預言者サーリフとサムードの民

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

預言者サーリフとサムードの民

預言者の一人サーリフが、雌のラクダを連れて彼の民を訪れた時のこと。肉体の目、外的な感覚で見る他にすべを知らない者達にとっては、彼らの姿はただみすぼらしいだけで、とても勝利者のようには見えなかった。神が何ごとかをなさろうという時はいつもそうだ。御方の軍勢は、御方の敵となる者の目にはいかにもか弱く見える。たとえ力量において比べようもなく優っていたとしても、それを知るのはもっとずっと先の事だ。

おまえたちが彼らと遭遇したとき、神はおまえたちの目に彼らを小勢に見せたまう。また彼らの目には、おまえたちを少なく見せたもうた。神が起こるべく定められたことを成就したもうためである。万事は神に帰する(コーラン8章44節)」。さて、サーリフの連れてきた雌のラクダは、一見すると何の変哲もなく、平凡なラクダの姿をしていた。

それで愚かな一族の人々は、何の考えも無しにその腱を切り、軽々しく屠ってしまったのだった。ラクダに与える水を惜しみ、水を巡って - すなわち神の恩恵を巡って - 彼らはラクダの敵となった。パンに目を奪われ水に目を奪われ、だが神の恩恵には目もくれず、ただ忘却したのだった。

サーリフが連れてきた雌のラクダは、小川と雲とに水を求めて飲んだ。彼女は神に属するもの、水は神に属するもの。彼女に水を与えないというのは、真実のところ神から神の所有を奪うということに等しい。サーリフの連れてきた雌のラクダとは、正しき者の肉体の象徴だ。それは邪な者が油断したところに、隠されて仕掛けられた罠のような働きをする。それを通じて、あなた方は神の意図するところを知ることとなる - 神の有たる雌のラクダから、彼女の有たる水をどうして奪えようか。

水はどのように与えられたか。彼らを通じてか、あるいは彼らに与えられる死と悲痛を通じてか。 - 神の陪審である『復讐』は、ただ一頭のラクダの流された血の代償として、一族と、一族の住まう町全てをもって購うよう要求したのだった。預言者達の精神、聖者達の精神とはサーリフのようなものだ、そしてその肉体は雌ラクダのようなものだ。彼らの精神は常に神と共に在り、彼らの肉体は常に苦悩と共に在る。

サーリフ、すなわち精神は、苦悩に支配されることはない。痛めつけられ傷つくのは、ラクダ、すなわち肉体の方だ。外側を覆う器が傷つけられても、器の中身である本質を損ねることにはならない。砕けるのは牡蠣の殻、殻の中の真珠には傷ひとつ負わせることは出来ない。誰ひとりとして、聖なる人々の心を害することは出来ない。サーリフの精神には、傷つく余地などない。

神の光を認めぬ者に、どうして神の光を汚せるだろうか?

神を信じぬ者がいたところで、それが一体何だというのか。

神の光に、何ほどの影響があるというのか。

魂の中の魂、魂の王たる神は、精神と肉体をひとつの場として繋ぎ合わせたもうた。それでヒトは悲哀と試練に、否も応もなく向き合わねばならなくなった。顔を背けずに向き合えば、その根底に流れる神の意図をも知ることになる。この壺の水は、かの河に流れる水と通じている。それを知れば、どうしてこの壺を壊すことなど出来ようか。この壺を壊すということは、御方に逆らうということだ。

神が精神と肉体をひとつの場として繋ぎ合わせたもうたのは、彼ら(預言者達、聖者達)をもって、世界に安寧をもたらす隠れ処とするためだ。サーリフの精神を友とするためには、彼の連れて来た雌のラクダに、すなわち彼らの肉体に奉仕しなくてはならない。おろそかにしてはいけない。サーリフはサムードの民に告げた -

「あなた方は、妬みからこのような振る舞いに及んだ。三日のうちに、神の罰が届けられるだろう。唯一の御方、命を与え、命を召される御方から、三つのみしるしが届けられるだろう。あなた方の顔は、その色をめまぐるしく変えることだろう、ヒトの顔がこうまでも変わるものかと驚くほどに。サフランの色かと思えば、次の日には薔薇よりも赤く染まり、最後には墨のような黒になるだろう。

それから、間髪待たずに神の怒りが振り下ろされる。だがそんな脅威の兆しを、あなた方は本当に欲するのか?あなた方に見えるだろうか、無惨に屠られたラクダの仔が、あなた方から逃れようと山際で必死にもがいている。もしもあなた方がその手を止め、ラクダの仔に指一本触れずにそっとしておいてやれるならば、それならばまだ希望を持てる。そうでなければ、希望の鳥は罠を避け、この場から去ってしまうだろう」。

けれどサムードの人々は、我れ先にと争ってラクダの仔を追った。ラクダの仔は、誰の手に渡ることもなかった。そのまま一心不乱に逃げ、山頂まで登りつめると、そのまま消えていなくなってしまった。追いつめられれば精神は、恥多き肉体を逃れて、唯一の主の慈悲のみを恃み、慈悲の中へと消え去ってしまうのだ。

サーリフは言った。「誰一人として、御方の命ずるところを理解した者はいなかった。希望は踏みにじられた、希望の首を刎ね、屠ってしまったのはあなた方自身だ!」。ラクダの仔とは何を指すのだろうか?それは誰の心にもあるはずの、もっと高くありたい、もっと良くありたいという意志だ。

そもそもその意志自体が、高いところにある。心優しく、思いやりをもって振る舞うことによって、あなた方はその意志に手を伸ばし、またその意志を甦らせることが出来る。たとえ罪を犯しても、その意志さえ再び甦るならば、あなた方は全ての災厄から逃れることが出来るのだ。

けれどそうでなければ、その時こそは本当の絶望があなた方を取り囲む、自分自身の腕を噛みちぎるばかりの絶望が - サムードの人々は、彼らの上に垂れ込める暗鬱な運命の全てを、このように聞かされた。彼らがしたことと言えば、ただ視線を落として互いに目を背け合い、『それ』を待つことだけ。

一日目。彼らの顔はサフランの色に染まった。彼らが見たのは、絶望のあまり泣き叫ぶ互いの顔。

二日目。彼らの顔は薔薇のように華やかな赤に染まった、彼らの間にあった縋るような望みの全てが潰え、入れ替わりに恐怖が沸き起こった。

三日目。彼らの顔は墨のように黒く染まった。サーリフが告げた言葉が、ことごとく真実であることが証明されてしまった。こんな事になるだなんて、誰も夢にも思っていなかった。呆然となり、虚脱し、やがて無力感だけがその場を満たした。やがて彼らはうつ伏せ跪いた、空飛ぶ鳥が落ちたように。

「彼らは家の中でうつ伏せになっていた(コーラン7章78節)」と、天使ガブリエルが語り告げた通りの光景がそこにあった。誰に教わるものでもない。だが滅びについて、それがどのように訪れるのか、どのように起こるのかを知ってしまえば、うつ伏せて跪く以外に何があるだろうか!

跪くことは恐れるべきことではない。だがこのようなかたちで跪かねばならない、というのは恐ろしいことだ。彼ら(聖者達)がそれを教えてくれている。教わった時に、教わった通りに跪いていさえすれば!サムードの人々は、復讐の一撃が下されるのを待った。やがて『それ』は下され、町は滅びた。

サーリフは隠遁していたが、庵を出て町へと向った。彼は、煙雲と焦熱に包まれているのを見た。かつての町の住人達の、あばらとあばらの間から、嘆きの声が漏れるのを彼は聞いた。嘆きの声はこんなにもはっきりと聞こえるのに、嘆く人々の姿は全く見えない。彼らの骨と骨が擦れあって嘆くのを彼は聞いた。彼らの霊が、雹を降らせるように血の涙を降らせていた。

それを聞いてサーリフもまた、固く縮こまって泣いた。嘆く者達を想って泣いたのである。彼は言った。「虚偽の裡に生きた人々よ!高慢で、自惚れで - それなのに私は神の御前において、今あなた方のためにこうして涙を流している!神は私に告げたもう、『彼らの犯した重大な過ちについて耐え忍べ。助言を与えよ、彼らに残された時間はごくわずかである』、と。

私は言った、『助言は、ひどい仕打ちによって遮られてしまいました。助言とはミルクのようなもの、愛と歓喜からほとばしるもの。けれど彼らは私をないがしろにし、私のラクダにもむごい仕打ちをした。そのために助言のミルクは、ほとばしる前に私の静脈ですっかり固まってしまったのです』。

神は私に告げたもう、『われは汝に善きものを授けよう。汝の傷口に膏薬を貼ろう、汝の傷口を癒そう』。神は私の心を、晴れ渡って澄んだ空のようになされた。あなた方という重石を、私の心から取り除きたもうた。そこで私は、再びあなた方の許を訪ねたのだった。

私はたとえ話を語り、砂糖のように甘い言葉を語った。私は新たなミルクをほとばしらせた、言葉の中に、ミルクとはちみつとを混ぜ合わせて菓子を作った。けれどあなた方の手に渡ると、菓子も毒となってしまった。あなた方の、根も土も、すっかり毒に染まってしまっていたからだ。

今こうして悲嘆の種も無くなったというのに、どうして私がこんなにも深く悲しまねばならないのか?頑迷な人々よ、あなた方は私にとり悲嘆そのものだった。不幸との別れを惜しんで泣くものなどあるだろうか?頭に出来た傷が癒えたというのに、傷との別れを惜しんで髪かきむしる者などいるだろうか?」。それから、彼は自分に向き直って言った、「嘆く者よ。彼らには、おまえが嘆くほどの価値もないぞ」。

暗誦は正しくあらねばならぬ。読者諸賢よ、万が一にも私の詠みに過ちがあったなら、それに惑わされないで欲しい - 「どうして私は背信の民のために嘆かねばならないのか(コーラン7章93節)」。またしても、彼は自分の目にも心にも涙がこみ上げてくるのを感じた。

悲しみ嘆くのに、理由は必要なかった。人の痛みが理解出来てしまう。何とかせねばと思わずにはいられない。相手が誰であれ、無意識のうちに自然とこみ上げる深い同情の念が、サーリフの内側に輝いているのだった。まるで雨を降らせるように、サーリフはぽろぽろと涙をこぼした。

彼は取り乱してもいた。悲しみに打ちひしがれ、わけも分からぬままに恩寵の海原から追放されたひとしずくになったかのような心持ちだった。「なぜ泣くのか?おまえを嘲笑するばかりであった者達のために、なぜおまえが泣くのか?」 - 彼の知性が、矢継ぎ早に語りかけて来る。

「言ってみろ、何のためにおまえは泣くのか。彼らの欺瞞のためにか。彼らのむごたらしい仕打ちのためにか。それとも、錆だらけで濁った彼らの心臓のためにか。それとも、蛇のように毒を持つ彼らの舌のためにか。彼らときたら、怪物サグサールのような息と歯を持ち、その口も目も、蠍を友としているというのに。

いがみ合い、あざけり合い、見下し合う事以外に何も無い者達。だがついに、神は彼らを捕えたもうたのだ。神に感謝を捧げたらどうなのだ。彼らの底意地の悪さを見ただろう。彼らの手も足も目も歪んでいる。彼らの愛も、彼らの平穏も、彼らの怒りもまた歪んでいるのだ」 -

サーリフは、町の住人達を想って泣いた。彼らが怖れたのは変化である。そして、かたくなに古くからのしきたりを守ろうとした。慣習から逸れることを怖れ、同調の輪から外れることをひたすら盲目的に怖れた。だがそれほどまでに怖れても、それらについてほんの少しでも考えてみようとはしなかった。

ラクダは理性の象徴だ。それは彼らにとり尊敬すべき導師ともなれたろう。けれど彼らはラクダを足蹴にした。慣習にない、というだけの理由で。彼らは、導師を神速から熱望することのない人々だったのだ。学ぼうとも、導かれようとも思ったことのない人々だったのだ。慣習を守ると言ったところで、真に慣習に敬意を払っているというのでもない。することと言えば互いの顔の色を伺い、監視し合うだけ - 何という虚しさ、空々しさ。何という偽善。

- さて。そろそろ、彼らが地獄にたどりつく頃合いだ。神は、楽園に住まう敬虔な崇拝者達を幾人か、彼らの許へ遣わしたまうことだろう。楽園の住人達の前には、地獄の炎と言えども赤子同然だ。彼らは、楽園の住人達から地獄の炎のあやし方、なだめ方を教わることになるだろう。