番外編:「葦笛の詩」読み解き

 

2013年4月、「さくらーれ・日本トルコ女性交流会」さま主催の会が開催された際に、お集りの皆様の前で少しばかりお話をさせて頂きました。以下はその際に使用したレジュメの一部、『精神的マスナヴィー』第1巻1行目から18行目の読み解きのためのメモに若干の書き加えをしたものです。

「葦笛の詩」とも呼ばれるこの導入部分は、『精神的マスナヴィー』全6巻のいわば要約ともいうべき非常に重要な部分とされています。読み解きにあたっては黒柳恒男氏の名著ペルシアの詩人たち (オリエント選書)に収録された邦訳を題材とさせて頂きました。


「葦笛の詩」

聞け、葦笛がいかに語るか 別れの悲しみをいかに訴えるか
私が葦原から切り離されて以来 わが悲しい音色で男も女もむせび泣く

私はこの切ない想いを打ち明けるため 別れで胸を千々に裂かれた人に逢いたい
己が本源より遠ざかる者はみな 合一の時を慕いて還ろうとする

どの集いにても私は哀しい音色を奏で 不幸な人や幸福な人と交わった
だれもが己が思いでわが友となったが わが心の秘密を探った者はいない

わが秘密は哀しい音色に秘められているが 目も耳もそれに気付く光がない
体は魂から、魂は体から隠されていないが だれも魂を視ることは許されない

葦笛のこの叫びは火だ、風ではない この火を持たぬ者は消え失せよ
葦笛に燃えついたのは愛の焔 酒を泡立せるのは愛の情熱

葦笛は仲間から離された者の真の友 その音色はわれらの心の帳を引裂く
葦笛の如き毒と毒消しをだれが見たか 葦笛の如き同情者と思慕者をだれが見たか

葦笛は血に塗れた道の話を語り マジュヌーンの恋の物語を語る
意識の秘密を識るのは意識なき者のみ 舌がもらす言葉の買い手はただ耳のみ

われらが日々は悲しみのうちに早く過ぎ 苦悶をともなう日々であった
日々が過ぎるなら過ぎよ、かまわない 比類なく清い方よ、留まり給え

魚にあらざる者はみな水に飽き 日々の糧なき者には日は長い
未熟者には成熟者の状態は理解できない そこで言葉をかいつまむ、さらば


「読み解き」

聞け、葦笛がいかに語るか 別れの悲しみをいかに訴えるか
私が葦原から切り離されて以来 わが悲しい音色で男も女もむせび泣く

私はこの切ない想いを打ち明けるため 別れで胸を千々に裂かれた人に逢いたい
己が本源より遠ざかる者はみな 合一の時を慕いて還ろうとする

どの集いにても私は哀しい音色を奏で 不幸な人や幸福な人と交わった
だれもが己が思いでわが友となったが わが心の秘密を探った者はいない

人間というものの在りようをネイ(葦笛)に託し、詩人ルーミーが語り始める。コーラン15章26節および28・29節、神による人間の創造についての記述を想起させる導入部である。「われらは人間を、陶土つまり象った(かたどった)黒泥で造った。…汝の主が天使たちにむかって、「わしは、陶土すなわち象った黒泥で人間を造ろうと思う。わしがその形を造って、これにわしの息を吹きこんだなら、おまえたちは跪拝(きはい)せよ」と言われた」。

詩人ルーミーはネイを愛した。その音色もさることながら、その形状、その在りようを愛した。ネイは人間の象徴である。人間は黒泥から、ネイは葦から造られる。どちらも中空で穴が開けられている(目、耳、鼻、口、…)。穴から息を吹きこまれると、ネイは悲しげな音色を奏でる。人間もそれと同じで、息を吹きこまれることにより命を宿す。そして悲しげに泣き出すのである ー 「帰りたい、帰りたい」。「聞け、葦笛がいかに語るか」と言うとき、葦笛はすなわちルーミー自身である。

「葦原」とは、かつて人間が地上に降り立つ以前に住んでいた場所、愛する者/愛される者の楽園を意味する。その場所では、神の光を存分に飲み、思うままに喉を潤すこともできた。葦もまた同じである。通常、葦は水の絶えない湿地に茂る。もといた葦原の茂みにそのままいられたなら、たっぷりと水を飲んで青々としていられたのに、こうして切り離され、からからに渇いて穴を穿たれ、悲しい、悲しいと泣く以外のすべを持たない。

「葦原」はまた、アダムとイブの住まう楽園と、その後の失墜を思い起こさせる。「…「落ちてゆけ。たがいに敵同士となれ。とうぶんは、地上におまえたちの宿所と身のまわりのものがあろう」…(コーラン2章36節)」。

別離の悲しみは別離を経験した者にしか分からない。同じ悲しみを知る者と、この悲しみを語り合いたいのだ、とネイ/ルーミーは訴える。「別れで胸を千々に裂かれた人」とは、すなわち神を愛し、神との再会を願う人々のことである。

天地のあらゆるものはその根源を目指す、とルーミーは言う。人間の肉体は黒泥から創造された。そのため、人間の肉体的なエレメンツは地上にしがみつきたがる。同様に、ネイはもといた葦原に帰りたがる。一方で、ネイが発する音色は、音色を生じさせる息を吹き込んだ奏者の傍から離れない。そもそも、奏者無しには音色は生じ得なかったのだ。これが人間の場合、そもそも人間に息を吹き込んだのは神であり、人間の魂(ルーフ)は、もとを辿ればそれは神の息である。故に地上を目指す肉体的なエレメンツとは裏腹に、人間の精神的なエレメンツは天上を目指さずにはいられない。

ネイ/ルーミーは相手によって自らの言葉を変えることはしない。もの哀しいその調べから、何を感じ、どう考えるかは受け取る者次第である。天上を目指す魂の性質を知り、神を知り、神の愛を得ることで満ち足りる者は「幸福な人」である。地上の種々にかまけ、形あるものに囚われる者は「不幸な人」である。フィジカルなエンターテインメントとしてネイを聞く者は不幸である。一方で、神の愛の残り香をネイに嗅ぎ取る者は幸福である。

「心の秘密」とは、ルーミーが辿ってきた精神の遍歴、タサッウフ(スーフィー)の道における魂の階梯を指す。多くの人は自らが欲するところをルーミーに求めはするものの、ルーミー自身が何を欲し、また何を実際に経験したのかは知ろうとはせず、理解しようともしなかった。殊にルーミーがシャムスッディーン・タブリーズィーを師と仰ぎ教えを乞うた際、人々はシャムスッディーンを外側からのみ判断して放逐した。「スーフィーの旋回舞踏」として見る者を魅了するセマーについては、その修行方法をルーミーに伝授したのはシャムスッディーンであったと伝えられている。一部のイスラム教徒はこのセマーについても、また音楽についても、時には詩作までも批判の対象としてきた。彼らの言い分によれば、それらは全て「宗教に反する」のである。

わが秘密は哀しい音色に秘められているが 目も耳もそれに気付く光がない
体は魂から、魂は体から隠されていないが だれも魂を視ることは許されない

葦笛のこの叫びは火だ、風ではない この火を持たぬ者は消え失せよ
葦笛に燃えついたのは愛の焔 酒を泡立せるのは愛の情熱

葦笛は仲間から離された者の真の友 その音色はわれらの心の帳を引裂く
葦笛の如き毒と毒消しをだれが見たか 葦笛の如き同情者と思慕者をだれが見たか

「わがしるしを嘘だと言う者どもはみな、暗黒の中で耳が聞こえない者、ものを言えない者である。神はお望みの者を迷うに任せ、またお望みの者を正しい道に置きたもう(コーラン6章39節)」。最も善い知識とは、神が示すしるしの内側に神を見出すことで得られるものである。人の精神は、その肉体と切り離されたところにあるのではない。そして既に述べた通り、精神は遡れば神の吐息である以上、神 ー 愛する者、愛されし者 ー は「頸の血管よりも近い(コーラン50章16節)」ところにいる。それでいて、肉体の耳、肉体の目で確認することは出来ない。精神と肉体は互いを認め合い、必要とし合っているにも関らず、それらの総体としての人間はその連関を見ることが出来ずにいる。

ネイに息を吹き込めば、その息は音を伴って流れ出る。現象としては当然のことだが、神を愛する者にとり、それは音である以前に心を焦がす炎である。体に熱があるのと同じく、心にも熱がある。この心の熱を持たない者、神に恋い焦がれて燃える心の炎を持たない者にネイ/ルーミーの言葉を理解することは不可能である。例えば「酒」という語は、スーフィーたちの文脈においては象徴として頻繁に使用される。地上の酒が肉体を酩酊させるのと同様に、神への愛はある種の法悦、精神的酩酊をもたらす。しかしそうした「酩酊」は、心の熱を持たない者には味わうことは出来ない。従ってこの熱、この炎を得るまでは、ネイを避けて別の修行に励むのが得策だろう(「消え失せよ」)。

「音色」をペルシャ語で「perde」という。同時にこの語は「帳」、カーテン、幕といった意味も持つ。「その音色はわれらの心の帳を引裂く」。ネイの音色は「引き裂くもの」であると同時に「引き裂かれるもの」である。

一方に、ネイの演奏とそれに連なるセマーを賞賛する人々がいる。彼らはネイを耳で楽しみ、セマーを目で楽しむ。また一方に、音楽を禁忌とみなし、舞踏を破戒とみなして批判する人々がいる。彼らは互いに正反対の主張をしているかのように見えるが、いずれも「perde」に囚われているという点において共通している。彼らのような人々、肉体の領域に留まる人々、しるしの外側に拘泥する人々にとりネイは毒である。だがしるしの内側を探求する者、「perde」を用いて「perde」を引き裂き、「perde」の向こう側を目指す者、精神の領域を目指す者には、ネイは毒消しとして作用するだろう。

葦笛は血に塗れた道の話を語り マジュヌーンの恋の物語を語る
意識の秘密を識るのは意識なき者のみ 舌がもらす言葉の買い手はただ耳のみ

われらが日々は悲しみのうちに早く過ぎ 苦悶をともなう日々であった
日々が過ぎるなら過ぎよ、かまわない 比類なく清い方よ、留まり給え

魚にあらざる者はみな水に飽き 日々の糧なき者には日は長い
未熟者には成熟者の状態は理解できない そこで言葉をかいつまむ、さらば

神の愛を求める道は、決して平坦な道ではない。この道を歩む者は、情欲やエゴイズムを捨て去り、最終的には神への愛のみが心を占める状態を目指すことが求められる。ネイ ー 神を愛する者 ー の言葉を理解するには、精神の耳を得なくてはならない。

一たび、神の愛に没してしまえば、時間を気にかけることも無くなる。不安や心配を消し去るのは、ただ神の愛のみである。地上の富も名声も時間の領域にあり、それらはいずれ消滅する。神のみが永遠である。これを知れば、否応無しに過ぎてゆく時の残酷さや、時の果てにやがて訪れるだろう死への恐怖は何の力も持たない。

「魚」という語もまた、象徴として頻繁に使用される。魚とは神を愛する者たちを指す。神の恩寵の海を泳ぎ、魂の水を飲んで飽きることがない。しかしこうした海に辿りつく以前の状態にある者には、精神の糧は何の意味も為さない。そうした「未熟者」には、ネイ/ルーミーの言葉は到底理解出来ないだろう。故に彼らに対して多くの言葉を費やすことは避け、ただ一言「ワッサラーム(さらば)」とのみ言うのが正しい。彼らには、これから語る『マスナヴィー』は無用の長物である。ここから先は「魚たち」、既に海に辿りついている者の領域となる。

 

「葦笛の詩」の最初の一句はBの文字で始まり、最後の一句はMの文字で終わる。Bに始まりMで終わる、それはイスラム教徒であれば日々あらゆる機会に口にする「バスマラ」、すなわち「慈愛あまねく、慈悲ふかき神の御名において(Bismillahir Rahmanir Rahim)」という言葉を連想させる。手紙や書籍は、必ずと言って良いほど巻頭にこの「バスマラ」が記される。『マスナヴィー』はルーミーが口頭で詠じ、それをルーミーの弟子であり親友でもあったフサームッディーンが書き留めたとされているが、一説にはこの「葦笛の詩」の部分についてはルーミーが自らしたためたとも伝えられている。「葦笛の詩」は、18行に及ぶルーミーの「バスマラ」ではなかったか。

 

2013.09.27.


参考文献

“The Mathnawi of Jalal’uddin Rumi : Persian & English Text” , published 1925-40 by Gibb Memorial Trust
edited, translated & commented by R.A. Nicholson


The Essence of Rumi’s Masnevi Including His Life and Works
Erkan Turkmen


Sufi Path of Love: The Spiritual Teachings of Rumi
William C. Chittick


Rumi: Past and Present, East and West : The Life, Teaching and Poetry of Jalal Al-Din Rumi
Franklin D. Lewis