『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
二種類の貧困
物乞いする貧しい者達が、富める者達の施す財を恋い慕って求めるように、富める者達の施す財もまた、物乞いする貧しい者達を恋い慕って求めている。 貧しい者達が欠乏に耐えていると、やがて財の方が彼らを訪れて扉をたたく。富める者達が施しをせずにいれば、欠乏が彼らを訪れて扉をたたく。
目の前の貧窮を見詰める、ということは、それをする者の立場によって全く意味が違う。貧しい者にとり、それは黙って貧窮を耐えるということだ。そし てそれが、貧しい者達の美徳でもある。だが富める者がそうしているなら、それは黙って貧窮を見過ごすということであり、悪徳以外の何ものでもない。
- 「来たれ、求める者よ!」、鐘の音が響き渡る。「汝らが恩恵を欲するように、恩恵もまた汝らを欲する」。恩恵は貧しき者を探す、それは美しい者 がよく映る鏡を探すのと似ている。美しい者の顔は、鏡を覗き込むことでますます美しくなる。恩恵は、貧しき者を鏡に、自らの顔を見たいと欲するのだ。「朝 にかけて(コーラン94章1節)」、神がこのように申されるも道理、 - 「乞食を叱りつけるな(コーラン94章10節)」と。
貧しき者達とは、あなた方自身を映し出す鏡だ。あなた方自身の寛大さや優しさを、まっすぐに映し出す鏡だ。真実を知りたければ、鏡は大事に扱わねば ならぬ。物乞いする貧しき者とは、恩恵を映し出す鏡だ。大事にもてなさねばならぬ。声を荒げたりしようものなら、鏡の表面が曇ってしまう。
施す者には二通りある。たとえば富を握りしめ、乞われるまで施そうとしない者がある。物乞いがあなたの後ろを追いかけてくるのなら、貧しき者に物乞 いをさせているのはあなた自身だ。そして別のある者は、乞われる前に必要よりも多くを与える。貧しき者に物乞いをさせたりはしない。彼らが、自分自身の鏡 であることを十分に承知しているからだ。
物乞いをする貧しき者とは、神の恩恵を映し出す鏡だ。富と言っても現世のそれは、結句のところ相対的なものに過ぎず、比較の上でなければ計ることも 出来ない。だが神と共に在る貧しき者は、無条件かつ絶対の恩恵と分かち難く結ばれている - 人は皆、貧しき者なのだ。あるのは物乞いを、するか、させる かの違いだけ。
それを知る者もあれば、知らぬままにやり過ごそうとする者もある。まるで生きながら腐臭漂わせる死者のよう、彼らの生は虚しいものだ。彼らは、この 扉の前に立って自ら物乞いをすることもない。従って、神の中庭に至ることもない。だからいつまで経っても、彼らの生は始まることがない。まるで壁掛けに描 かれた刺繍のよう、見てくれだけは豪奢でも、肝心のいのちが宿っていない。
貧しさにも二通りある。神を渇望し、神を欲するがゆえの貧しさと、神以外を渇望し、神を避けるがゆえの貧しさと。神以外を追い求める者というのは、 ダルヴィーシュとは無縁の輩だ。これもまるで描かれた絵のようなもので、神の恩恵にも、一切れのパンにも値しない。描かれた犬は真の犬ではない、骨を与え るのも無駄なことだ。あれらが探し求めるのは神ではなく一皿の食事だ。死者にパンなど、無用の長物ではないか。
パンを欲しがるダルヴィーシュなど、陸に揚がった魚のようなもの。魚の姿かたちに生まれていながら、海から逃げ出して何がどうなるというのか。あれ らは飼いならされた家禽のよう、大空を住処とするシームルグではない。美味い、うまいと目の前に与えられた餌を飲み込む、天に糧を求めることもせずに。
あれらは、ご利益を目当てに神を愛する。あれらの魂は、神の素晴らしさ、美しさに恋い焦がれるということがない。あれらは、自分では神の実在そのものを愛していると思い込んでいる - 実のところ、神の御名、神の属性といった概念をもてあそんでいるに過ぎないのだが。
神の実在と、神に関する概念とは言うまでもなく別のものだ。性質と定義から生ずるもの、それが概念である。だが神とは「生じるもの」ではない。「生 まず、生まれず(コーラン112章3節)」、それが神だ。自らの妄想と神とを取り違えるような者を、どうして神を愛する者の一人に数えられようか。
- とは言うものの、たとえ過った想念に取り付かれていたとしても、誠実さを伴う者であったなら、まだしも救いがあるというもの。どれほどいつわり に満ちたまぼろしを愛そうとも、やがてはその者自身の誠実さが、非現実から現実への導きとなるだろうから。これについては、言葉を尽くして説き明かす必要 がある。
だが人々の中には、理解力に乏しい者もいるだろう。そうした者が、私の言葉を私の意図とは全く違った方向へ曲解することを私は恐れる。理解力に乏し い者、視野の狭い者というのは、ひとの話を聞いているようでいて聞かない。あれらは本当に気が短い連中だ。途中まで聞きかじっただけで、こちらの話が終 わってもいないうちから、早々と自分勝手な思い込みを百も二百も混ぜ込んで捻じ曲げる。皆が皆、正しくひとの話を聞く才覚があるというわけではない。
いちじくが、全ての小鳥の糧となるとは限らない。特にその小鳥が、すでに生きながら死して久しく、土に還るのを待つばかりというような場合には。あ れらの目に映るものと言えば、何の役にも立たない非現実のあれやこれやばかりなのだ。絵に描いた魚にとっては、陸も海も変わりがない。褐色に焼けたヒンド の人にとっては、石鹸も明礬も変わりがない。
紙の上に、悲しげな表情の肖像を描いたとしよう、だが肖像はあくまでも肖像に過ぎない。描かれた肖像に、悲しんだり喜んだりするすべはない。悲しそ うに見えてはいても、悲しみの在り処はそこではない。あるいは、微笑んで見えたとしても、喜びの在り処はそこではない。現世には、一見すると悲しみや喜び があふれているかのようだ。しかし現世というものは、描かれた絵画のようなもの。悲しみも喜びも、それらの真の在り処は現世ではない。
悲しみも、喜びも、真の在り処はあなた方の心だ。描かれた絵画が、微笑んでいるように見えるのなら、それはあなたの心が微笑んでいるからだ。逆もまた然り。と、すれば、あなたがあなた自身を正しく理解することが、世界を正しく理解することに通じるのではないか。
熱されたハマム(公衆浴場)の壁一面に、絵画が描かれている。服を着たままではハマムには入れない。脱衣場で、全て脱ぎ去る必要がある。だがしかし、一体いつまで、ハマムの外で待ち続けるつもりか。ハマムに入れ、わが友人達よ。
ハマムに入るためには、全てを脱ぎ去らねばならぬ。魂にとって、肉体とは服のようなもの、描かれた絵画のようなもの、ほんの一時期の現象に過ぎぬ。現象など、脱ぎ捨ててしまえ。魂そのものとなって、夜を徹して共に語ろう、わが友人達よ。