『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
現世を見失う者は来世も見失う
無一物の貧乏哲学者がいた。彼が確信を込めて言うには、「宇宙とは卵であり、地球はその黄身である」。そこで彼に尋ねる者があった、何故に黄身であるこの地球は、あたかも吊るされたランプのように、下降も上昇もせず中空に浮かんでいられるのか?と。
哲学者が答えて言うには、「中空に浮かんでいるのは、宇宙のあらゆる方角から同時に力が働いているからだ。大空とは、磁石で出来た円蓋のごときもの。地球は、磁石に囲まれ全方向からかかる圧のために浮遊せしめられ留め置かれる鉄のごときものである」。
他の誰かが重ねて尋ねた。「混じりけのない、穢れひとつないあの空が、一体どうして泥の塊の地球を、自分の方へ引き寄せようなどとするのだろう?」。「否、否。引き寄せているのではない、むしろ追い払われているのだ。宇宙の全方角から、地球は絶え間なく殴りつけられているようなものなのだ。それでどちらの方角へ行くことも叶わず、中空に、激しく引き荒ぶ凶暴な風にさらされつつ留まり続ける他はないのだ」。
ファラオも、これとよく似ている。彼の心は、聖なる人のそれとは激しく反発する。それで彼は、破滅の風の中に留まる以外の道がない。「こちらの世界」を拒絶すれば、「あちらの世界」でも拒絶される。「これ」はだめでも「あれ」がある、などと選んでなぞいられるものか。現世を見失う者は、来世も見失う。拒絶し、拒絶される者には、「これ」も「あれ」もない。
聖なる人々に背を向けたのならば、彼らもまた、背を向けた人を嫌悪している、ということだ。聖なる人々、神を友とする人々、琥珀を所有する人々。もしも彼らが、彼らの琥珀を少しでもあなたに見せようものなら、あなたの存在はまるで藁くずのようにいとも簡単に欲望に追い回されて血迷う。もしも彼らが、あなたから琥珀を隠せば、あなたの(神への)服従は、たちまち反逆に様変わりする。
一体、あなたにとり「聖者」とは何を指すのか。何を以てあなたは「聖者」を見分けるのか。何かを与えてくれるか、くれないかがそれほど気にかかるのか。そのような人々は、聖者達からすればケモノに過ぎない。捕えられ、檻に入れられ、ヒトに餌をくれとねだるケモノだ。ケモノの階梯に対して、ヒトの階梯が持つ力。聖者の力とは、譬えるならそのようなものだ。
アハマドは、全世界の人々を「しもべ」と呼んだ。それも実に正しく、実に義のある呼び方で。彼は言った、 - 「読め、『言え、わがしもべ達よ』と(コーラン39章53節)」。あなた方がラクダなら、ラクダを操るのはラクダの頭脳だ。どこへ行くにも何をするにも、あなた方を厳しく支配するのはあなた方の頭脳だ。そして聖者とは、頭脳を操る知性だ。ラクダが頭脳から逃れることなど出来ぬように、頭脳も知性の監視を逃れることなど出来ない。いずれは捕えられる。
物事には始まりと終わりがある。だが始まりから終わりまで途切れることがないもの、それが知性だ。こちらへ来て、じっくりと見るといい。良く熟慮するといい。物事の、始まりから終わりにかけて、一人の導師が立っているのが見えるだろう。導師の後を、百も千も、万もの魂が追いかけてゆくのが見えるだろう。
- 言う者がある、「どこに導師がいるんだって?誰がラクダ使いだって?」。何ということだ。太陽と、太陽以外を見分けられないとは。そうした者は、まず見分けられる目を手に入れるところから始めなくてはならない。ごらん。世界が、まるで釘打たれたように夜の中でじっと動かずにいるのを。世界は待っているのだ、やがて太陽が昇るのを、光が届けられるのを。
飛び回る原子の一粒に太陽が隠されている、子羊の皮の下にライオンが隠されている - 「彼」を探せ!辺り一面、藁で敷き詰められているかと思えば、その下に隠された海が広がっていることもある - 気をつけろ、でないと溺れてしまう!注意深く疑うことも、避けられず過ちを犯すことも、そのどちらもが、実のところ神のお導きに他ならぬ。どちらもが、神のお慈悲の顕われだ。
預言者達の誰しもが、この世に遣わされる時はたった一人で遣わされる。預言者は、たった一人で孤独に地に立つ。だが彼の中には、未だ誰の目にもふれたことのない百の宇宙が封じ込められているのだ。彼の力に、大宇宙は恍惚となる。そして小宇宙に姿かたちを変え、彼の中へと逃げ込む。
愚か者には、それが理解できない。たった一人で地に立つ彼を、何も持たず、味方もいない弱き者として侮る。だが王の中の王を友とする者が、どうして弱いことなどあろうか?愚か者は言う、「何のことはない。ただのヒトではないか」。彼には聞こえないのだ、預言者の裡にこだまする小宇宙の歓喜の声が。