『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
青物屋と緑色のオウム
あるところに青物屋がいた。青物屋は一羽のオウムを飼っていた。甘くかわいらしい声でものを言う緑色のオウムだった。椅子を止まり木に、店番をしていた。そして全ての商人達と、立派に話をしてみせた。人々と話しかけるときは、彼らがそうするように話していた。それと同時に、オウムの歌を歌うことにも秀でていた。
かつてオウムが椅子から飛び立ったときのこと。羽ばたいたはずみで、薔薇の香油の瓶を落としてしまった。そこへ主人が家の中からやって来て、商人の誰もがそうするように椅子に腰掛けた。腰掛けてから、主人は事の次第に気がついた。椅子は油にまみれ、服にもべっとりと滲んでいる。彼はオウムの頭を殴りつけた。殴られたオウムの頭ははげてしまった。
それから数日のあいだ、オウムは全く口をきかなくなってしまった。青物屋は後悔し、深いため息をついた。青物屋は自分の顎髭をすっかりそり落とし、古い格言をひっぱりだして言った、 - 「ああ!我が幸運の太陽は雲間に隠れた」。
「かよわいものを殴るとは!我が手こそ、その瞬間に砕けてしまえば良かったものを。かわいい声を持つものを、どうして痛めつけたりしたのだろう」。オウムのおしゃべりを取り戻そうと、青物屋は出会う全てのデルヴィーシュ達1にせっせと施しをするようになった。
三日三晩も過ぎた頃、青物屋は椅子にぐったりと腰掛けていた。困惑と悲哀に満ちて、すっかり絶望しきった様子。オウムが再び話し始めるようにと、ありとあらゆる類いのまじないをオウムにかけてみたりもしたのだが。
そうこうしているところへ、無帽のデルヴィーシュが通りかかった。ジョウラク2を身にまとい、洗い桶か、はたまた鍋の底かと見まがうほどに、見事につるりと禿げていた。その時、オウムが再び口をきき始めた。デルヴィーシュに向って甲高い声で言った、 - 「へええ、たまげた!もし、そこを行くだんな!」。
「やあやあ、はげあたま!一体、何だってはげの仲間入りをしたんです?あ、分かった!あんたも香油の瓶を落としちまったんだね?」。ジョウラクを着る者を、自分の仲間と思い込んだオウムを見て、周囲にいた人々は笑い出した。
聖者が行なうわざを、自分の尺度に当てはめて判断してはならない。たとえشیر(獅子)とشیر(乳)の、綴りがどれほど似ていようとも。
全世界が犯す過ちの、理由はまさにかくの如し。アブダール3について認識する者などごくわずか、あるいはほとんどいない。誰も彼もが、預言者達と自らを同列であると主張する。誰も彼もが、われこそは聖者なり、と本気で思い込んでいる。
「見よ」、彼らは言う - 「我らも人間、彼らも人間。我らも彼らも、睡眠と食事に繋がれた奴隷であることに違いはない」。彼らの眼は愚かさによって塞がれている。そのために、超えられぬ無限の相違があることを認知出来ないのだ。
蜂のどれもが、同じ場所で飲みかつ食べる。だがこちらの蜂(スズメバチ)から得られるのは毒の針、そしてこちらの蜂(ミツバチ)からは蜂蜜が得られる。鹿のどれもが、草を食べ水を飲む。こちらの鹿が出すのは糞だ、そしてこちらの鹿からは混じりけのない麝香が得られる。
同じ水源から水を飲むカラムス4も、こちら(葦)の茎は空洞だが、こちら(砂糖黍)の茎は砂糖で満たされている。似ているようで、七十年の旅(人間の一生)ほどの隔たりがある。このような類似を例に挙げていたら、全くキリというものがない。
こちらがものを食べれば、出てくるのは汚物だ。あちらがものを食べれば、見出されるのは完全な神の光だ。こちらがものを食べれば、生み出されるのは貪欲と嫉妬のみ。あちらがものを食べれば、生み出されるのはただ唯一の御方への愛のみ。
肥沃な良き土か、塩気を含む痩せた土か。清廉なる天使か、悪魔と野獣の類いか。それらが互いに似通った面もある、と言うのなら、それはその通りだろう。塩辛い水も甘い水も、どちらも見た目は同じように透き通っている。(精神の)味覚を備えた者以外に、一体どうしてその違いを見破ることが出来ようか。 - 探せ!塩水と砂糖水の違いを知る者を。
魔術や呪術と、(預言者の)奇跡との違いを知れ。無知な者はそれらを見て、どちらをも欺瞞から生じると思いたがるものだ。モーセの時代の魔術師を見よ。自分達が正しいと主張せんがために、彼らは手にした杖を、それ、このように持ち上げた。だがこの杖とあの(モーセの)杖の間には超えられぬ隔たりがある。この(魔術や呪術)行為であの(奇跡)の行為にたどり着こうにも、遠い、遠い距離があるのだ。5
魔術とは、神の嫌う禍の種をまき散らす行い。奇跡とは、神の与え給うた慈悲を受け取る行い。忘恩の輩はとかく預言者達、聖者達と競いたがる、猿のごとき性根を持っている。あれらのせせこましい胸中には、もぞもぞと這い回る邪悪な尺取り虫が巣食っている。
猿は人のすることなら何であれ真似をする。いつでも人の様子を盗み見て、同じようにやりたがる。奴は思う、「見ろ、俺だって同じようにやっているぞ」。 - 何を言うか、阿呆めが!気短かで喧嘩早い猿ごときに、一体どんな分別がつくと言うのか。
こちらの(聖なる)人は(神の)定められたところに従って振る舞う。あちらの(猿真似の)人は議論のため、競争心のため振る舞う。見ろ、対抗意識を隠しもしないあの顔を。忌々しいあれらの頭の上に、塵と埃をぶちまけてやれ!
誠実な信者達が儀式にたち混じって礼拝に臨むのは、ただひたすらに祈り請い願うためだ。だがあれらの偽善者はひたすら口論を挑み、競い合うためだけにやってくる。礼拝も断食も、巡礼も喜捨でさえも。信者達が敬神の歓びを分かち合おうにも、偽善者共が相手では、勝ち負けの結果以外は何ひとつ分かち合えるところがない。
最後には信者が勝利する。偽善者は来世に迎え入れられず滝底に沈む。双方共に、一つ事に熱心なことには変わりがない。にも関わらず、それぞれの間にはメルヴの人とラアイの人ほどにも遠い隔たりがある。
人はそれぞれに相応しい住処があり、それぞれの名に相応しい身過ぎ世過ぎがある。真の信者と呼ばれれば、その魂は歓喜する。偽善者よ、偽の信者よと呼ばれれば、呼ばれた人は憤怒の炎で燃え上がる。彼(真の信者)の名は、その本質すなわち真の信仰ゆえに愛される。だがこちら(偽善者)の名は、その本質すなわち忌むべき害をもたらす性質ゆえに嫌悪される。
م(ミーム)、و(ワーウ)、م(ミーム)、そしてن(ヌーン)。この四文字に名誉が宿るのではない。この四文字を連ねたمؤمن(ムウミン:信者)という語にしても、それは単なる記号に過ぎぬ。
彼(真の信者)に向って偽善者と呼ばわれば、この下劣な呼称は彼を蠍のように刺す。この呼び名が地獄に由来するものでなくて何であろうか。この呼び名には地獄の匂いが染み付きこびりついている。だがこの汚れ、この染みも、この悪名を綴る文字や言葉そのものに由来するのではない。海水の苦さ、塩辛さはそれを運ぶ瓶のせいではない。
文字や言葉は瓶のようなもの。意味が水のようにそれらを満たしている。だが瓶の運ぶ水などたかが知れている。真の水、真の意味の大海は神と共に在る - أم الكتاب(ウンム・アル・キターブ:書物の母)は神と共に在る。6
この世においては、苦い海と甘い海は分たれている。二つの海の間には、超え難い障壁が存在する。7海が二つながらに一つの根源より生じるものと知れ。二つの海を渡って行け、そしてはるかその先にある唯一の根源に還れ!
試金石を持たずして、偽物の金と本物の金の分別など一体どうして出来ようか。神が試金石をその魂に与え給うた者ならば。その魂を神に委ねる者ならば。そのような者のみが、疑わしき種々から確信を選り分けることだろう。
塵や屑が、口の中へ飛び込んで来たならば。それを口から吐き出してしまわないことには、死人でもない限り寛ぐことも出来ない。食べ物ならば幾度となく口に運び、平気で詰め込むことも出来るのに。生きた者の感覚は、ほんの小さな埃でさえも異質なものとして探り当てる。
肉体の自然として備わる感覚は、現世へと至る梯子だ。そして宗教の感覚とは、来世へと至る梯子を指す。前者の感覚について最も良く知るのは医師だ。医師を求めよ、あなた方の幸福のために。後者の感覚について最も良く知るのは最愛の者だ。
最愛の者を求めよ、あなた方の幸福のために。肉体の健やかさが、前者を健やかに保つだろう。だが肉体の不調こそが、後者を成長させることになる。肉体を放棄させること、これが霊的成長の方法である。一たび放棄されたそれは、再び取り戻すと同時に、自ずと健やかさも取り戻している。
地下に埋もれた黄金の財のためなら、家屋など取り壊してしまえ。掘り当てた財宝を用いれば、以前よりも良い屋敷が建つだろう。水流を塞き止めて河床の汚泥を浚え。浄められた河床へ再び水流を呼び込めば、それは飲み水としても耐えうるだろう。食い込んだ槍や矢尻を取り除くには、皮膚を切り裂かねばならぬ。異物を取り除かれた後の傷口は、やがて新しい皮膚が再生することで塞がるだろう。
不信の立てこもる要塞は粉々に破壊しつくせ。その上に、百でも二百でも塔と城壁を建てるが良い。 ー 比類なき御方の御業を解き明かすことなど、一体誰が為し得ようか?たった今、私が口走ったこれらの言葉も、私を突き動かす必然がもたらす泡沫に過ぎぬ。
(神の御業は)ある時はかくのごとく起ち顕われる。だが別の時には、以前とは全く正反対の様相で起ち顕われる。宗教の道は当惑の道。絶えずうろたえながら歩む以外に方法はない。かと言って、賢人ぶって御方に背を向けよと言うのではない。私の言う当惑とはこれ、このように無我夢中で御方にしがみつき、鼻面を引きずりまわされ、(神に)おぼれきって最愛の者に酔い痴れることだ。
ある者はその顔を最愛の者の方へ向ける。またある者はその顔をその者自身の方へ向ける。 - 誰であれ、出会った人の顔は注意深く観察することだ。(スーフィー達に)喜捨をしようという時は、その顔をじっくり見ておくが良い。見比べるうちに、(真の聖者の)顔を見分けられるようになるかも知れぬ。世の中、アダムの皮を被った悪魔は大勢いる。だからあなた方の両手を、誰かれ構わず全ての者に預けてしまうのは得策ではない。
鳥撃ちは、鳥をおびき寄せるために口笛を吹く。鳥は口笛の音を聞いて仲間と思い込み空から舞い降りる、舞い降りて初めて、自分を待っていたのが罠と短剣の切っ先だったことに気付く。邪悪な者は口笛どころか、デルヴィーシュ達の言葉を盗む。無邪気なお人好しを相手に盗んだ言葉を使い回して、まじないにかけるように騙してやろうと企んでいる。
(聖なる)人々の為す仕事は、あたかも光と熱のよう。だが邪悪な人々の為す仕事は恥知らずの詐欺だ。人目を惹かんがためにそれらしく羊毛の外衣を身につけて、戸口に立って物乞いをする。あれらはアハマドの称号を、ムサイリマに売り渡した者共だ。8
だがムサイリマはكذاب(カッザーブ:嘘つき)としてその名を残し、ムハンマドはأولولالباب(ウル・ル・バアブ:熟考する者)9としてその名を残した。
これぞ神の葡萄酒。封を切れば、漂うはひたすらに混じりけのない麝香だ。だが(それ以外の)安酒で迎えた翌朝は、悪臭と苦悶が待ち受けている。
*1 デルヴィーシュとは托鉢僧、修行者の意。ダルウィッシュ、ダルヴィーシュとも。
*2 ジョウラクとは目の粗いウールのフロックで、修行者の衣の一種。
*3 敬虔な求道者。転じて神の代理。
*4 カラムス(Calamus)とは葦または砂糖黍を指すラテン語。
*5 コーラン20章61〜70節。 「モーセは彼らに言った。『おまえたちは禍<わざわい>である。神に対して嘘を捏造<ねつぞう>するな。さもないと、神は懲罰をもっておまえたちを滅ぼしたもうであろう。嘘を捏造する者は失望する』。彼らはたがいに自分たちのことについて論じあい、密談をかわした。彼らは言った、『この両名は魔法使いであって、その魔法でおまえたちを国から追いだし、おまえたちのきわめてすぐれた慣習を廃止しようと思っている。おまえたちの術策を糾合して、そのうえで隊伍<たいご>をととのえて出てこい。打ち負かした者には今日にも栄達がある』。彼らは言った、『モーセよ、おまえが投げるか、それとも、われわれが先に投げようか』。彼は言った、『いや、おまえたちが投げよ』。見よ、彼らの縄と杖は、魔法によって、さながら走りだすかのように見えた。モーセは心に一抹の不安を感じた。われらは言った、『恐れるな。まことにおまえが勝者である。右手にあるものを投げよ。そうすれば、彼らが造ったものを一呑<ひとの>みにするであろう。彼らが造ったものは魔法使いのごまかしである。魔法使いはどこへ行こうと栄えるものではない』。
*6 コーラン13章39節。 「神はみ心のままにそれを抹消し、または確定したもう。そして啓典の母はみもとにある。」
*7 コーラン55章19〜20節。 「二つの海を放って相まじわらせながら、両者のあいだに、越すことのできない障壁を置きたもう。」
(※ムハンマドの死後に預言者を僭称した人物)
*8 アハマドについては「王と奴隷の少女」注11参照。ムサイリマとは、預言者ムハンマドの死後に預言者を僭称した人物の名。
*9 「知覚者」コーラン38章29節。 「われらがおまえたちにこの祝福された啓典を下したのは、彼らがそのしるしをよく考え、心ある者が反省するようにとの計らいからだ。」