其の二.

『直観』
著 アフマド・ガッザーリー
訳と解説 ナスロッラー・プールジャヴァディ

 

其の二.

それ1が空っぽの館を見つけ、鏡が清浄になったとき、姿かたちが映し出され、精神の純粋さという空中にしっかりと納められる。これの完成とは、精神が彼自身の目で自らを吟味したくなれば、いつでも愛される者のおもかげ paykar や彼女の名、彼女の性質などが共に現れるようになることである。この変容は、時 waqt の指示に沿って起こる。愛はとばりとなり、彼の精神が自らを検分することを遮る。自らを省みる目を圧倒してしまうのである。その結果、鏡に映し出される精神のおもかげは愛に取って代わられ、精神は自らではなくそれを見ることになる。これについて、彼2は言う。

私の目はきみのおもかげで占められている
だから何を見ても、きみにしか見えない

これは、彼が自分自身へと至る道の途上における愛ゆえである。そのため、彼をすっかり支配している愛を通り過ぎること無しに、彼は自分自身にたどりつけない。しかし愛の威力は、(精神の)まなざしが(精神が自分自身を見たいと望んでいるにも関わらず、彼自身の姿に)注がれるのを阻む。何故なら恋する男の嫉妬は他人に向けられるものであり、決して自分自身に向かうことはないからである。3

毎夜、わが愛する者のおもかげはわが本質となり
私自身の本質は、新たな私を囲む幾千もの守護となる4

私とは私の愛する者、私の愛する者とは私であり
私たちは、ひとつの体に住まうふたつの精神である
私を見るとき、きみは彼女を見るだろう
彼女を見るとき、きみは私を見るだろう

後の方の詩は同じ意味に触れたものだが、詩人5は本筋から逸れている。二行目において、彼は「私たちは、ひとつの体に住まうふたつの精神」と言う。ここで彼は、合一から二元性へと足を踏み外している。一行目はより真実に近い。何故なら「私は私の愛する者であり、私の愛する者は私である」と言っているからだ。合一の概念については、他の詩人によって次のように語られ、正確に表現されている。

私は言った、おお、偶像よ。私はおまえを、わが愛する者と考えていた。
だが良くよく観察すれば、おまえは私の魂以外の何ものでもなかった。

彼はその詩を、以下のように締めくくっている。

もしも汝が私を去れば、私はわが信仰を失ってしまう。
おお、わが精神よ、世界よ、汝らはわが信仰、わが背信である。6

彼は「もしも汝が私を去れば、私はわが魂を失うだろう」と言うべきところを、言わずに済ませている。しかしこれは詩の言葉であって、形式と韻律に規定されざるを得ない。(最愛の者によって)虜となった恋人たち(の実体験)は、それはそれとして独立しており、詩人による説明とも異なる何かである。詩人は、形式と韻律の範囲に留まるものである。

 


1. すなわち愛を指す。

2. すなわち精神を指す。ここでは、今や「愛する者」となった者の精神を指している。

3. 愛する者の嫉妬はその他全てを除いてただ彼自身にのみ注がれる。逆に、「愛する者」自身を除外するのが愛の嫉妬である。

4.

5.

6.