『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
預言者の書記
ウスマーンの時代より前のこと。啓示を書写することにかけては誰よりも熱心で、勤勉実直な書記がいた。預言者が啓示を口述すれば、いつ如何なる時も、預言者に下された啓示を一字一句違えることなく木の葉の上に書き留めた。啓示の光は彼を照らし、彼の手元を照らした。書き留めた啓示を読み返すたびに、彼は自分の理解し得る範囲内で、少しづつ知識を得るようになった。
そもそもその知識は、啓示の裡に潜ませられていたものであり、またそれを口述したのも預言者であった。ところがこの書記、ほんのわずかな知識のお裾分けに預かっただけで、たちまち道を踏み外すことになった。
彼は考えた、 - 「光り輝く預言者の啓示とは言っても、私だってこれくらいの知識はある。私だって理解出来る。私だって、何が真理であるかは最初から分かっているのだ」。彼の思案は隠しようもなく、たちまちのうちに預言者に見抜かれることととなった。間髪待たずに神の怒りが彼の魂を訪れ、彼は筆記者の務めを捨て、宗教を捨てることとなった。彼はムスタファ(ムハンマド)と宗教の、悪意ある敵となったのである。
ムスタファは言った、「何ということだ。頑固な悪党め、もしも(知識の)光がおまえの胸から生じたものだと言うのなら、一体なぜおまえはそれほどまで罪に汚れて黒ずんでいるのか。啓示とは神の噴水のようなもの、それは光以外の何ものでもないのに、おまえは宗教を捨て私の敵になってしまった。これほどまでに濁った噴水の、一体どこが神の啓示だと言うのか」。
彼は口をつぐんでしまった。自らの評判が、世間の噂話によって貶められることを彼は怖れた。虚栄が彼の口を塞いだのだった。そのため、彼の心は罪の色にどす黒く染まり、せっかくの光も消えて心は暗く、そのために犯した過ちを悔悟することも叶わなくなっていた。なんということだろう。「ああ」、彼は呻いたが、しかしその呻きもすでに間に合わなかった。剣はすでに鞘から抜かれていた。そしてそれは、ようやく血も巡り始めた彼自身の頭上めがけて振り下ろされる他に行き場が無かった。
世間の評判というものを、神はまるで千もの丘ほどに積み上げた鉄の鎖のように重いものとなされた。見よ、どれほど多くの人々が眼に見えぬ鎖に繋がれていることか!知識を得て賢くなったはずの書記が、一番最初に気にかけたものが世間の評判であったとは。虚栄と不信とが、悔悟の言葉を惜しませることになるとは。
神は言いたもう、「(われらは、)彼らに首枷をかけたところ、それが顎につかえて、彼らの頭はあがったまま(コーラン36章8節)」。ここで言われる首枷とは、私達の外側、私達の身体にかけられるものではない。神は続けて言いたもう、「(われらはまた、)彼らの前後に障害物を置いて、そのうえ彼らに被いをかけてやった(コーラン36章9節)」。
罪びとは、前にも後ろにもある障壁を見ることが出来ない。張り巡らされた障壁は、あたかも広々とした草原であるかのように見せかけてある。それで彼らは、自由に走り回れるかのように見誤る、それが神の定めたもう運命の障壁であるとも気付かずに。地上におけるあなた方が愛する者が、あなた方と、天上における愛する者との間を阻む障壁となる。世俗におけるあなた方の師が、あなた方と、天上における師との間を阻む障壁となる。
ああ、多くの人々が信仰者のごとく宗教を語る - だが実のところ、彼らは異教徒だ。彼らが持っているのは宗教ではなく、宗教に対する熱情と憧憬に過ぎない。そして世間体や評判、虚栄、世俗のあれだのこれだのに対する執着が、彼らのような人々を繋ぐ格好の鎖となる。
この鎖は隠されて眼には見えない、だが眼に見える鉄の鎖よりもなお悪い。鉄の鎖なら、斧で断ち切ることも出来よう。鉄の鎖なら、取り外すことも出来よう。だが眼に見えぬ鎖を断ち切る術など、一体誰が知るだろうか?
スズメバチに刺された人が、最初にする事はスズメバチの毒針を引き抜く事だ。しかし毒針を引き抜いても、刺された傷の痛みまで引き抜くことは出来ない。痛みは刺された人のすぐ傍に居座り、暴力をふるい続ける。 - これについて語ろうと思えば、いくらでも語ることが出来る。私の胸の奥から、泉のように言葉が沸き上がってくる。しかしその全てを語り尽くせば、聞いているあなた方は絶望の淵に沈んでしまうのではないか。それを私は怖れる。
否!絶望するには及ばない。生きている間は希望を捨てるな、学ぶことをあきらめるな。絶望する前に助けを乞え、やがて私達を呼び戻すだろう御方に救いを求めるのだ。「私達を赦して下さい、最も赦したもう御方よ。私達を癒して下さい、私達の病苦を治す最も優れた医師よ」。
知識の反射は、かの哀れな罪びと - 預言者の書記 - を惑わせ道を誤らせた。決して他人事のように思うな、自惚れは塵のように誰の頭にでも降りかかる。塵だと思って侮れば、あっと言う間に山と積もって滅びの原因となる。
わが友人達よ、知識はいつでもあなた方の周囲に降り注いでいる。手を伸ばせば、それらはいつでもあなた方の手に入るだろう。だが忘れるな、それはあなた方の知識のようで、あなた方の知識ではない。知識は知覚者達の手によって振る舞われたものだ。あなた方は、それを借りているに過ぎない。
あなた方の住処(※心を指す)にも、暖かい光が灯されているかも知れない。だが忘れるな、それはあなた方の光のようで、あなた方の光ではない。忘れたのか、あなた方に光を分け与えた隣人がいたことを。感謝を忘れるな、感謝を怠るな。おのれの虚栄を混ぜるな、見栄をはって誤摩化すな。耳を澄ませろ、眼を開け、自惚れの鼻は引っ込めろ。
憐れむべきかな、悲しむべきかな。この知識もこの光も借り物に過ぎず、現世はかりそめの宿に過ぎぬというのに、それを忘れて「私が、私が」と主張する者の何と多いことか。そうした者達こそが、人々を宗教から遠ざけているのだ。そのような名ばかりの宗教的共同体など、真に人々が欲する宗教的な交わりからは最もかけ離れたものではないか。
私だとて、あのような者達に仕えるのはまっぴら御免だ - あのカラヴァンサライ(※精神的成長の階梯を暗喩する)にも居た、このカラヴァンサライにも居た、どこそこのカラヴァンサライも知っている。そして全てのカラヴァンサライで、食卓(※神秘体験を暗喩する)を共にした。私はそうした特権を得ている、などと、愚にもつかぬ自慢話に明け暮れるばかりの者達。
私はあのような者達には仕えない。仕えるならば、どのカラヴァンサライにあっても奴隷のごとく振る舞うひと、聖者のごとく振る舞わぬひとにこそ仕える。第一、語られるカラヴァンサライの多くは、聞くにも値せぬ廃されるべきものばかりだ。誰であれ遅かれ早かれ、唯ひとつの住処に還り着かねばならなくなるのだから。
鉄が赤いのは、鉄に属する鉄の本質ではない。鉄を焙り、熱する炎の力があってこそ鉄は赤く光るのだ。窓から光が差し込むのは、窓が光を放っているからではない。窓の外にある太陽が、光を放っているからだ。
「光を放つのはこの私」、と、どの扉も壁も口を揃えて言う、「この光は借り物などではありません。正真正銘、この私自身が光を放っているのです」。そこで太陽が言う、「愚か者め。待っているがいい、私が沈んでしまえば、誰が正しく誰が間違っているかは、否応なく明らかになるのだから」。
「緑に輝くのはこの私」、と、どの植物も口を揃えて言う、「楽しく笑い合って過ごすのに、誰の助けがいるものか。花が咲くのも蔓が伸びるのも、全て私自身でやっていることです」。そこで夏の季節が言う、「そうやって笑っているがいい。私があなた方の許から旅立ってしまえば、誰が正しく誰が間違っているかは、否応なく明らかになるのだから」。
肉体が美を誇り、その顔を鏡に映して得意げに振る舞うとき、鏡には映らぬ精神が、羽も翼も隠して言う - 「何様のつもりだ、おまえなど、たかだか糞の詰まった袋ではないか。おまえが真に輝けるのは人生のうちほんの一日、二日だけのこと。それとて私が光を放たなければ、おまえに出来ることなど何もないのだぞ。おまえの魅力とやらも、おまえの誇りとやらも、全ての境界を超えたあちらの世界では通用しない。
その日は突然やってくる - 待っておれ、私がおまえから逃げ出すその日を!その日、かつてのおまえを取り囲み、愛し、おまえを暖めていた者達が、おまえのために墓を掘るだろう。おまえを墓に投げ入れて、おまえを蟻達、虫達の餌にするだろう。かつておまえを欲し、求め、おまえのために命を捧げようと誓いまでした者達が、おまえの放つ悪臭に鼻をつまんで逃げ出すだろう」。
精神の放つ光とは、すなわち言葉であり、眼の働きであり、耳の働きである。沸騰すれば水は泡立つ、だが何も無しに水が沸騰するだろうか? - 否、水を熱する火の働きがなければ、水が一人でに泡立つことは無い。これと同じように、精神の放つ熱が、光が、肉体に影響を及ぼしている。
かつて神の友と呼ばれた偉大な先達よ。どうか私の魂を照らしてくれ、どうか私に光を与えてくれ。魂の中の魂よ、どうか私から去らないでおくれ。それは私の魂が死ぬ日だ。あなたがいなければ、私の魂は肉体に絡めとられて消えてしまうだろう、そしてそれ以降、私は死者と何の変わりも無くなってしまうだろう。
それゆえに私は、こうして大地に頭を垂れて祈る。やがて審判の日が訪れたとき、大地に - 彼女に、私の証人になってもらうためだ。審判の日、彼女は激しく震えるだろう。私達よりも前に、あるいは私達の後に、彼女の上を通り過ぎた者全ての、彼女は証人となって語るだろう。「その日、大地はすべての消息を語るであろう(コーラン99章4節)」、地と岩が一斉に話し始めるだろう。
哲学者達は信じようとはしない、何故なら彼らには彼らの理論とやらがあり、意見とやらがあるから。彼らは決して認めようとはしない、彼らの前に超えられない壁があるということを!あれらなど、壁に頭を打ちつけ続けていればいいのだ。心ある者には聞こえるだろう、魂ある者には聞こえるだろう、水の声が、大地の声が、岩の声が - 小石の声が。
『嘆きの柱』を信じぬ哲学者達は、聖なるものを捉える人々の感覚を持ち得ない。彼らはそれにメランコリアという名をつけて、気質がもたらす影響に過ぎないと主張する。否、否。影響をいうなら、自らの掲げる懐疑論がもたらす影響をこそ見るがいい。彼らは悪魔の存在を信じない。だが同時に、彼らが信じてはおらぬ悪魔の替わりに、彼ら自身が悪魔同様の悪事を働くのだ。
もしもあなた方のうち、悪魔などただの一度も目にしたことがない、と言う人があるなら、私はその人にこう答えよう - 自分自身をよく調べよ、と。一度でも、自分自身を振り返ったことがある人ならば分かるはずだ。鬱々と気が晴れぬことがあれば、それこそは悪魔が額に差す影に他ならない。
心の中を、疑念と不安ばかりが渦を巻いているようなら、それがこの世の哲学者というもの。たとえ口では信仰を固く守っていると明言していても、疑念は静脈に沿って体中を巡り、やがて疑念に飲み込まれてしまう。信じる人々よ、用心せよ。外ではない、静脈はあなた方自身の中にある。外ではない、世界はあなた方自身の中にある。無数に枝分かれした党派が互いに争っている。外ではない、党派はあなた方自身の中にある。
用心せよ、用心せよ。もしも彼らがあなた方自身の中で勝利してしまったとしたら、それが悲劇の始まりだ。それを怖れて、信じる人々は震えて祈る、宗教の枝にしがみつく一枚の木の葉のように。
悪魔を笑い飛ばし、悪魔の眷属を笑い飛ばすというのは、つまりは自分で自分を善であると考え、悪魔よりも優れていると考えるからこそ出来ることだ。もしもその魂が着ていた衣を裏返し、隠されていたものをあらわにしたとしたら、どれほど多くのムスリムが、恥のために泣き叫んで悲しむ羽目に陥るだろうか。
店先に並んだ全ての品々は、きらきらと輝いてまるで本物の金のように微笑んでいる。けれど確かめようにも、我らの試金石ははるかに遠く、手の届かないところへ行ってしまった。 - 「ああ、隠したもう御方よ、どうかヴェイルを取り上げたもうな。犯した過ちを晒したもうな。そして私達が試されるその時は、私達を過ちからお守り下さい」。
メッキを施された偽の金貨は、夜の間ならば本物の金貨とも見分けがつかない。それで本物の金貨は、日が昇るのを静かに待つ。そして心の中でこう言う、「贋金よ、待っていろ。やがて朝日が巡ってくれば、全てがあらわにされるのだから」。
今となっては悪魔として知られるイブリースも、かつては幾万年もの長きに渡り、聖なる天使であり、信仰者の星であった。彼の敵となったのも、彼自身の中にあった虚栄と高慢だ。それが彼をアダムに敵対させた。そして結句は朝の用足しのごとく打ち捨てられ、何の役にも立たなかった自尊心ごと葬り去られることとなったのである。