『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
続)砂漠のベドウィンと、その妻の物語
ベドウィンの男は、愛する自分の妻に心を開いて見せた。そして彼女への忠誠に嘘いつわりの無いこと、彼女を騙そうという意図など無いことを語って聞かせた。「おまえに逆らったりするものか」、男は言った。「おまえが全て正しいのだ、思う通りにしたら良い。さあ、鞘から剣を抜くが良い。
何であれ、ああしろ、こうしろとおまえが命じれば、私はその通りにしよう。結果の良し悪しについて、行なう前からあれこれ思い煩うのはやめにしよう。おまえさえ居れば、私はどうでも構わないのだ、何故ならおまえを愛しているから。愛は盲目、と昔から言う通りだ」。
「何がどうなっているのやら」、妻はいぶかしげに言った。「あんた、どうかしてしまったんじゃないのかい。本当に、私のよく知っているあんたの言うこととも思えないよ。でなけりゃあ、私をひっかけようとでもしているんじゃあないのかい」。彼は答えた、「まさか。信じておくれ、誓うよ、神にかけて。最も深いところに隠されたものを知る御方にかけて、アダムを塵から創りたまい、最も清らかな者とされた御方にかけて」。
御方は、3キュビットあまりの肉体をアダムに与えたもう。
それから彼を、運命の碑盤に記された全てと、精神の息吹で飾りたもう。
御方は『もろもろの名前をすべてアダムに教えたまい(コーラン2章31節)』、
ものごとの、始めから終わりまでを教えたもう。
それからアダムは天使達と対面し、御方に教えられた知識を天使達に伝えた。
初めてアダムに出会った天使達は、驚きのあまり我を忘れて取り乱した。
だがその替わりに、天使達は新たな知識を得ることとなった。
彼らはアダムを通して御方の知識を受け取ったのだ。
天使達の賛美の流儀と、アダムの賛美の流儀には明らかに違いがある。
天使達はアダムの賛美の流儀を目にし、それで初めて、
彼らが有する聖性とは、異なる種類の聖性があることを悟ったのだ。
アダムが彼らに差し出した新たな知識は、
彼らが見知っている天界の範囲に収まりきるものではなかった。
アダムの純粋な精神の広がりに比べれば、
彼らの住まう七層の天界すらいかにも狭隘に過ぎたのだ。
- お聞き。預言者は、神の御言葉としてこのように伝えている -
われは「高い」「低い」といった(空間の)壺には収まりきらぬ。
大地と天空の全てであろうとも、
あるいは最も高い宇宙であろうとも、
われは収まりきらぬ - だが、高貴な者よ、
真にわれを信ずる者の心にならば、われは収まるだろう。
汝、われを探すなら彼らの心の裡に探せ。
さらにまた、神はこうも言いたもう -
汝、畏れる者ならばわがしもべの後に続け。
汝らは楽園を目にするだろう、われを視覚に捉えるだろう。
最も高きにある宇宙は、果てしない彼方までその光を届ける。
だがその宇宙さえ、初めてアダムの精神を目にした時は驚愕のあまり声を失った。
宇宙の天蓋が、想像を絶する広大さであることは誰しも認めるところだろう。
それは『外側』としては申し分がなかった。
そこへ新たに顕されたのが、アダムに宿された純粋な精神、
すなわち申し分のない『内側』、完璧な実在だったのだ。
天使達はアダムに言った -
『今の今まで我らとあなたが友情を保てたのも、
あなたが自らを地上の塵として弁えておられたからこそ。
我らは地上に崇拝の種を蒔いた。
だがそれも、そのように命じられたからそうしたまでに過ぎぬ。
そのことにどのような意味があるかなど、我らは知らぬし興味もない。
一体、あなたと我らに何の関わりがあるというのか。
あなたの本質は地上にあり、我らの本質は天界にある。
光である我らと、闇であるあなたに何の関わりがあるというのか。
何の理由あって交わらねばならぬのか』
『光と闇が、共に居られるはずがない。
アダムよ、我らがあなたに示す友情は、
あなたが漂わせる(知識の)芳香に向けられたものだ。
アダムよ、地上こそはあなたという織物の縦糸。
そしてあなたの放つ芳香は、そもそも天界に属するものだ。
あなたの精神の光に、我らの魂が照らし出されるとは!
我らとて地上を知らぬというものではない、かつて我らも訪れた場所だ。
だが我らは地上に無頓着であった。
地上に隠された財宝にも無頓着であった。
御方に、かつて我らの有であった階梯を召し上げられ、退くよう命じられ、
あなたを我らよりも高いものとされた時ほど、心底悲しく思ったことはない』
だから我らは、御方にその通りに申し上げた -
『神よ。我らの代わりに、誰を召し抱えるおつもりですか。
我らの捧げる賛美は、あなたの栄光の飾りともなるのに。
それをあなたは、無駄話や喧噪と引き換えになさると仰るのですか』
すると神はこうお答えになった、 -
話せ、遠慮は無用だ。
神は我らのために寛大の敷物を広げ、我らをその上に座らせた。
さあ、何でも話せ、恐れを知らぬおさなごが父にするように。
汝らの舌の向くまま、気の向くまま、話したいように話すがいい。
汝らの言葉が拙かろうが、見苦しかろうが、構うものか。
忘れるな、わが慈悲はわが怒りをはるかに凌ぐ。
これを知らしめるために、われは汝らを当惑と疑念の渦中に投げ入れた。
汝らがわれに訴え出ることなどお見通し。
かと言って、われは汝らに怒りを向けはせぬ。
さあ、これで誰一人として、わが慈悲を否定する者もないだろう。
わが怒りを被る者、それはわが慈悲を否定する者のみ。
男はそこで言葉に詰まった - いや、言葉に詰まったのは私の方だ。御方の恩寵、御方の慈悲に限りというものはない。見よ、一瞬ごとに百の父と百の母が生じては去り、生じては去り - それが絶え間なく繰り返される。地上の父と母の慈悲とは、御方の慈悲の海原に漂う泡のようなものだ。泡は生じては消える、だが海原は常にそこに在り続ける。
私は一体、どう語れば良かっただろう?御方の慈悲が真珠なら、我らの慈悲など貝殻ほどの価値もない。御方の言葉の前には、我らの言葉など泡の、泡の、泡の、更にその泡に過ぎぬ。だがそれでも、私のようなはかないあぶくにも真実はある。泡の真実にかけて、神聖な海原の真実にかけて。誓おう、私はあなた方を試しているのでもなければ、気紛れに語っているのでもない。あなた方に対する愛と、真心と、忠誠から語っているのだ。誓おう、いつの日か私が還りゆくであろう、ただおひとつの御方の真実にかけて。
- 「ねえ、おまえ」、男は妻に言った。「こんなふうに、私はおまえへの愛情を示したつもりでも、おまえからすれば試されているかのように感じてしまうのだね。それならそれで、いっそほんの少しだけ試されてみてはくれまいか。さ、何でも隠さず、正直に言ってみてはくれまいか。そうすれば、私がおまえに何ひとつ隠しだてする気がないことが分かるだろうから。
何でも命令しておくれ、出来ることなら何でもするから。思っていることを何でも言っておくれ、私も、思っていることを何でも言うから。これから、私に何が出来て、何が出来ないのかを一緒に考えたいのだよ。どうすればいい?私に、何が出来るだろうか?見ておくれ、私の魂を。一体どこへ向えばよいものやら、途方に暮れている有り様なのだよ」。
そこで妻は、日々の糧を得るためにどうすれば良いか、彼女の思うところを語り始めた。「そろそろ夜も明けて、日が昇る頃だね。私らはみんな、太陽の光を頂戴して生きているんだねえ。太陽というのは本当に、慈悲深い御方の忠実なしもべ、創造の御方のカリフ様さ。そうだよ、あんた。ねえ、バグダッドの都に行ってみたらどうだろうね。
バグダッドの都の人々が、来る日も来る日もまるで毎日が春みたいに陽気で楽しそうにしていられるのも、カリフ様がきっちりと治めているからだよ。王と交わる者は王になる、って昔から言うじゃないか。
不運と不幸の王の後をついて行くのは金輪際やめにして、あんたは本物の王と交わらなくっちゃ。幸福で、偉大な王とお近づきになれれば、万能薬みたいに何もかもがうまく行くはずだよ。アハマドとアブー・バクルをごらんよ。アハマドがアブー・バクルに目をかけた途端に、アブー・バクルは『シッディーク(誠実な者)』と呼ばれるまでに出世したじゃないか」。
夫は言った。「ふむ。しかし、どうすれば王に会えるだろう?何かしら口実でも無い限り、そう簡単に王に会えるはずがない。こんな時はどうすれば良いのだろう。手引きなり、手がかりなりが必要だよ。だってそうだろう、何を作るにも、そのための道具立てというものがなくては。そら、誰もが知っているあのマジュヌーンだって、同じような悩みを抱えていたよ。
誰かが彼のところへやって来て、愛しいライラが少しばかり具合を悪くして臥せっていると知らせた時のことだ。マジュヌーンは泣いた、『ああ、彼女に会いたいけれど、私には会うための手立てが何ひとつない。私がただ彼女に会いたいからというだけで、病に苦しむライラの許へ、手ぶらでのこのこ出かけるようなみっともない真似をするわけにもいかない。
私が、熟練の医者だったら良かったのに!そうだったなら、何もかもを投げ捨てて、誰よりも先にライラの許へ飛んで行くのに』とね。コウモリだって、もしも太陽と交われるものならば、夜を待たずに堂々と昼を楽しむだろうよ」。
妻は答えた。「いいかい。王が王になれたのも、無を有に変える力を持っているからなんだ。私らが、有と呼べるものを何ひとつ持っていないならいないで、ありのまま、無をお持ちすればいいのさ」。「そうは言っても」、夫は妻に言った、「一体どうやって無をお持ちすれば良いのだね?何ひとつ持っていないということを、どうにかして表わさねばならぬ。そのためには、私が何ひとつ持たない者であることを証明する何かが必要なのだ。何でもいい、王に、私の困窮を知らせる何かが。
ねえおまえ、何かこしらえてはくれないか、おしゃべりや見世物とは違った何かを。うるわしき王の心を揺り動かすような何かを。おしゃべりや見世物ごときでは、偉大な判定者の判決を勝ち取ることは出来ないだろう。賢い人々というのは、常に外的な物証を求めるものだよ。多くを語らずとも、無駄口をたたかずとも、物証そのものが雄弁に内的な真実を語り出すような、そんな物証をね」。
妻は答えた。「やましい気持ちを全て振り払って、自分の力で精一杯に立ち上がるだけだよ。そうすりゃ、真実の方がついてくるさ。 - この壺を持ってお行きよ、毎日、あんたと私が御世話になっているこの壺を。壺の中には雨水が溜めてある。これだけがあんたの全財産で、あんたの商売の元手で、そしてあんたの言う道具立て、というものさ。
さあ、この壺を持って行っておくれ。この壺を手土産にして、王の中の王にお目もじするのだよ。そしてこう言うんだ、『これが私どもの全てです。これの他には何ひとつ捧げるものを持っておりません。私どもの住まう砂漠では、この水よりも他に素晴らしいものは何ひとつございません』とね。
王の宝物倉に、どれだけ沢山の金銀や宝石が詰まってたって、こんな水は絶対に持っているはずがないよ。何故ってこの水は、あんたも知ってる通りめったなことでは手に入らない。それはそれは珍しくて、とても貴重なものなのだからね」。
- さて、ここに出てくる『壺』とは何を指すのか?私達の、はかなく消えるこの体だ。そして壺の中には、私達の感覚という名の、塩辛い水が溜まっている。主よ!私という水の入った、この壺を受け入れたまいますよう。「まことに神は、楽園と引き換えに信者たちの生命と財産を買いたもうた(コーラン9章111節)」との、主の御言葉にかけて。
この壺には五つの注ぎ口が、五つの感覚が備わっている。気をつけておくれ、大事に扱っておくれ。壺よ、水を守っておくれ。あらゆる汚れを避け、清らかに保っておくれ。この壺はかの海へと至る水門、壺の中の水はかの海と繋がっている。清らかに保っておくれ、清らかに保てば、やがてかの海へと再び還りつく日も来よう、かの海を統べる王の手に、再び買い戻される日も来ようから。
その後、やがて水は - 私達は - 、果てしなく続く海そのものとなるだろう。やがて水は - 私達は - 、小さな壺を抜け出して、百も、二百もの宇宙を潤すだろう!そのためにも、「目を伏せて隠し処を守れ(コーラン24章30節)」、注ぎ口を塞ぎ、水を清らかに保つのだ。
- 「おまえの言う通りだよ!そうとも、これほど素晴らしい贈り物を思いついた者はいないだろう!」。夫が嬉しげにそう言うと、それまでしょんぼりと萎んでいた彼の髭も、空気を含んで誇らしげにぴんと上を向いた。「本当に、これこそはバグダッドの都を統べる王にふさわしい手土産だよ」。
妻も、夫も、バグダッドの都が「下を河川が流れる楽園(コーラン2章25節)」のように、蜜のように甘い水をなみなみとたたえて流れる大河のあることを全く知らなかった。無数の船を浮かべた、海のように多くの魚が穫れる大河のあることを全く知らなかった。この妻、この夫の無知を嗤うことは出来ぬ。私達の知識もまた、彼らのそれと同じく大河のほんの一滴に過ぎぬ。
さあ、スルタンの許へ行く時が来た。その壮麗さを、その目でじかに確かめるのだ。御方の楽園に流れる大河もかくやと思われるその光景を、御方が与えたもうその目で、じかに確かめるのだ。
妻は、雨水の溜まった壺を羊毛の布で包み、それから口の部分を固く縫いつけた。夫が王に献上する貴重な宝物ならば、念入りに封印するのがふさわしいと思えたからだった。「そうだ、そうだ」、夫は言った、「しっかりと、袋の口を縫い閉じてしまっておくれ。気をつけて扱わねば、大事に扱わねば。何しろ、これが私達のためにもなるだろう捧げものだからね。
羊毛の布で、きっちりと縫い込めて差し出そう。私達の贈り物は、王の断食明けの水としても立派に通用するだろう。世界中の、どこを探してもこれほどの水は見つからないだろう。世界中のどの水よりも、純粋で清らかな水だもの」。彼は心の底からそう信じて言っているのだった。苦く、塩辛い水以外の水を知らない彼のような者にとっては、それが真実なのだ。
不足と欠乏だけが生活の全てである彼のような者ならば、たとえ苦く塩辛い水であっても、水であるというだけで十二分に酔える。塩辛い水の湧く泉のそばに生まれ育った小鳥に、どうして甘く透明な水の在り処を知ることが出来ようか。塩辛い水の流れる小川のそばに住まう者に、どうしてシャッタの川とジャイフーンの川、ユーフラテスの川の違いを知ることが出来ようか。
「つかの間のカラヴァンサライ(=物的世界)」から離れられずにいる者に、どうして「消滅」「陶酔」「拡張」の意味を知ることが出来ようか - 仮にあなたがそれらの語を知っていたとしても、それだけで本当に「知っている」と言えるだろうか?父や祖父の代から、誰かによって丸暗記された「知識」を手渡され、同じように丸暗記しているだけではないのか。
だとすればそれらの語は、あなたにとってはアブジャド(アルファベット)の綴りに過ぎないのではないか。アブジャドなら、教え込めば子供達でもすらすらと書けるようにはなるだろう。しかしものの名前を書けたとしても、だからと言ってものの意味が、手を伸ばせばすぐに届く近さにある、ということには決してなりはしないのだ。
- さて、砂漠のベドウィンの男は、妻が用意した壺の包みを抱えて都を目指し旅に出た。それから昼も夜も、包みを肌身離さず抱えて歩き続けた。抱えている包みが、彼を不安にさせた。運命が、誤った道へと彼を連れて行かないかとそれだけが気がかりだった。それでもなお、彼は砂漠を離れて都へと向って行った。
夫の姿が見えなくなると、妻は擦り切れた敷物を出してその上に座り、祈りの言葉をほとばしらせた。「主よ、お守り下さい!私らの水をお守りください!主よ、あなたの下された真珠が、無事に海へと還りつきますように!私の夫は良くできた男です。頭だって切れるし、腕っぷしも強いし。それでも、真珠を狙う敵共が大勢で襲いかかりでもしたら!
本当に、あれは貴重な真珠です。あれはかつてカウサルの川を流れた水。もとを辿れば、楽園の流れのひとしずくだったのだから」。妻の祈りと願いが通じたか、不安と重荷を黙々と運んだ夫の忍耐が報われたか、やがて夫はつつがなく都に辿り着いた。盗賊に遭うことも、怪我をすることもなかった。彼はカリフの住まう宮殿の広場に行き、人寄せの一角に場所を見つけて腰を下ろした。
彼が見たものは、そこで繰り広げられる光景の、驚くばかりの気前の良さ、豊かさだった。困窮者達は、それぞれに彼らの網を広げて恩寵をすなどる。あちらこちらで、ひきもきらさず嘆願者達が思うところを願い出ている。そして誰もが、立ち去る時には必ず喜捨なり、名誉なりを手にしていた。
まるで太陽と慈雨とが、手を取り合って一緒にやって来たかのよう。まさしく楽園のような光景だった。万人に開かれた場、それこそが真の楽園。真の楽園は不信者も信者も、善人も悪人も、決して分け隔てはしないのだ。
嘆願を抱えてやって来た人々の中に、カリフに祝され整列している者達がいるのが見えた。そしてその隣には、自分達の番を待って立ち並ぶ者達がいた。大から小まで、ソロモンから蟻一匹にいたるまで、まるで復活の日のラッパを聞いたかのように、生き生きと甦り、息を吹き返しているのだった。
現世の糧に飢えた者達が、あふれるほどの真珠の首飾りに埋もれていた。真理の探求者達が、真理そのものの海原に漂っていた。それまでの努力に応じて、あるいは探究心に応じて - 多くを支払った者にはそれに見合うだけのものが、また足りない者にはそれに見合うだけのものが与えられるのだった。