『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
文法学者と船頭
ある文法学者が船に乗り込んだ。「文法を学んだことはあるかね?」、自惚れたこの男は船頭に向かってそう尋ねた。「いや」、と船頭が答えた。「やれやれ」、文法学者は言った、「そなたは半生を無為に過ごしたようだな!」。その言葉は、船頭を悲しませた。彼の心は深く傷ついたが、その時は何も言わずに黙していた。
ところが、漕ぎ進むうちに強い風が吹き荒れ始め、瞬く間に船を渦へと巻き込んだ。「おい、泳げるか?」、船頭は大声で文法学者に尋ねた。「いいえ、泳げません、公正無私なる美しきお方よ!」、これ以上はない修辞法で文法学者は答えた。「文法学者さん」、船頭は言った。「あんたは、どうやら一生を無為に過ごしたってことになりそうだ。もうじきこの船は、渦に巻き込まれて沈むだろうから!」。
さて、ここで真に必要とされたものは何か。それは「ナフウ(nahw:文法)」ではなく「マフウ(mahw:自己滅却)」である。もしもあなたが既に「マフウ」の階梯にあるならば、その時は迷わずに海へ飛び込め。怖れることはない。海水は、常に死者を海面へと浮かび上がらせてくれる。だが、未だ生きている者はその限りではない。
生者、すなわち自己に固執している者が、どうして潮流から逃れることが出来ようか。あなたが肉体の呪縛を破り、自己という属性を滅却させたとき、神的意識の海原はあなたを王冠のように最も高いところへ、覚醒の海面へと引き上げるだろう - だが他人を阿呆呼ばわりしたあの文法学者は?いずれが阿呆であったか?水底に沈み、やがて氷に閉ざされるのはどちらであったか?
もしも自分が、この世におけるありとあらゆる学識を備えた当代随一の学者だと自負するものならば、次に学ぶべきはこの世の去り方、身の引き方だ。我らがここに文法学者の小咄を差し挟んだのも、あなた方に「マフウのナフウ(自己滅却の文法)」について教えるため。慕わしき読者諸賢よ、自己滅却の裡にこそ、あなた方は学ぶだろう、法学の法を、文法学の文法を、形態論の形態を。
物語のベドウィンが運ぶ水の壺は、「私」という個体によって表象される、それぞれに異なる知識の断片を指している。そしてカリフは、ティグリスのごとき神の知識を指している。私達はそれぞれに、ティグリスから汲んだ水を「私」という小さな壺に汲んで運んでいる。
しかしティグリスの水の全てが、こんな小さな壺に収まるはずもない - 自分が何ひとつ知らぬ阿呆だ、ということを知らぬなら、それこそ本当の阿呆というもの。ベドウィンはティグリスについては知らなかった。都を流れる巨大な川について、何ひとつ知らなかった。だがそれは彼の罪ではない。砂漠の奥深く、ティグリスからはるか遠くに生まれついた彼が、ティグリスについて知らずとも当然のことだ。もしも彼がティグリスの川について、私達と同じように知っていたとしたら、あちらからこちらへと水の入った壺を抱えて旅をすることも無かっただろう - 否、もしも少しでもティグリスについて知ってしまったとしたら、旅の途中であっても、彼ならば壺を叩き割るぐらいのことはしていただろう。