『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
続)砂漠のベドウィンと、その妻の物語
はるか彼方の砂漠から、ベドウィンがカリフの宮殿を訪れたというので、従者達はベドウィンを歓迎しようと彼の傍までやって来た。歓迎のしるしに、彼らは、ベドウィンの胸元に薔薇水を惜しみなく振りかけた。一言の言葉も交わさぬうちから、彼らはベドウィンが何を望んでいるのかを承知していた。乞われる前に差し出すのが、彼らの習いであったからだ。
彼らは愛想良く話しかけた。「これはこれは、アラブの族長どの。どちらの方角からお越しですか。さぞや長旅であったことでしょう、お疲れではありませぬか」。
「いかにも私は族長でありましょう」、彼は答えた、「あなた方がそう仰るのならば。しかし実のところ、私はあなた方の尊敬を勝ち得るような身ではないのです。あなた方の助け無しには、何ひとつままならぬ身なのです、おお、聡明のしるしを額に持つ人々よ。ジャファー(シーア派6代イマム)の黄金よりもなお輝ける人々よ、たった一人でも百人の働きをなす人々よ。
おお、一たび眼差しを注げば、ひとつの黄金を百にも増やす人々よ。おお、神の光もて真実を見抜く人々よ、神の恩寵を知らしめるために働く人々よ。あなた方の眼差しは錬金術のよう。あなた方の一瞥を与えられれば、銅もたちまち黄金に変わる。あなた方は、その錬金術もて訪れる一人ひとりに眼差しを注ぐ。
私は、この地の者ではありません。砂漠に住まう者です、誉れ高きスルタンに、一目でもお目にかかりたいと望んでここまで参りました。スルタンのお優しさが放つ芳香は、私めの住まう砂漠の奥にまで満ち満ちております。砂の一粒にまで、その香りが染み込んでいるほどです。私は最初、ディナールを得ようとこの宮殿までやって来たのです。けれどここに至ってすぐに、目に映るもの全てに、私はすっかり酔わされてしまいました」。
腹を空かせてパン屋まで走った男が、パンよりも、パン屋の美貌に胸をわしづかみにされて倒れ込む。一輪の薔薇を求めて庭を訪れた者が、薔薇よりも庭師の美貌に心打たれてすっかり薔薇のことなど忘れてしまう - 彼に起きたのは、それと同じような事だった。砂漠から来たアラブの男は、水を飲もうと井戸につるべを落としたものの、井戸の底から現れたのは水どころかヨセフであった(コーラン12章19節)。ヨセフの美貌に、アラブの男は、水どころか『生命の水』を得たかのように感じ入っていたのだ。
モーセは、山際に燃える火を見て火を取りに走った。だがモーセが火を捉えたのではない、モーセが御方に捉えられたのだ(コーラン28章29、30節)。イエスは、敵の追っ手から逃れようと高く飛んだ。だがイエスが飛んだのではない、御方が彼を引き上げたのだ(コーラン4章157、158節)。
小麦の穂はアダムを陥れる奸計となり、禁断の果実は彼を地上へと追放する種となった。だが考えてもみよ。それでこそ、アダムの存在は我ら全人類という果実の種ともなり、小麦の穂もまた、我ら全人類の糧ともなったのである。
鷹は、そこにある餌を求めて罠にかかる。だがその後で、鷹は王の腕を止まり木とする幸運と栄誉を手に入れる。「ごほうびに、小鳥を飼ってあげよう」という父の言葉に釣られて、子供は学び舎に通い学び始める。だがその後で、子供は学識を手に入れる。月にいくばくかの謝礼を教師に支払って手に入れた学識や知識が、やがては金で購うことの出来ない高みへと子供を連れて行く。
アッバース一族の、そもそもの目的は復讐であった。アハマド(ムハンマド)と、真実の宗教とを制圧するために戦いを挑んだ。ところが、見よ、やがて彼と彼の子孫によるカリフ統治は、審判の日が訪れるまで、前からも後ろからも真実の宗教を守護するものとなったのだ。
- 「私は、富を求めてこの宮殿へとはるばる旅をしてやって来ました。しかしこちらの前廊をくぐるなり、私は目が覚めた思いを味わったのです。今こそ私は、自らの精神を治める族長となったのでしょう。パンを得るための贈り物として、私は水をお持ちしました。パンを得たい、そんな低いところに生じた望みが、楽園の最も高いところへと私を導いたのです。
アダムをして、楽園のさらにその先へと導いたのもパンでありました。それと同じく、私をして、楽園の住人達と交わらせたのもやはりパンでありました。一体、今の今までというもの、私ときたら何に拘泥し、何を逡巡していたのでしょう。今こそ、私はまるで天使のように、水からもパンからも自由になれた心持ちです。まるで天空を回転するように、こうしてこの宮殿をくるくると廻って見渡せば、世間のあれだのこれだの、全く欲しいとも思えなくなりました」。