一. スーフィーがスーフィーと呼ばれる理由

『スーフィーの教え』
著 アル=カラーバーズィー
訳と解説 A. J. アーベリー

 

一. スーフィーがスーフィーと呼ばれる理由

ある者は言う。「スーフィーがスーフィーと名づけられたのは、彼らの心の純粋さ safa と、行ないの清らかさ atbar 故に他ならない。」ビシュル・イブン・アル=ハーリスはこう述べている。「スーフィーとは、神に向かうその心が誠実 safa な者である。」他の者はこう述べている。「神に向かうその行為が誠実な者であり、また神から授かるその祝福が誠実な者である。」彼らのうち何人かは、以下のように述べている。「彼らがスーフィーと呼ばれたのは、何よりも彼らが、神に向かう自らの想いを高め、神に自らの心を傾け、自らの陰し所は神の御前に留め置くことを通じ、神の御前における第一級 saff の位階の人々であるが故である。」他の者はこう述べている。「彼らがスーフィーと呼ばれたのは、彼らが長椅子 suffah の人々、すなわち神の預言者(彼の上に神の祝福と平安あれ!)の傍で、共に過ごした時代の人々と酷似しているからに他ならない。」他の者はこう述べている。「彼らがスーフィーと名づけられたのは、ただ羊毛 suf を身につける彼らの習慣のために過ぎない。」

彼らを長椅子や羊毛と関連づける人々は、彼らの状態の外側における面を表わしている。彼らは自らの属する世間を離れ、自らの故郷を立ち去り、自らの仲間から逃れた人々である。大地を放浪し、現世の欲望を自制し、無一物の捨て身となる人々である。彼らが手に取る現世の品々は、裸体を覆い、飢えを和らげるのに必要な分のみである。自らの故郷を旅立ったが故に、彼らは「異邦人」と呼ばれた。多くは旅をするが故に、彼らは「旅人」と呼ばれた。沙漠を旅し、時には必要に応じて洞窟に逃れるが故に、ある国の人々は彼らを「shikaftis」と呼ぶが、それは shikaft という語が、彼らの言葉で「洞窟」「洞穴」を意味するからである。シリアの民は彼らを「飢える者」と呼ぶ。何故なら彼らが食物を口にするのは、自らの体力を持ちこたえさせる必要がある時のみだからである。それについては預言者(彼の上に神の祝福と平安あれ!)も、以下のように述べている。「自らの体力を保てるだけの食物があれば、アダムの息子にはそれで十分である。」サリー・アル=サカティーは、彼らについて以下のように説明している。「彼らの食べるものは病人の食べるものであり、彼らの眠りは溺れる者の眠りであり、彼らの言葉は愚者の言葉である。」彼らは所有物を持たず、そのため「貧しき者」と呼ばれていた。彼らの一人が、こう尋ねられた。「スーフィーとは誰のことか?」。彼はこう応えた。「何も所有せず、何ものにも所有されぬ者のこと。」すなわち彼は、自分は欲望の奴隷ではないと言ったのである。他の者はこう言っている。「(スーフィーとは)何ひとつ持たぬ者であり、あるいは何かを持っていても、それを費やす者である。」彼らの衣類や、彼らの服装の流儀故に彼らはスーフィーと呼ばれた。彼らは肌に柔らかく目にも美しい、魂に喜びを与える衣裳は身につけなかった。粗雑な毛織物や、粗末な羊毛のみを身にまとった。

さて、これらは事実として、預言者(彼の上に神の祝福と平安あれ!)の時代における長椅子の人々の生き方そのものである。彼らは住処を追われた、無一物の異邦人であり、貧しき者であり、追放者であった。アブー・フライラとフダーラー・イブン・ウバイドは、次のように説明している。「飢えのため朦朧としているのを見て、ベドウィンたちは彼らを狂人だと思っている。」衣類が羊毛であることから、彼のうち誰かが汗をかくと、まるで雨に濡れた羊のような臭いを放った。これについては、実際にそう説明した者がいる。ウヤイナ・イブン・ヒスンは、預言者(彼の上に神の祝福と平安あれ!)にこう言った。「あの者たちの臭いは、私には苦痛でしかありません。あなたは平気なのですか?」。羊毛は、預言者たちの衣服であり聖者たちの晴着でもある。アブー・ムーサー・アル=アシュアリーは、預言者に関して以下のように記している。「七十人の裸足の預言者たちが、アバーヤに身を包み、ラウハの岩を通り過ぎて、古(いにしえ)の館の再建に向かった。」アル=ハサン・アル=バスリーはこう述べている。「イエス(彼の上に平安あれ!)は毛織物を身にまとい、木々の果実を食べ、夜になれば、どこであれ今いるその場で眠りについたものである。」アブー・ムーサー・アル=アシュアリーはこう述べている。「預言者(彼の上に神の祝福と平安あれ!)は羊毛を身につけ、ロバに乗り、名も無き人々の招きを受け入れ、彼らと食事を共にした。」アル=ハサン・アル=バスリーはこう述べている。「私はバドルで戦った七十人の人々を知っているが、彼らの衣類は羊毛のみであった。」

以上に説明した通り、この宗派の人々は長椅子の人々と同じ性質を持ち、彼らと同じ衣類や衣裳を身につけたため、「スッフィーヤ・スーフィーヤ suffiyah sufiyah(長椅子と羊毛の人々)」と呼ばれたのである。彼らを長椅子と第一級の位階に関連づける者たちは、彼らの秘密の心と内側における面を示している。人間がこの現世を捨て去り、現世において禁欲し、現世を脇に避けるとき、神はその者の良心 sirr を浄化 saffa し、その者の心を照らしたもう。預言者(彼の上に神の祝福と平安あれ!)は次のように述べている。「光が心に入るとき、心はふくらみ、大きく広げられる。」人々は尋ねた。「そしてそのしるしとは?どのようにして、そうと知れますか、おお、神のみ使いよ!」。彼は応えた、「欺瞞の住処を避けて、永遠の住処に向きを変え、死ぬ前に死の備えをするようになる。」預言者(祝福その他諸々のあらんことを)はハーリサに尋ねた。「汝の信仰の真実はどのようなものか。」彼はこう答えた。「自らの魂をこの世界から遠ざけ、昼は断食をし、夜は眠らずに過ごしています。そのため、まるでわが主の玉座が見えるかのようになり、楽園の人々が互いに訪問し合うのが見えるかのようになりました。」このように彼の言葉は、この世界から遠ざかるにつれ、神が彼の心を照らし、(普通であれば)目に見えなかったことが、彼の視界の中でその場所を占めるようになったと伝えている。預言者はこうも述べている。「もしも神によりその心を照らされた僕(しもべ)を見たいと思う者があれば、ハーリサを見よ。」この性質をもって、この宗派は「照らされし者 nuriyah 」とも呼ばれてきた。この説明も、長椅子の人々に当てはまる。いと高き神は告げたもう、「そこには、浄められることを愛する者たちがいる。」(これの意味するところは、)外なる部分は諸々の汚れから、内なる部分は諸々の悪しき考えから浄められているということである。いと高き神はこうも告げたもう、「商売や物売りの合間にも、神を念ずることから逸れぬ者たち。」

更に、その良心の純粋さゆえに彼らの直観力は真実である。これに関して、アブー・ウマーマは預言者が次のように述べたと伝えている。「信仰者の直観を畏れよ。彼らは、神の光でものを見ているのだから。」アブーバクル・アル=シッディークはこう述べた。「彼がハーリジャの娘の子孫であるということが、私の心に入ってきた。」そしてその通りだったのである。預言者はこう述べた。「 真実はウマルの舌によって語る。」ウワイス・アル=カラニーは、ハリム・イブン・ハイヤーンが彼に挨拶をすると、「あなたにも平安あれ、おお、ハイヤーンの息子ハリムよ!」と言った –– しかしその瞬間よりも以前には、彼はハリムに会ったことはなかったのである。それから彼はこうつけ加えた。「私の魂には、汝の魂が分かったのだ。」 アブー・アブディッラー・アル=アンターキーが、以下のように述べている。「誠実な人々と交わる時には、誠意をもって交わるように。彼らは心を出入りする密偵である。あなたの良心から入り込み、あなたの内なる欲望から出てゆく。」さて、以上の通りの者がおり、その良心が純粋であり、その心が清らかであり、その胸が光に照らされているならば、その者は明らかに第一級の位階にある。何故なら、それらは指導者 Sabiq の資質であるからである。預言者はこう述べている。「私の仲間には、何の咎めも受けることなく楽園に入る七万の人々がいる。」それから続けて、彼らについて次のように説明した。「魔術をやらず、また魔術を求めることもしない者。呪術や占術をしたりされたりせず、一心に主を信じる者たちである。」更に彼らの良心が純粋であること、彼らの胸が広げられていること、そして彼らの心が輝いていることから、彼らは神の完全な霊知を授かっており、二次的な根拠 asbab に頼ることはしなかった。彼らはいと高き神に自らの信仰を置いており、神を信じ、神の定めに満足する。これら全ての資質と、これらの用語に含まれる全ての意味が、この人々に与えられた名やあだ名において結びついている。これらの表現は正確であり、またその派生も真実に近しい。それらの言葉には外見上の違いはあっても、背後にある意味は同一である。もしもこの用語 sufisafa (純粋)または safwah (選りすぐり)に由来するならば、その語形は正しくは safawiyah となるだろう。またもしも saff (位階)または suffah (長椅子)であるならば、それは saffiyah または suffiyah となるだろう。もちろん、(前者の場合は) waw の字が fa の字の前に移動されることもあり得るし、そうであれば sufiyah が正しい。あるいは(後者を由来とする説を受け入れるならば)、それは単なる冗長化であり、一般の風習を通して言葉に加味されたものであろう。

しかし suf からの派生であることが容認されるとすれば、その語は正確であり、また表現として文法的な観点からも妥当である。それと同時に、現世から身を退き、魂をそこから引き離し、あらゆる一定の住処を後にし、絶えず旅を続け、肉欲の喜びを否定し、行為を純化し、良心を浄化し、胸を広げ、指導者の資質を高めるといった、(なくてはならない)すべての意味も備わっている。ブンダル・イブン・アル=フサインは以下のように述べている。「スーフィーとは、神が御自らのために選びたもうた人であり、(神により)誠実な愛情 safa を注がれ、肉体の欲望から解き放たれ、(神がそう定めたもう以前の)いかなる因縁の下においても、いわれなき労苦を被りつつ働かずに済むようになった人である。それが親しく尽くす友 sufi である。これに類似するものとして ‘ufi (守護されし者)が挙げられよう。すなわち、神は彼を守護し、ゆえに彼は守護される。あるいは kufi (報いられし者)。すなわち神は彼に報い、ゆえに彼は報いられる。そしてまた juzi (褒美を受けし者)。すなわち神は彼に褒美を授け、ゆえに彼は褒美を授かる。神は彼から完全に自存するが、しかし神が彼にしたことは、彼の名において明白に表現されている。アブー・アリー・アル=ルダバーリーは、スーフィーとは何かと問われて次のように応えた。 「(自らの)純粋さの上に羊毛を着て、自らの肉欲には暴虐を味わわせ、現世はすでに捨て去っており、選ばれた御方の道を旅する者である。」サフル・イブン・アブディッラー・アル=トゥスタリーは、同様の質問に対して次のように解答している。「不浄から清められ、黙想に満たされし者。神のため、人の世から切り離されし者。彼の目には、黄金も泥土も同じものとして映る。」アブー・ル=フサイン・アル=ヌーリーは、スーフィー道とは何かと問われてこう応えた。「肉体的な欲望の、あらゆる部分を捨て去ることである。」アル=ジュナイドは、同様の質問にこう述べた。「被造物との交わりから心を浄化し、生まれ持った諸性質から離脱し、肉体的な魂の誘惑を避け、精神の価値を高め、真実在の諸科学を身につけ、より永遠にふさわしいものを用いて、あらゆる仲間たちの相談に乗り、神に対し真に誠実となり、聖法に則して預言者に従うことである。」

ユースフ・イブン・アル=フサインは次のように述べた。「あらゆる共同体には、選ばれし者たちの一団が存在する。彼らは神の代理人であり、神により、その他の被造物からは秘められている。もしもこのような者がこの共同体にも存在するならば、それがスーフィーである。」ある者が、サフル・イブン・アブディッラー・アル=トゥスタリーに言った。「人の世にある様々な宗派のうち、誰と交わるべきでしょうか?」。彼はこう応えた。「汝自身をスーフィーの中に投じよ。彼らには好ましからぬものは何ひとつなく、代わりにありとあらゆるものの中に精神的な解釈 ta’wil を見出す。汝がどのような状態 hal にあろうとも、汝のための言い訳を見出してくれるだろう。」ユースフ・イブン・アル=フサインが、ズーン・ヌーンに以下の質問をしたと伝えられている。「私は誰と交わるべきでしょうか?」。彼はこう答えた。「何ひとつ所有せぬ者、汝がどのような状態にあろうとも決して否認しない者。汝が変わろうとも、決して変わらずにいる者、たとえその変化が大きなものであったとしても。何故なら汝が激しく変化すればするほど、ますます変わらずにいる者の傍にいることが必要となるだろうから。」ズーン・ヌーンはこうも述べた。「私はシリアのとある海岸で、一人の婦人を目にした。『神の加護のあらんことを!何処から来たのか?』と尋ねると、彼女は『寝台に横たわる人々の許から』と応えた。『それで、何処へ行くのか?』と尋ねると、彼女は『商売をしたり物売りをしている最中にも、神を想うことから逸れない人々の許へ』と応えた。『彼らについて、語ってくれ』と私は言った。すると彼女は、以下を暗誦し始めた。」 ––

彼らの目的はすべて神に結ばれており
彼らの高い大望もただ神のみを目指す
彼らの支えは主に、誓約の御方にあり
永遠の御方に向かうこの高貴なる探求

彼らは現世の喜びを求めて競い争わぬ
名誉や名声、子孫、財産や高価な衣裳
あらゆる貪欲も欲望も持たず、彼らは
安楽と歓楽の生、都の享楽を宝とせず

遠く気高き地平線の向こう側を目指し
永遠を探求する、強き意図をその胸に
隠されし砂漠の水の流れを彼らは辿り
やがて高くそびえ立つ山の頂上に至る