聖者にとってそれは蜜だが、弟子にとっては毒である

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

聖者にとってそれは蜜だが、弟子にとっては毒である

- さて、わが友人よ。もうひとつ聞かせておきたいことがある。これについては、例えば魂のごとく、神秘家達にとっては明白であるが、それ以外の者達にとっては難解となるだろう。

何処、という場を持たぬところ、ある精神の階梯においては、神の属性を通じて、蛇も、蛇の毒も昇華できてしまう。ある場面においては毒でも、別の場面では薬となることもある。ある場面においては背徳でも、別の場面では賞讃されることもある。あちら側では魂にとり有害なことが、こちら側では治療となることもあるのだ。

グーラ(若いブドウ)の果汁は酸っぱい。だがグーラがアングール(熟したブドウ)に変化すれば、それは甘く善きものとなる。葡萄酒の瓶に入っているそれも、最初は苦く、また合法ですらない。だがほんの少し待っていれば、瓶の中身はいつか酢になり、食事にこの上ない風味を与えてくれるようになる!

導師のすることを、そのまま弟子が真似ても間違いになることもある。医者には無害の砂糖菓子でも、患者には有害であることもある。霜も雪も、すでに熟した葡萄にとっては何ともないが、若く未熟な葡萄にとっては一大事だ。

「神は過去ならびに将来における汝の罪を赦したまう(コーラン48章2節)」。修行中の身である弟子には、コーランのこの章句が未だ理解出来ていないし、従って体得も出来ていない。導師が飲めば、毒も薬となる。だが弟子が同じものを飲んでも薬にはならず、却って害になるかも知れない。

ここでひとつ、言葉の解釈を学んでみようか。例えばソロモンの、こんな言葉が伝えられている - 「『主よ、私をお赦しください。私に、私よりのちの世のなんぴとにもふさわしくない王国をお授けください』(コーラン38章35節)」。

これはつまり、「私以外の誰にも、この王国と王権を与えないで下さい」ということだろうか。「私以外の誰にも、この栄光と恩寵を与えないで下さい」ということだろうか。これでは、いかにも妬み深いように聞こえる。だが真実は違う。「なんぴとにもふさわしくない」という語に隠された神秘を、また「のちの世の」という語に隠された神秘を、魂を用いて読解しなくてはならない。

この章句を、彼の貪欲さから生じたものであるかのように意味づけしてはいけない。否、否。ソロモンは理解していたのだ、王権を手にするということは、すなわち百の脅威を手にするも同然である、ということを。一体、現世において安泰な王国などというものが、かつて一度でも存在しただろうか?王権を手にするということは、髪の一筋ひとすじが恐怖に置き換わるようなものだ。頭で考えるにも、心で感じるにも、宗教を実践するにも、何をするにも恐怖がついてまわるということだ。

このような試練に、私達のうち一体誰か耐えうる者があるだろうか。ソロモンの気高い野心は、ぜひ身につけるよう努めたいものだ。それが身につけば、現世のありとあらゆる誘惑、虚栄を避けられるようになるだろう。だがこれほどまでに強い意志を持った彼でさえ、寄せては返す現世の波には逆らえなかった。先に息を止めたのは、現世ではなく彼の方であった。

悲哀が、彼の上に砂塵となって降り積もる。彼は、現世の王達全てに対する深い同情を隠さない。それで彼は、神と諸王を仲裁しようと祈ったのだ、「御方よ、彼らに王国をお与え下さい、かつてあなたが私に与えた精神の完成と共に。かつて私が授かったのと同じ恩寵を授かる者があれば、彼はソロモンであり、私もまた彼である」。 - これがかの章句の解釈である。

「のちの世の、なんぴと」であれ、ソロモンは彼と共にある、ということだ。だがしかし、「共にある」、とは具体的にはどのようなことだろうか。これを解き明かすのも私の務めというものだろうが、後回しにしておこう。今は砂漠のベドウィンと、その妻の物語の続きに戻る頃合いだ。