二ヵ月で Taqwim al-tawarikh(『歴史の暦』)を書き上げた。これは以前に書いた Fadhlaka を補追する索引で、部分的にトルコ語とペルシャ語を使い分け、図表もふんだんに盛り込んだ魅力的な仕上がりになっていた。一〇五八(1648)年の終わり頃、シェイヒュル・イスラムだったアブドゥッラヒーム・エフェンディがこの書を、以下の書きつけを添えて大宰相コジャ・メフメト・パシャに送った。「この人物は十分に高位に値する。彼には世間的な野心が全く欠けており、地位も栄誉も欲していない。公職において彼を昇進させるために必要な手続きがあるなら、何であれ遂行されねばならぬ」。
私は彼の講義を受けていたし、何度か学術的な議論を交わしたこともあり、それで私の著書を何冊か贈呈してもいた。彼は私の価値を完全に認めてくれ、時々、歴史の話をしようと言って誘い出してくれたりもした。こと歴史関連なら、彼は私を信頼に足る権威とみなしてくれていたのである。悪意ある敵どもが数人おり、パシャが私を嫌うようにと、あらゆる努力を惜しまなかった。金をばらまき、好ましからぬ報告書を書き、しかしどれも功を奏することはなかった。彼は私に、私の職位が明記された証明書を発行してくれた。二等書記。それが私の選んだ地位である。学問の恩恵と人々の好意が、やつらの金に打ち勝ったのだ。もうずいぶんと以前に、彼ら神に見捨てられしものはすでに惨敗していたのである。
私はこの昇進に満足していた。生計を立てるには十分であるし、これ以上を望む理由はない。この先も、この地位でやっていくのが理想的に思えた。
一〇五九年から一〇六〇(1649-50)年、私は諸外国の科学書24を読んでいた。弟子たちは医学、数学と哲学の講義を受けていた。天文学については Si fasl(『三十の分類』)、アストロラーベについては Bist bab(『二十の章』)25を、カーズィーザーダ・ルーミーのチャグミーニー注釈やアリー・クシュジュ Fathiya の講義と共に、何度も繰り返し演習した。
一〇六一、一六〇二(1651-2)年、私の、学者の人名辞典 Sullam al-wusul ila tabaqat al-fuhul(『卓越の階梯へと至る梯子』)第1巻が完成した。この巻にはター26の字の項までが収録されており、清書写本も作成された。この書は古代から現代に至るまで、傑出した人物の歴史を描き出したものである。一〇六三(1653)年には、Tuhfat al-akhyar fi’l-hikam wa’l-amthal wal-ashar(『偉人たちの素晴らしき贈り物 名言、格言、そして詩』)という一般書を書き、アルファベット順にジームの項まで完成し、これの清書写本が作成された。
これまでに蒐集してきた文献資料を、歴史から人名事典から、私は適切な順序に整理整頓した。それから図書館の何千、何万という書籍を個人的に調べあげ、更に二十年に渡って本屋が定期的に持ち込んでくる書籍、これらを適切に系統だてて記録し、更に科学原則の教科書群から抜粋した、あらゆる分類に枝分かれした知識についての三百以上の記事を加え、これらをすべてアルファベット順に並べた上で、私は多くの項目を取り上げ、議論や目先の変わった問いを立てていった。私はこれが、諸科学の知識と文献学に関する包括的な研究となるよう意図しており、それを Kashf al-zunun ‘an asami’l-kutub wa’l-funun(『書籍と諸学の名称に関する諸見解の開示』)と名づけた。下書きの段階でこれを見た学者たちの要望もあって、ハーの字の項まで出来上がったところで第一巻の清書写本が作成され、主だったウレマーたちに贈呈された。彼らはこれを気に入り、承認を与えてくれた。
かねてから私は地理学に関する研究をまとめ始めており、これを Jihannuma(『世界の鏡』)と名づけておいた。ムスリムの書籍には、異教徒たちの土地に関する議論がない。そこで私はフランクの言葉で書かれた書物 Atlas Minor27 の地図欲しさに、これの翻訳に手をつけた。
シェイフ・メフメト・イフラースィーという人物がいた。ムスリムに改宗しているが、元はフランスの聖職者でラテン語に精通していた。翻訳は一年半で完成し、Lawami al-nur(『光のきらめき』)との題名がつけられた。それから今度は、Jihannuma の清書に取りかかった。同様に『フランクの歴史』28も翻訳した。これはコンスタンティノポリの歴史を描いた Rawnaq al-Saltana(『スルタンの壮麗』)のような、異教徒の王たちに関する歴史書である。年代順に整理され、記述も非常に緻密な Fadhlaka の翻訳も短期間で仕上げた。
シェイヒュル・イスラム在職時、故バハーイー・エフェンディは風変わりな三つの質問に対するフェトワを求められた。待てど暮らせど返答がないので、私はそれを解説する小論を書いた。これとは別に、帝国の統治に関するもうひとつの小論を書き、Dastur al-‘amal fi islah al-khalal(『混乱の改革における理論と実践』)と名づけた。
一〇六四年、一〇六五(1653-6)年には Qanunname-i tashrifat(『典礼論』)と、Rajm al-rajim bil-sin wal-jim(『スィーンとジームによる呪われし者の石打』)29という、珍しい問題に関するフェトワをムフティ自身の自伝から書き写してまとめた書を書いた。最初に〈著者の所有する〉書架にある四千あまりの論文に、要旨ごとの索引を作って選別し、そこから更に三百ほどに編集した。多くの書籍の内容を要約した二巻の書が完成した。Nigaristan-i Ghaffari30 から驚天動地の事実や逸話を抜粋、編集した続編も作った。
一〇六六(1656)年、海運事変による混乱31が生じたとき、私は海戦や遠征時の指揮官がいかにあるべきか、海洋や造艦についての若干の情報も含めた Tuhfat al-kibar fi asfar al-bihar(『海路遠征にかかる偉人たちの贈り物』)の草稿を書いた。この書は一〇六七年サファル月(1656年11-12月)に写本が作成された。
給金を受け取る手前上、この間も私は週に一日か二日は職場に出勤していた。その他の時間は幸運にも、議論や読書、執筆に使うことができた。残りの人生も同じように過ごしてゆきたい。それが私の望みである。
吉報について。 本書を清書し始めていた一〇六七年ムハッラム月第十四日(1656年11月22日)の日曜日前夜、世界の栄光(神よ、彼に祝福と平安を授けたまえ)が、いやしきこの私の夢に現れた。彼は広々とした平野にいた。戦士の身なりをしており、剣を構えて出陣するところだった。彼ははるか遠く離れたところにおり、側近や従僕たちに囲まれていた。私は彼の威厳あるその眼前に立ち、科学に関するある特定の問題について質問すると、彼はそれに答えてくれた。ひとつだけはっきりと覚えているのは、彼は立っていたが、私は半分立ち、半分座っていたことである。質問している間じゅう、私は彼の祝福されし膝に口づけていた。それから「おお、神の預言者よ。私がこの身を捧げるべきは誰か、その名を教えてください」と尋ねると、彼は答えた。「汝は預言者の名にその身を捧げよ」。大音声が耳をつんざき、それで目が覚めた後もまだ頭の中で鳴り響いていた。
この夢で、彼は私に多くのものを指し示し、導いてくれた。第一に、彼が戦争のために装い、取り囲まれ、剣を帯びた姿で現れたのは、かの島々における目下の聖戦において、いかにして救い難き異教徒ども相手に勝利するべきか、その方法を示しているかのようだった。古い時代の、信仰のための遠征について書いている最中だった私は、この感触を心の深くに留めおくことにした。預言者の名に身を捧げるように、と告げられたことの解釈は以下の通りである。私は以前、Dastur al-amal の後書きに、ある解き難い謎のような発言を残しておいた。それについての考えは当然ながら、今でも私の心の中にあった。彼の言葉の中には、私のこの考えとも調和する喜ばしい兆しがあったのである。そしてそれが暗に指し示している方向は明らかであった。以前、私は法学の講義に忙しく過ごしている時期があった。私は法律学の全体像を学び、コーラン解釈と伝承をシェイフたちと議論した。最近、私のところへ学びにやってくる生徒たちには数学や自然科学の授業を受けており、宗教的な学問はすっかり棚上げにしたままだった。彼が命じていたのは、これである。すなわち「それらの学問の授業を再開せよ。それこそは、わが人生のあり方に従うための手立てである。汝の目的を達したならばその時には、汝の仲裁として私を連れてゆくがよい。つまり、汝が神の御名を探すなら、汝は私の仲裁によって最後にはそれを得られよう。何故なら汝はわが共同体の民である。ゆえに汝は、汝の預言者の名において接近を求めることにその身を捧げよ」。
空を飛ぶには二つの翼が必要になる。一つだけでは前に進めない。自然科学と宗教は、いわば二つの翼なのだ。その後の私は、宗教を学ぶことに身を捧げようと決意した。全能の神が、私に成功を授けたまいますように。
これより前の一〇六一年ムハッラム月第四日(1651年1月7日)、水曜日前夜にも彼にまみえる栄誉を授かっているから、これは私の人生に二度も起きたということになる。神に称賛と感謝あれ。これで神の恩寵についての詳述を終える。以下、私からの推奨を述べる。
一. まずはじめに、人類のスルタン –– 神が彼を強めたまい、復活の日が訪れるまで彼の帝国を不朽としたまいますように –– への推奨を述べる。科学と宗教の問題に関しては、彼は信仰の儀礼と義務を果たし、イスラムの教義を理解し、それから財務、軍務、諸問題について可能な限り把握せねばならず、何故ならそれらが彼の公的な教理となるからである。
強大なる彼の祖先のように歴史を学び、彼らの傑出した行動の物語から教訓を得ねばならない。人間の慣習を学び、崇高なる帝国の古き法を、時に応じて寛大にも冷酷にも実践せねばならない。
この点において王朝の全ての宰相と領内の傑士たちは、あらゆる努力と善行をもって彼らの慈悲あふるる主人を助け、支えねばならない。ムスリムどうしの不一致に対しては、あたたかく見守っている場合ではない。彼らの間に起こる争いや戦いについては、思いやりと優しさをもってこれを取り除かねばならない。異教徒に対する聖戦を命じる際には、神の定めたもう諸法の実践を軽視しては絶対にならない。
二. 学問ある伝道者への推奨。 ここにわれわれは説教や説諭に関する若干の規則とその解説を含めておく。これにより会衆たちも礼節を感じ取り、説教に集中するようになるであろう。
規則その一. 説教においては、市民の慣習や慣例に反する意見は述べないこと。それは軋轢や反乱の原因になる。
規則その二. ムスリムの間に意見の対立がある場合、優しさ、公正な言葉、それに愛嬌ある助言を用い、彼らの心をなだめ、敵意と悪意を取り除くための説教を用意すること。どちらか一方の肩を持ち、悪意を込めてもう一方を非難するような説教は絶対にしないこと。それは敵対を悪化させる。
規則その三. 神の命じるところに従い、禁じられたものを避け、信仰の義務と法令を実践するよう一般大衆に対して訴える際には、賢明かつ温和であること。神の契約と脅威を持ち出して彼らを怯えさせる際も同様である。すっかり安心させるのも、絶望させてしまうのもよくない。どちらか極端に偏らないようにすること。畏れと期待の中間がよい。畏れが先行するようなら、そのままにしておくこと。
規則その四. 説教はいつでも時勢に適したものとすること。どのような伝承や伝統であろうが、特定の日付や月に関する美徳なり、毎日、毎晩の日常の事柄なりと関連づけ、訳出し、解説すること。それが一般大衆を益することになる。教義的には正統とはされない、根拠の弱い伝承を語ることに害はない。伝統的な背景を持つ実践や、定められた以上の礼拝については奨励し、単なる習慣に過ぎない事柄については一切言及しないこと。本当に、たとえそれを説教で取り上げてほしいと正面きって頼まれようが、沈黙を守るに越したことはない。
規則その五. 普通の人々の理解を超えた深遠な問いを発さないこと。「壮麗かつ神聖なる領域」などといった感銘深げなスーフィーの用語を使ったり、会衆の大部分を占める一般人には不適当な語彙を口にしないこと。むしろ明白で分かりやすい警告や寓話を語ること。イマーム・ラジーブ・イスファハーニーは著書 al-Dharia ila makarin al-shariaa(『法の恩寵を受け取ることの意味』)や Tafsil al-nashatayn wa-tahsil al-saadatayn(『二つの因の解明ならびに二つの至福の成就』)において、以下のように述べている。「説教は一般大衆のためのものであり、少数のためのものではない」。そういうわけで、受け継がれてきた伝統を守るには「彼らの理解に合わせて話せ」。聴衆のほとんどは理解力を持ち合わせていない。彼らの合理的精神は無知を知識に変えようという傾向も持たないので、むしろ嫌悪して背を向けるだろう。その嫌悪は、体内の血の気を内省に向かわせる原因となる。すると続いて眠気が起こる。説教やフトバの最中に、ほとんどの人が眠っている理由がこれである。フトバはアラビア語で行なわれるし、たとえ多少は理解できたとしても、その意味にまでは精通していないのである。
規則その六. 説教の主題に関連して、場合によっては逸話や寓話、小咄、それに詩の一片などが挿入されることもあるだろう。だがそれはあくまでも食べ物に足す塩であって、食べ物ではない。
規則その七. より多くの聴衆を得て有名になりたいからという理由で、本書で扱ったような論争だの、それと類似する微妙な話題だのを語りたがるのはやめること。一般大衆に対しては、むしろすぐにも使えそうな、彼らのためになることを話すこと。たとえば合法と非合法、礼拝と断食、教義の概要、イスラムの信仰と実践についてなど。魅力的な口ぶりで快活に話す者の話であれば、大衆は耳を傾ける。説教師に学がないなら、せめて聴衆を苦しめることのないよう、良い説教の規則に従うこと。
三. これはごく普通のムスリムたちに対する推奨である。全能の神と本当の預言者が語ったのであるから、その言葉には従わねばならない。日々、定められた五回の礼拝を行ない、ラマダン月には断食をし、喜捨を与え、可能であれば巡礼に行き、そして嘘をつかないこと。誰の名誉も財産も傷つけてはいけない。取引は正直に行なうこと。それらとは別に自分自身の職業を、それが何であろうとまっとうすること。説教は週に一回、金曜に聴けばそれで十分である。理解力の及ぶ限り、内容のあるはなしをせよ。「今日は説教師の誰それが、しかじかの話をしていたよ。彼が言うにはこれこれの問題はあれがああでこうだから云々」というような言葉は、会話には不要である。学者どうしの論争に、無学の者は立ち入らないこと。32
四. これは特に慎ましき著者に学んだ生徒たち、またその他の学生一般に向けたものである。以下、優れた学者カーディー・ミールに倣い、彼がその著 Jam-i gitinuma(『世界の魔法の鏡』)の結びで助言を与えているのと同様に、私も助言を与えることとする。
第一に、教わるに足る能力のある者が、知識の諸要素を学べ。イスラムの教義が何を主張しているか、要旨を身につけるのはその後である。それから、多様な知識の分野を学ぶことに専念せよ。秩序立てて、タウヒードに従いあらゆるものを多義的に取り入れ、ひとつの分野を完全に習得してから別の分野に手をつけること。何をもって生計を立ててゆくかを決めねばならず、またそれに関連する分野についての知識には、完全に熟達していなければならない。その上で、もしも時間が許せば更に別の分野を学ぶのもよい。学修が完成を見るまでは、学者階層の中に職の空きがないか探したり、推薦を求めたりするな。裁判官もムフティーも、説教師もイマームも、書記も官吏も、秩序ある職業の番人である。これらは職位の義務に没頭することが要求される。忖度から生じるその場限りの思いつきは抹消されねばならない。こうした問題に忙殺される立場というのは、特定の分野の知識を詳細に渡って網羅しているということであり、それも秩序的もしくは組織化されたあり方ではなく、誰であれ嘆願なり、主張なりを持ち込んでくる者たちの要求に沿ってのことである。そういうわけでルームの傑出した学者、ブルサのホジャザーデ・エフェンディ33は著書 Shaqa’iq において、以下の記述を書き残している。「アル=ジュルジャーニーこそ、間接的にはわが師である。私はすべてを彼の書に教わった。学ぼうという意図のもとに目を通した純粋理論科学に関連する書籍は、彼の著作とサアドッディーンのそれの他には皆無である。いくつかの障害の妨げがなければ、私もかのサイイド・シャリフの学識に達することもできたかもしれない。第一に、彼は健康だった。ところが私ときたら病弱である。次に、彼は人生の最初から最後まで講述をしたため、秩序正しく働いた。ところが私の労働の時間は、本質的には無関係なところで発生する義務に浸食されている。すなわち裁判官やムフティーとしての義務に忙殺されて、本来の仕事にまったく手がつけられないのである」。
さて、もしも誠実なる学徒がしっかりと地道に学問を身につけてゆきたいと心の底から望むなら、法廷職には関わらず、何か他の生計の道を探すべきである。スンナ派の教義を完全に習得した後は、啓典とスンナ、そして共同体の合意という名の砦に向かうべし。コーランと伝承、それに法学の熟達者と聖者の言葉を判断の基準とするようにせよ。その後で哲学者や思弁神学者の著作、それにスーフィーの言葉を学べ。それにより益を得、「明白なものを取り、疑わしきは避けよ」の原則に従い、それぞれの思想や論証から有益と思われるものを受け入れよ。それらのうちひとつたりとも否定したり、拒絶するなかれ。われわれがすでに警告した通り、偏狭さの落し穴を避けよ。
言うべきことは以上である。これにてわが小論を終える。真理と至高と全能の神が、われら全員に良き終末を授けたまいますように。そして主が、われらを理性の道から、主の慈悲ふかき御好意から、主の栄光と恩寵から逸らさせることがありませんように。アーミン。
1. エルズルムの州知事、アバザ・パシャの反乱の鎮圧を目的とした1624年の戦役。アバザ・パシャは、特に1622年のオスマン2世暗殺の際にイェニチェリが加担したことをもって、彼らを帝国に対する横暴な危険分子とみなし、解体すべきと考えていた。戦役は決定的な結果をもたらすものではなかった。エルズルム城砦に2,000名のイェニチェリを駐留させるという条件で、アバザ・パシャは州知事の地位を保証されることになった。
2. 1624年にペルシャ人に占拠されたバグダードの奪還作戦。1625-6年に行われたが、不成功に終わった。
3. Siyaqat スィヤーカトとは「財務暗号」である。オスマン帝国の財務用に特化された書体で、改ざんや外部への漏えいを防ぐため、故意に変形が加えてある。
4. バグダード遠征の混乱は、アバザ・パシャには有利に働いた。彼を排除するよう命じられたイェニチェリをことごとく抹殺したのである。1927年9月12日から11月25日にかけてエルズルム包囲されたが、しかし城砦は持ちこたえた。1628年9月、自分の支持者たちに危害を加えないという条件の許、彼は降伏した。協定は守られ、その後アバザは帝国に対して卓越した仕えぶりを発揮したが、1635年8月、スルタン・ムラト四世によって処刑された。彼に野心のあることを疑ったためと思われる。
5. フスレヴ・パシャは1628-31年に大宰相ならびに軍司令官を務めた人物。これ以外にも、やはり不首尾に終わった1629年6月-1630年11月のバグダード遠征を率いている。バグダードは1638年12月まで奪還されることはなかった。
6. トクル・デデは出典不詳の聖者。その名はThekla (聖者)の転訛を、さらに崩し読みしたToqmaq (「木槌」)の意である。イスタンブル北部、金角湾のアイヴァンサライ近郊にある霊廟(turbe)が彼の墓所であると考えられていた。適齢期を迎えた少女たちは、備えつけの木槌を肩にのせて墓の周囲を三回まわり、「わが幸運、わが運命、どこにいようとも、わがもとへ来たれ」と唱える。それから、後ろを振り返らずに霊廟を立ち去る。同様の「お参り」をしにやって来た、道で最初に出会った男が、彼女たちの未来の夫となる(Mehmet Halit Bayri, Istanbul Folkloru, Istanbul, 1947, p. 154; Hasluck, op. cit., p. 18)。ブカーギリー・デデも、おそらく前者と同じたぐいの、地域に固有の聖者である。カディザーデの冷笑が、聖者を讃えるお祭り騒ぎに向けられたものであることは間違いない。
7. 1632年から1637年2月まで大宰相を務めたのはタバニヤシ・メフメト・パシャ。軍勢は一〇四三年ジュマーダー月第二日/西暦1633年12月にアレッポに到着。巡礼は1634年7月に行われた。
8. 1632年から1637年2月まで大宰相を務めたのはタバニヤスィ・メフメト・パシャ。軍勢は一〇四三年ジュマーダー月第二日/西暦1633年12月にアレッポに到着。巡礼は1634年7月に行われた。
9. エレバンは1583年にペルシャ人から陥落していたが、 1604年に再び奪還されていた。ここで言及されている遠征では、当地の太守から持ちかけられた楽天的で遊興的な八日間の休戦協定を拒否したのち、ほんの一週間ほどで再征服に成功している。終わり頃になってペルシャ人の援軍が到着していなければ、彼らは降伏していただろう。
10. 伝承に関する書籍二冊。アル=ハーフィズ・シハーブッディーン・アフマド・イブン・アリー・アル=アスカラーニー(852/1448-9没)著 Nukhbat al-fikr fl mustalah ahl al-ithr ならびにアル・ハーフィズ・ザイヌルッディーン・アブドゥッラヒーム・イブン・アル=フサイン・アル=イラーキー(806/1403-4没)著 Alfiyat al-Iraqi fi usul al-hadhithを指す。
11. イブラヒム・イブン・イブラヒム・アル=ラカーニー(1631没)は、カイロのアル=アズハル・モスクで教鞭をとっていた人物。
12. シェイフザーデ・ムヒーユッディーン・メフメト・エフェンディ(1544没)。バイダーウィーの注釈に対する学術的な解説を著した。
13. ヴェネツィアからのクレタ島奪取は1645年5月に開始され、8月末には征服が完了した。
14. Ashkal al-ta’sis は、シャムスッディーン・ムハンマド・イブン・アシュラフ・アル=サマルカンディー(西暦1203没)による幾何学書。三十五のユークリッド命題が収録されている。フワーリズム出身の学者マフムード・イブン・ムハンマド・アル=チャグミーニーは、808/1405-6年に完成した天文学の書 Mulakhkhas(『概説』)の著者。両書籍の注釈が、ムーサー・イブン・ムハンマド・カディザーデ(1413以降没)によって著されている。
15. アブー・ムハンマド・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・アル=アンダルスィー、549/1154-5没。
16. ウルグ・ベク(1449没)はトランスオクサニアの統治者であり学者。ティムールの孫にあたる。天文表をまとめた彼の著作『暦』の、トーマス・ハイドによるラテン語翻訳が、ペルシャ語原典と共に1665年、オックスフォードにおいて発刊されている。
17. フサイン・イブン・ムイーヌッディーン・アル=マイバーディー・アル=カーディー・ミール(910/1504-5没)はダッワーニーに師事し、アスィールッディーン・ムファッダル・イブン・ウマル・アル=アブハーリー(663/1264-5没?)著 Hiddyat al-Hikma の解説を執筆した。これは論理学、自然科学、神学に関する論考だった。カーディー・ミールの解説書は、20世紀に至るまでトルコのメドレセで教科書として使用されていた。
18. Adab al-bahth には同名の書がいくつか存在し、そこにはイージーによる一冊も含まれる。
19. 「モッラー・ファナーリー」、シャムスッディーン・ムハンマド・イブン・ハムザ(1351-1432)は多才な学者であり、その論理学の著書は今世紀にいたるまで使われ続けている。彼はその知的好奇心によってよく知られる人物である。
20. al-Shamsiya とは、ナジュムッディーン・ウマル・イブン・アリー・アル=カズウィーニー(693/1293-4没)による論理学入門書。
21. ここでの「ジャーミー」(人名)は、学術指南書を指す一般的な名称であるjami (『集成』)のスペルミスであると思われる。
22. この部分は明瞭ではない。al-Maqasid(意図、目的の意)と呼ばれる書物は数多く、その中にはウルグ・ベクの Zij 解説の著者であるミーリム・チェレビー・マフムード・イブン・ムハンマド(1525没)の書も含まれている。ここで言及されているのがこの書であるならば、「個人的な事柄」の反対としての「総合的な部分」という意味のはずである。キャーティプ・チェレビーの天文学観については序言を参照。
23. アリー・クシュジュはウルグ・ベクの弟子・協力者の一人。ウルグ・ベク天文台の監督者を務めた、Zijの共著者でもある。ウルグ・ベクの死後、アゼルバイジャンのカラ・コユンル(白羊朝)統治者ウズン・ハサン(在位1466-78)に伺候した。メフメト二世への使節としてイスタンブルに派遣され、その後イスタンブルで教師となる。1474没。al-Risalat al-Muhammadiya は、彼がペルシャ語で執筆した数学の小論の、彼自身によるアラビア語訳。またFathiya(後述)は、シンプルな天文学の入門書である。
24. 諸外国の科学( al-‘ulum al-ghariba )とは、宗教ならびに宗教を学ぶ補助的学問に含まれない、医学、地理学、幾何学などを指す。
25. Si fasl および Bist bab はナースィルッディーン・トゥースィーの著書。
26. ターは31あるオスマン文字のうち第4番目にあたる。類似するオスマン語書籍の中でも、この辞典をユニークなものとしているのは、ムスリムの学者だけではなく、ギリシャ人たちの伝記も含めてある点である。
27. Atlas Minor Gerardi Mercatoris, a J. Hondio plurimis aeneis tabulis auctus atque illustratus. Hondius (Judocus), Arnhemii, 1621. ゲラルドゥス・メルカトル『アトラス・ミノール』。キャーティプ・チェレビーによる翻訳書の正式な題名は、その他多くのアラビア語書籍と同様に韻を踏んでいる:Lawami al-nur fi zulumat Atlas Minur(『アトラス・ミノールを照らす光のきらめき』)。
28. 『フランクの歴史』は、フランクフルト出身のヨハン・カリオンによる Chronicles の訳書。1531年の初版以降、増補されていった。
29. 「呪われし者(サタン)の石打」といえば、それは巡礼中に行なわれる儀式のひとつの呼び名である。スィーンとジームの文字の数価はそれぞれ60と3である。 この書は失われているが、おそらく全63のフェトワを収録していたのだろう。
30. アフマド・イブン・ムハンマド・ガッファーリーの Nigaristan は、ペルシャ語による歴史物語や逸話の集成。1552年に完成している。
31. 1656年6月26日、オスマン帝国艦隊はヴェネツィア艦隊との交戦のためダーダネルス海峡へ出航し、敗退した。敵軍はレムノス、テネドス、サモトラケといった諸島を占領して海上からイスタンブルを封鎖し、この状態は1657年8月まで続いた。これが著者にどのような天啓をもたらしたかについては、「吉報」以下の著述を参照。
32. H. H. ロウリー牧師(マンチェスター大学ヘブライ語教授、名誉神学博士)の公開講演 The Dead Sea Scrolls and Christian Origins(The Listener, 1 November 1956)における結びの言葉と比較。「……真剣な学者であれば、(死海)文書と新約聖書との類似からも、あるいは相違からも目を背けはしないだろうし、またそれらのどちらをも恐れるべき理由はない。聖書の一般的な読者に関する限り、何があろうともそれが聖書の権威を損ねたり、あるいはキリスト教の教義に影響を及ぼしたりといったことは全くないものとして安心していい」。
33. ホジャザーデ・ムスリフッディーン・エフェンディは1488年に、ブルサでのムフティー職の任期中に亡くなった。