『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
続)信じる者の長ウマルとローマからの使者
「ウマルよ、おお、ウマルよ」、彼(使者)は言った。「清らかであった魂が、汚れたこの地に幽閉されるとは。この不思議を、一体どのように理解すれば良いのでしょう。精神それ自体は清らかなものであったはず。それを縛り付けて汚すのがこの肉体であるとは。どうして汚泥が、清い水を湧かせられるものでしょうか」。
彼(ウマル)は言った、「おまえは、深い問いを問うている。だが言葉に囚われ過ぎているのがいけない。吹き渡る風を、言葉の檻に閉じ込めるなど誰が出来るだろうか?意味とは無条件に自由なものだ、それを幽閉することなど出来はしないし、あってはならない。 - 良きもの、益となるものを欲するのは自然なことだ。だが自分自身にとっての良きもの、益となるもののみを見る者には、神にとっての良きもの、益となるものが見えない。
肉体を、汚泥であるとおまえは言う。おまえには見えていないだけだ、精神がどれほどの益を『汚泥』から得ているのかを。良きものは無数にある、しかしこの益に比べれば無数など無にも等しい。おまえの精神が一つの言葉を発するたびに、おまえの肉体は一つの吐息を発する。精神と肉体があって、初めて成り立つのだ。切り離すことなど、どうして出来ようか。精神と肉体の関わりから得られる益を視界から切り捨てて、どうして益についてなど語れようか。
語れ、そして行なえ。おまえの言葉も行為も、それが良きものと思うのならば。だが『全体』を成り立たせる『部分』のいずれかを否定するために、その手を、その拳を、振り上げて良い理由など何処にあるだろうか。語ることに益無しと思うならば沈黙を守れ。肉体に頼ることなしに、精神のみで語れる言葉など沈黙以外には無いのだから。
だがそうではないのなら、語り続けたいのなら、『部分』を、ひいては『全体』を否定し異議を唱えるような真似はするな。感謝と共に語るよう努めよ。胸元を飾る襟のように、おまえの首に神への感謝を忘れずに巻き付けておけ。 - 議論はこれでおしまいにしよう。拗ねるな、しかめつらはもう沢山だ」。
議論に比べれば、感謝はそう難しいことではない。議論のように、互いに酢を飲んだような気分になることもない。互いに、味わう相手の顔をゆがめるようなことにはならない。 - まだ酢を飲み足りないか?物好きな奴め。それなら、せめて砂糖か蜜をたっぷりと混ぜてくれ、甘みをつけたシロップにしてくれ。こんな酸いものを生のままで飲ませないでくれ、私の肝臓を労ってくれ。
- 詩を詠むというのは、まさしく吊り縄にぶら下がるようなものだ。確実なことなど何ひとつなければ、定まった方向もない。私が語るからと言って、私の思い通りになるものでもない。全く、我ながら正気の沙汰ではない。