『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
ギリシャの絵描きと唐の国の絵描き
その昔、唐の国の絵描きが言うことには、「我らの技術に適う者はいない」。応えて、ギリシャの絵描きが言うことには、「我らはそれよりもさらに優れている」。そこでスルタンは言った、「ならば双方、腕試しにひとつ描いてもらおう。果たしてどちらの言い分が正しいのか、その出来栄えを見て決めようではないか」。
これを聞いて、唐の国の絵描きとギリシャの絵描きは議論を始めたが、やがてギリシャの絵描きは議論から退いた。唐の国の絵描きは言った、「我らに一隅をお与え下さい、そして彼らにも同じように」。回廊を間に挟んで、扉と扉が向かい合う部屋の、片方を唐の国の絵描きが使い、もう片方をギリシアの絵描きが使うことになった。
唐の国の絵描きはスルタンに、絵の具を百色、用意してくれるよう願い出た。スルタンは自らの宝物倉を開けた。以降、唐の国の絵描きには、毎朝必ず絵の具が届けられた。
ギリシャの絵描きは言った。「私どもに、絵の具は無用です。色彩を必要としておりませぬゆえ。きれいさっぱり、錆を落とすこと - やらねばならぬ仕事はそれだけです」。彼らは扉を閉め、部屋の中を念入りに磨き始めた。すっかり汚れの落ちた壁は、まるで晴れた空のように明るく輝いた。
色彩を多く取り入れれば取り入れるほど、真の鮮やかさは失われ薄暗くなる。その工程を、逆に辿ってみるといい。二百の色から、無の色へと至る隠された道がある。色彩が雲なら、月は無彩だ。だが雲が色に染まり輝いて見えようとも、知れ、それは雲ではなく雲を照らす星や月、太陽の仕業であることを。
- さて、仕事を終えると、唐の国の絵描きは太鼓を打ち鳴らしてその出来栄えを喜んだ。完成した絵画を見ようと、スルタンは部屋に入ったが、描かれた絵画の素晴らしさに、ただ唖然とするばかりであった。心ゆくまで堪能してから、今度はギリシャの絵描きの部屋を訪れた。
ギリシャの絵描きが、部屋と部屋とを遮っていた緞帳を引き上げた。するとどうだろう、唐の国の絵描きの描いた景色が浮かび上がった - 彼らが磨いた壁に、反射して映し出されたのである。先ほど見たばかりの絵画が、より美しく、輝いて見えた。それはまさしく眼を奪うような光景であった。
このギリシャの絵描き達こそ、父よ、真のスーフィーではなかろうか。学問も無ければ書物も読まず、また博識というのでもない。しかし心がある。嫉妬や憎悪、貪欲や強欲を、回を重ねて何度でもたゆまず拭い去ることにより、磨きに磨かれた純正な心がある。
磨き抜かれてくもり一つ無く純正な心というものは、疑う余地も無い鏡である。その鏡は無数の、ありとあらゆる種類のヴィジョンを受け取って映し出す。精神におけるモーセの胸とは、いつでもそうしたもの。彼の心の鏡には、不可視の領域から送り届けられる無数のヴィジョンが映し出されているのである。
映し出されるそれらのヴィジョンは、『何処』という場所に収まるものに非ず。たとえ楽園であろうとも、星々のきらめく天空であろうとも、また魚の背の上で眠るこの惑星(地球)であろうとも収めきれるものではない - むしろこれら全てを収めてなお広大なもの、それが心である。
知れ、心は何ものにも属さず、従って限界も無いということを!ここに至ればもはや頭脳は沈黙する他は無く、理解もまた無言となる他はない。心は神と共に在り、神は心と共に在る - 何となれば、心こそは神ともなろうから!
たとえどれほど輝こうとも、たとえどれほど鮮やかであろうとも、あらゆるフォルム、あらゆるイメージは永遠ではない。何が永遠であるかを知るには、心の鏡を絶えず研ぎ澄ませる必要があるが、同時に対象となるフォルムやイメージからも、色や形、香りや音を剥ぎ取らねばならぬ。
そのようにして初めて顕現するもの、それこそが永遠の美であり善である。知識という殻を放棄した者はそれを見るだろう。瞳に確信の旗を掲げる者はそれを見るだろう - あらゆる思考が消滅すれば、残るのはただ光のみ。殻の中身を取る者こそ、あらゆるものの根源の海を知るのである。
多くの者が死を怖れて逃げ惑うが、海を知る者はそれを見て笑う。苦痛に喘ぐのは牡蠣の殻だ、真珠の眠りを妨げるものなど何も無い。自らの心を制する者が何を怖れるだろうか - マフウ(文法)とフィクフ(法学)の殻を手放し、ナフウ(捨我)とファクル(精進)の真珠を得た者が何を怖れるだろうか。
輝ける八層の天界が地上を照らすとき、彼らの心は苦もなくそれを迎え入れる、彼らはその価値を知る者である。「全能の支配者のみもとで、真実の座を占めるのだ(コーラン54章55節)」。彼らの心は真実の座の高みにある。天球よりもなお高く、神の視座の高みにある。