霊的知識と酩酊について

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

霊的知識と酩酊について

賢者(ハーキム・サナーイー)の言葉に耳傾けよ。賢者曰く、 - 『ぶどう酒を飲んで酔うたなら、酔うたその場で寝てしまえ』。酔漢が、酒場を離れてふらふらと通りを歩くものではない。子供達の、物笑いの種になるだけだ。彼らの目には、「酔う」というのは過誤以外の何ものにも映らない。

酔って通りを歩けば、あちらへふらふら、こちらへふらふら、やがて泥の中へ転がり込むのがおちだ。そして世の中というものは、転んだ者を声あげて笑う馬鹿であふれている。よろよろと立ち上がれば、子供達が後からついてくる。ぶどう酒の味も知らず、酩酊の意味も知らぬ子供達が。

子供達、というのは何も年齢を指しているものではない。ヒトというもの、いくら年齢を重ねようが皆未成熟な子供だ - 神に酔う者を除いては。神に酔うことを知らぬ者とはすなわち未だ己の感覚、己の欲望に縛られた者。対して神に酔う者とは、それらから解放された者だ。

神は言いたもう、 - 『現世はたわむれ、一時の気晴らし。汝ら赤子の為すことは、一事が万事児戯に過ぎぬ(コーラン29章64節並びに57章20節)』。全くもってこの通り、神は常に真実を語りたもう。いつまでも遊びから離れようとはしない、出来ないのが子供というもの。

魂の純化無しに、どうして完全に成熟したと言えようか。知性を磨くこと無しに、どうして大人だなどと言えようか。わが友人達よ。現世の快楽など、子供同士のまぐわいのようなものだ。子供のまぐわいとは如何なるものか。無益も無益、何の足しにもならぬお遊びだ。我らがイスラムの英雄ロスタムを思え。彼を見れば、何が大人で何が子供か分かるというもの。

ヒトとヒトとの間で繰り広げられる戦争を見るがいい。あれなど本当に子供のすることだ。意味も無ければ芯も無い。卑しむべき下劣な行為だ - あれが『戦い』でなどあるものか、木で出来た紛いものの剣を振り回しているに過ぎぬ。彼らにその目的を尋ねてみるがいい。彼らが中心に据えるものの、いかに無益であることか。

乗っているのは葦の茎で作ったおもちゃの馬だ、にも関わらず彼らは言う、「これぞブラーク、空翔る天馬だ」、「これぞドゥルドゥル、預言者のラバだ」。何を言うか。おもちゃの馬で、一体どこへ行くつもりか。彼らは高い、高いところにいる - 愚劣さという点において。

自分では何をしているわけでもない、ただただ人の波に乗って、通りを運ばれているというだけのこと。それだけで、あたかも自ら何ごとかを成し得たように思い込む。その思い込みが、彼らをますます自惚れさせる。

九層の天の最上部で神により生を受け、神により育まれし者達が駆け足で通り抜ける日の到来を待て。「天使も魂も、『それ』を昇る(コーラン70章4節)」 - 魂が昇天すれば天はうち震える。人々は皆まるで子供のように衣の裾をからげて軌道を走る。まるで子供の「ごっこ遊び」のよう、馬に乗ったつもりになって、衣の裾の端を手綱のようにつかんで。

神は啓示を下したもう、「なにごとも真理なしに推測で済まされるものではない(コーラン10章36節)」と。一体、あなた方の推測は、あなた方に何をもたらしてくれただろうか。あなた方の推測や思案は、あなた方に満足な結果をもたらしてくれただろうか?あなた方の推測の馬は、あなた方の思案の馬は、天に向かって駆け昇るに耐えうるものだろうか?

ある問題について二つの意見がある時、そしてあなた方の心に強い疑念が生じた時、するべきことは何だろうか?あなた方がするべきこと、それは疑念を燃やし続けることではない。より強く輝くのはどちらであるかを見極めることである。だが最も強く輝く太陽の光を知らぬ者に、正しい選択は果して可能だろうか?

太陽を見よ、たちまちのうちに疑念は晴れるだろう!あなた方の馬に目をやるのはその後の話だ。さあ、今こそ馬に乗り、還れ、御方の許へ。今やあなた方自身の脚が馬となって空を翔る -

あなた方は知っているのだろうか?あなた方の理解も思考も認識も、そしてそこから生じる不安も、まるで葦の茎を編んで作られた、子供騙しのはかないおもちゃであることを。それが神秘の学問であれば、あなた方を天高く運ぶだろう。しかし物質の学問であれば、それはあなた方の重荷にしかならないだろう。

愛の科学は経験を通してのみ会得出来るもの。心で学んだ知識は『yari(助け手)』となる。だが身体に染み付いた知識は『bari(重荷)』にしかならない。神は言いたもう、「書物を運ぶロバ(コーラン62章5節)」よ、哀れなものよ、と。神は重荷を背負わせたまわぬ。重荷となるような知識なら、神からのものではないということだ。

それは見せかけの知識だ、そして見せかけの知識は長く持ちこたえるものではない - 疲れ切った女の厚化粧のように。しかし運ぶ者がよく耐え、一心不乱に運ぶならば、やがて重荷も取り除かれよう、そしてその時こそ、魂に歓喜がもたらされることだろう。 - 用心せよ!知識と重荷、そして馬とを取り違えるな。

『Hu(それ)』の杯を飲み干せ!一体その杯無しに、どうして自我からの解放などあり得るだろう。あなた方は『Hu(それ)』にまで名を付け、名の裡に閉じ込めようとする。ならば行け!行って『Hu(それ)』の実体を探してみせるがいい!知れ、呼応するものが目に見えずとも、それが確かに「在る」ことを伝える名もあるのだということを。

あなた方は、「ば」「ら」の文字から薔薇の花を摘んだことはあるだろうか?あなた方はその花の名は知っているだろう、だがそれだけで、本当に「薔薇」を「知っている」、などと言えるのか?あなた方はその名を口にする。それでいて、名付けられたそれを探そうとはしない - 行け、行って探せ!

月はいつでも空高くある、水面に映るのはただの影に過ぎぬ。名を超え、文字を超えたその先へ - ああ!自分を脱ぎ捨て、自分を超えたその先へ!

自分を律することにより、錆ひとつ無い鏡のようであれ。磨き抜かれた完璧な鉄には、もはや鉄の色も無い。「私」という属性に関わる全てを捨てよ、曇りも無く混じりけも無い、あなたの輝ける本質に出会うために。清め終えたその後は、無垢となった心ひとつを信じて歩め。

心の中には、全ての知識がすでに用意されている - それこそが預言者達の科学だ。心ひとつを信じて歩め、心ひとつを学んで歩め - 書物を捨て、教師を捨て、導師を捨てて。預言者は言った、「私の同胞の中には、私と同じ性質を持ち、私と同じ大望を持つ者がいる。彼らの魂は、私が見たのと同じ光を通して物事を見ている」。

生命の水の在り処を、知る者は必ずや知るのだ、二つのサヒーフ(伝承集)も無く、伝承も、伝承学者も無しに。「昨夜の私はクルドとして眠り、今朝はアラブとして目覚めた」という言葉に秘められた意味を知る者はあるか?隠された知識の寓話を欲する者はあるか?

- ならば今宵はこれまで。この次には、ギリシャの画家と唐の画家の物語を語るとしよう。