『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
小話:市場の天使
市場に見守る二人の天使について、話したことがあったろうか。彼らは毎日、市場に舞い降りてこう告げる -
「神よ、気前良く散財する者には祝福を!」
「神よ、惜しんで貯め込む吝嗇な者には災禍を!」
ここで天使達の言う散財とは、神の用意なされた道において、自らのあたう限り努力し、正直に売買せよということだ。けちけちと物惜しみして蓄財するのは神の道ではない。自らの欲望を道としてはいけない。
預言者がこう語っている。 - 「二人の天使の戒めが、絶え間なく市場に響き渡っている。彼らは告げる、『神よ、気前良く財を支払う者達に、充足とやすらぎを与えたまえ。彼らが支払うディルハムごとに、百倍、千倍の報奨を授けたまえ!』と。またこうも告げる、『神よ、与えず、払わず、物惜しみするけちん坊どもには赤字の上にも赤字を!彼らには、損失以外の何ものをも授けたもうな!』と」。
ああ、だがもちろん世の中には、浪費を避け、無駄を避ける方が優れている場合もままある。全ての財は神に属する。神に命じられたのでもない限り、神の財を我がもの顔で勝手気ままに贈与したりされたり、というのは避けなくてはならぬ。
神の財を注意深く大事に扱えば、その報奨として尽きることのない財を授かるだろう。不信の徒の一人に、数えられることもないだろう。ムスタファ(ムハンマド)を罵り、剣を用いて彼を排除しようと試みたメッカの住民達を見よ。彼らは神を味方につけようと、育てたラクダを屠って犠牲とした。だが、彼らの企みは裏目に出てしまった。
神の意図が奈辺にあるのか、探求に探求を重ねよ。神の意図を知るための努力を惜しんではいけない。神を良く知る者、合一の海にある者に、導きと助けを請え。誰しもが、神の意図を理解出来るとは限らない。メッカの住民達も、自分達こそは正しく振る舞う者であると信じ込んでいた。しかし彼らは、王の中の王に歯向かう奴隷でしかなかった。彼らは、自分達の財からラクダを捧げたものと思い込んでいた - 実のところは、王の財であるラクダを王に返したに過ぎないのだが。
こうした人々はコーランの中にも多く見出せる。何に財を費やしてみても、購えるのは苦い後悔ばかりという人々。王の中の王の御目から見れば、仇をなす者達に与えられるべき平等と正義とは何であろうか?追放と恥辱以外に、何があるだろうか?メッカの住民達とて、預言者との戦のあのような結末を望んで犠牲を捧げたわけではない。だが全てが解き明かされるには、全てが終わるまで待たねばならぬ。それゆえ真に信じる者ならば、戦慄してこう祈るより他は無いのだ - 「われらを正しい道に導きたまえ!(コーラン1章6節)」、と。
心優しく寛大な者ならば、乞う者があれば誰にでも持てる金を差し出すだろう。恋する者にとり寛大であるということは、乞われればその魂をも差し出すということだ。神の道においてパンを差し出せば、差し出した時よりも増やされて与えられるだろう。神の道において魂を差し出せば、差し出した時よりも新鮮になって返されるだろう。
ここにある、この鈴掛の樹。季節が巡れば、葉は落ちる。葉が落ちれば落ちたで、葉を持たぬ樹にとり必要なものを、創造の御方は必ずや与えたもう。なおざりにされることなど、何ひとつありはしないのだ。寛大に振る舞ったために、あなた方が持てるもの全てを失ったとしても、寛大の上にも寛大なる御方が、打ちひしがれたあなた方を見捨てるなどということは、決して、決して起こりはしない。
種蒔きをすれば、納屋に蓄えてあった種の袋は空っぽになる。だが種を蒔かれた畑には、善きものの実りが約束されている。納屋が空っぽになるのを惜しんで、手持ちの種を蒔かずにしまい込んでおけば、虫や鼠に食われもするだろう。やがて時が経てば、傷みもするし腐りもするだろう。
- このように、真理は常に隠されるもの。
この世界は、真理を隠す虚偽と仮想に満ちている。
神の庇護の許に、真理を探求せよ。
あなた方自身ですら、虚偽に満ちている。
あなた方の本質において、真理を探求せよ。
獣性の苦い魂に、一太刀浴びせて売り払え。
代わりに、楽園に流れる蜜の川のように甘い魂を、
天の市場にもとめて買い取れ -
天の市場の門は、いつでも開け放たれている。