『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
口論に含まれる倫理について
真面目に話を聞いていたムフリース(誠実な者)達は、かの夫婦の口論を、ムフラース(道徳)の価値からどう判断すればよいものやら、考えあぐねていることだろう。男と妻の口論は、あなた方のうち誰にとっても大いに関係がある。まず知っておいて欲しいのは、あれがあなた方自身の理性とナフス(欲望)をめぐる寓話だということだ。
夫と妻、すなわち理性と欲望。善悪が顕現するのに、この二つは必要不可欠だ。そして必要不可欠なこの組み合わせは、地球という名のあばら家に共に住まい、片時もお互いから離れることなく寄り添い合って、昼も夜も絶え間なく口論を繰り返している。妻は生計を立てるのに必要なあれこれを渇望する。
欲するところは世間の評判であったり、パンや蓄えであったり、地位であったりと様々だ。この妻のように、欲望は自分を満たすための手段をあれこれと画策する。頼らねばならない時には、それにふさわしく自分を卑下してみせたり、謙遜してみせたりする。また別の時には、逆に支配しようと企てたりもする。
一方、理性はこうした俗世的な事柄には、全く注意を払わない。理性は、神の愛以外には何の興味も示さない。神の愛以外のことなど、考えたこともないのだ - これが寓話の内側に込められた意味である。だが意味というもの、これはある種の餌であり釣り針だ。意味を覆う容れ物にも目を向けねば。内側と外側、両方があって寓話は完全なものとなる。
もしも精神的な価値だけが全てだったなら、一体、この世界というものは何のために創造されたのか。愛が無形であり有形ではなく、霊的なものに過ぎぬというのなら、それはヒトの思考の中にのみ存在する幻影だということだろうか。愛にリアリティは伴わぬ、ということか?もしもそれが本当ならば、あなた方の断食も礼拝も、精神のみで行なうものと定められただろう。だが実際には、断食も礼拝も肉体を伴う行為である。
愛する者同士が愛を交わし合い、贈り物を贈り合うならば、必ず形が伴う。愛に敬意を払うとはそういうことだ。贈り物の目的とは何か。秘密裏に隠していた愛に形を与え、愛の証しとすることだ。言葉だけなら何とでも言える。行為は、言葉よりも雄弁に語る。
わが友人達よ。体を以て為される思いやりや優しさに満ちた行為は、心の中にしまってある愛の、何よりも優れた証人ではなかろうか。私達の証人は、時として私達の愛が真実であることを知らしめる。あるいは、虚偽であることを暴きもする。葡萄酒に酔っていることもあるだろう。またある時は、酸っぱいカード(凝乳)を手にしていることもあるだろう。
カードを飲んで酔ったかのように振る舞い、調子良く叫ぶ者もある。そうした者は、いかにも葡萄酒の霧がかかって朦朧としているかのようにも見える。カードで酔うやつなどいるものか、偽善者め。表向き、彼らは断食にも礼拝にも執拗なほどに熱心だ。だが彼らは神に酔っているのではない。神を崇拝する自分に酔っているのだ。
要するに、外側に顕われる行為というのは、内側の意図を隠したり、暴いたりするものであるということだ。更に、一見、同じように見える行為であっても、内側の意図は異なる場合もあり、一括りには出来ない、ということだ。主よ!私達に、真実と虚偽を見分ける力を与えたまえ。認識の力、分別の力というものは、一体どうすれば養えるものだろうか。
我らのこの道において、そうした力を手に入れるということは、すなわち神の光を通してものごとを見る、ということに他ならない。外側に顕われるものと、内側に隠されるものの間に我らのこの道がある。外側に何の手がかりも見つからなければ、内側を推論する、神の光を以て。それは我らに手がかりを与える、ほんの些細な手がかりが、深い愛の存在へと我らを導くこともある。
何ごとであれ、神の光を以て認識し、分別する者は、原因と結果に振り回されることがない。神の光を導きとする者は、因果論の奴隷となることもなく、また因果論の犠牲となることもない。愛の炎が燃え盛るほどに光もまた強くなる。こうなると、もはや何かに対して「証し」を求めることも無い。
しかしそれはまた更に違う階梯の話でもある。機会を設けて解き明かさねばならないだろうが、それにしても時間はあっと言う間に過ぎてゆく。夜は短い。今宵はここまでとしよう。次に会うその時まで、互いに思索を深めておくこととしよう。