『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
小鳥、魂、そして神的知性
さて、今のは私の愚痴であった。だが愚痴の中に魂が潜むこともあるというもの。オウムをめぐる物語の魂もまた、これ、この中にこそ潜む。 - 鳥はどこへ行った?鳥の友、魂の友はどこへ行ったのか。かよわくはかなく、純粋無垢な小鳥。彼らが嘆けば、ソロモン王も鷹揚と構えてはおられまい。
彼ら(魂)が賛美でもなく呪詛でもなく、ただただ悲嘆にくれてうめき声をあげるとき、その声、その嘆きに七層の天界は激しく震える。悲嘆にくれる魂の許へ、神の使者がひっきりなしに訪れる、神よりの書状を携えて。「我が主よ!」と、たった一声でも魂が泣いて名を呼べば、「لبيك(ラッバイカ:われここにあり)」と、神は百の返事をしたためる。
無言で服従するよりも、泣いて訴えることの方が神の御目にはより好ましく映る。魂の反逆にこそ、神は価値を見出し愛で給う。このような反逆に比べれば、無言の服従など何の意味も価値も持たない。反逆すればするほど、涙を流せば流すほど魂は刻一刻と上昇する。上昇する先にあるのはただ唯一の御方のみ、その他多くの有象無象など目にも入らぬ。
御方は魂を宝冠で飾る、その他多くの有象無象の宝冠など、足許にも及ばぬ比類なき宝冠を。宝冠を飾られた者、その肉体は地上にあるが精神は「何処」という場所も無きところにある。「何処」という場所も無きところ、すなわち神秘道の旅人達の想像すらも超えたところに。「何処」という場所も無きところ、それは刻一刻と新たに創造されるところ。それは理解を拒み、理解に拒まれるところ。
「何処」という場所も無きところを、探せ、汝自身の内奥に探せ。気紛れに非ず、慰みに非ず、幻想やあやかしの類いに非ず - 否。場所も「場所も無きところ」も、御方の御心次第。ちょうど楽園を流れる四つの川が、楽園に住まう御方の御心次第であるように。
くどくどと説明したところで、分からぬ者には決して分からぬ。はっきりと言おう、気に入らなければ去るが良かろう - だが知っておけ、何が正しいか最も良くご存知なのはただ神のみ。間違っても、汝自身ではないことを知れ。
去る者が去った後に残る者は、さあ、インドへ渡った商人とオウムの話の続きに戻ろう - オウムの言葉を、彼女の仲間達に伝えることについて商人は気前良く約束した。そしてオウムを置いて、インドへと旅だっていった。