『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
続)ザイドの見た光景
さて、この話はこれくらいにしておこう。ザイドと、預言者の話に戻ろう。預言者は言った、「ザイドよ、立ちなさい。そしておまえのブラークを - 『理知の精神』を、枷にしっかりと繋ぐのだ。
理知の精神というものは、過誤を見逃すようには創られていない。ひとつの過誤が暴露されれば、隠蔽の幕は次から次へと引き裂かれる。だが神は、今しばらくは隠すことをこそ望まれたもう。預言者の太鼓だと?無用だ、道を閉じよ。駆け足で進むな、手綱を引け。魂をあらわにするな、ヴェイルで覆え。
思考の自由は万人の有、一人ひとりが思い描いて喜ぶのが良いのだ。神は、たとえ絶望的なまでに救い難い者であってさえ、その顔を神ご自身から背けぬようにと願ってやまぬ。ほんの少しの希望を持ちさえすれば、それだけで彼らは気高く貴い者のひとりとされるだろう。主の恩恵を得られるかも知れぬという、そのような希望こそが、彼らを恩恵の方へと走らせるのだ。
御方は、その慈悲がありとあらゆる全ての上に行き渡ることを望みたもう。ありとあらゆる全て - すなわち悪の上にも、また善の上にも。御方の慈悲とは、分け隔て無き普遍の慈悲だ。神は望みたもう - 王子であろうが、虜囚であろうが、誰もが等しく希望を持ち、畏怖し、分別を弁えるようにと。
希望も畏怖も、ヴェイルによって可視の領域から遮られている。どちらも、不可視の領域においてこそ養われ育つものだ。もしもおまえがそのヴェイルを剥ぎ取ってしまったならば、希望も畏怖も、一体どこへ行けば良いものか?威力も大権も、不可視の領域に属し、不可視の領域に控えているというのに」。
- 若者が一人、川岸に立って考えごとをしている。「はて、あの漁師はソロモン王ではないか?もしもそうなら、何故たった一人、あんな姿に身をやつしているのか?もしも違うなら、どうして私の目にはそう思えたのか?」。彼は、ソロモンが王の姿に戻るまで、二つの心の間を行きつ戻りつして訝しむ。
若い男は、ソロモンが王の姿に戻るまで、二つの心の間を行きつ戻りつして訝しむ。そこへ王国からの逃亡を企てた悪魔がよぎる。ソロモンの宝剣が切りつけ、かの有名な指輪が彼の指に戻る。悪魔と精霊が周囲に集まり、一目見ようと人々もやって来る - 川岸で一人、考えごとをしていた若者も。
王の指にはめられた指輪を一目見るなり、彼の心を取り巻いていた思案がぬぐい去られる。欲するところが隠される時にのみ、不安というものが生じる。探求は、不可視の領域があって初めて為されるものだ。不在こそが、在を雄弁に語る。
かれの姿が見えない間、心の中はかれに関する想像ではちきれんばかりになる。しかしかれが顕われるが早いが、それまでの想像の全てがすっかり取り払われる。輝けるあの空が、もしも止むことの無い雨を降らし続けていたならば、大地もそこに育つ植物も、一体どうなっていたことか。
神は言いたもう、 - 「下された言葉を信じる者とは、『見えないものを信じ(コーラン2章3節)』る者。故にわれは、汝らが見ている世界の窓を閉じた。窓を開け放したままで、どうしてわれが汝らに、『なにか割れ目でも見ることができるか(コーラン67章3節)』などと尋ねるだろうか」。
暗闇の中、進むべき道を探そうと人々は周囲を見渡す。あちらこちらを巡り巡って、行くべき方角を見つけようとする。ほんの束の間、物事はあべこべの逆さまに見えるだろう。泥棒が、判事を絞首台へ連れて行く。スルタンや王侯が、奴隷のようにあくせくと働く。
目に見えぬ存在を信じ、不可視の領域を信じて為される奉仕は美しく貴重だ。神が私達に奉仕を命じるときには、たとえ御方が私達の目に見えず、不在であるかのように見えても、御方の在ることを忘れずに尽くすこと - これぞ御方のお喜び。
王の身近に伺候する身であれば、王を崇拝するのはいともたやすいこと、何しろ、その目で王を見ているのだから。だが王をその目にせず、それでもなお王を崇拝する者こそ賞讃に値するのではなかろうか。
王から遠く離れた自分の身の上を恥じつつ、控えめに振る舞う者達がいる。王の住まう都から遠く離れ、王国の守護の影からも遠く離れて、辺境の要塞を守る者達がいる。仕える王国と敵国の境にあって要塞を守り、たとえいくら富を積まれようとも決して売り払ったりはしない者達がいる。
王の身近に伺候せずとも、王からはるか遠く、遠く離れた辺境にあってひたすら前線を守る彼らの忠誠と、王の身近に伺候する者のそれが比べ得るだろうか。百度、千度と王を見た者の、王にまみえたが故の崇拝よりも、一度足りとも王を見ずしてなお崇拝する者の崇拝の方が、百倍も千倍も尊いのである。
たとえ今は称賛に値しようが、服従も信仰も、死の後では拒まれて無効となろう。その時こそ、あなた方に全てが明らかにされ真実が示されるだろう。 - 「おまえの口を閉じておけ。不可視の領域は不可視のままに、ヴェイルで覆ったままにするのがより好ましい。私達が、沈黙を守ることの方がより善いのだ。
兄弟よ、もはや語るな。神については、誰よりも神ご自身が良くご存知。知識はやがて神ご自身によって明らかにされよう。太陽の最も良き証言者は太陽そのもの、輝けるその顔こそが、太陽を最も良く知らしめる。そしてありとあらゆる証言者のうち、最良の証言者とは神ご自身なのだ」。
「いいえ、いいえ!私は語ります、神も天使達も、知識ある学者達も口を揃えて言うではありませんか — 『神と天使達、そして神について学んだ者は証言する、御方を除いて永在の主は無し』、と」。
- さあ、ここで考えてみよう。神こそが最も良き証言者であるというのに、天使達とは何のことか。何ゆえに、この場に天使達が呼び出されるのか。その理由はこうだ - か弱い目、か弱い心では、太陽そのものの光輝と正鵠を、直接に受け止めることが出来ない。まるでコウモリのように、太陽の光に耐えかねて逃げ出し、太陽とまみえる希望を捨ててしまう。
それ故に、天使達が緩衝として配される。憶えておけ、知っておけ。天使達と私達は共に助け合う間柄だ。彼らもまた私達と同じように証言する者達であり、天空に太陽の光を延べ広げて太陽を知らしめる者達なのである - 「か弱き者よ、受け取れ、これぞ威力ある御方の光だ。私達はあなた方に光を届けよう、御方の使節となって」。
新月、七日月、満月と、月にも様相の違いがあるように、天使達にも光の階梯がある。「二対、三対、または四対の翼を持つ(コーラン35章1節)」。ヒトの知性も翼と同じだ。善であれ悪であれ、全てのヒトはその階梯にふさわしい翼を持つ天使を同僚としている。翼の数が増せば、より多くの光を届ける。知性が増せば、より遠くへと飛ぶ。
こうして星々が夜空に輝く、月明かりのみでは視界おぼつかぬ者達の導きとして。「私の同胞は星のようだ」、預言者は言った。「旅人にとっては導きのランプとなり、悪魔にとっては頭を打つ流星となる」。もし誰しもが天に輝く太陽の光をじかに見る目、じかに受け取る強さを持っているならば、月や星が太陽の存在を知らしめる証言者としてつとめる必要も無かっただろう。
月 - われらが預言者 - は、大地と雲と、影に向かって語りかける、「私はヒトに過ぎない。私とあなた方に、何の違いも無い。私はあなた方のうちの一人であり、『おまえたちの神が唯一の神であると啓示されている(コーラン18章110節)』。あなた方と同じく、私もまた暗く眠る土をその本質とする者。
私の胸に輝いているのは、太陽の下された光の啓示だ。この太陽、啓示を下された御方に比すれば、私は暗い夜の闇のよう。けれど私は、こうして魂の暗がりを照らす光を持つに至った。私が手にしているのはごくかすかな光だ、太陽の光をじかに見る強さを持たずとも、これならば見ることが出来るだろう。
私は薬だ、はちみつと酢を混ぜ合わせた薬だ。これはあなた方の心を苦しめる悩みを取り除く。ひとたび苦しみが取り除かれ、健やかさを回復したならば、もはやはちみつに酢を混ぜ入れる必要はない。はちみつそのものを、思う存分に味わうのが良い」。
心の座から激情が一掃され、再び静寂が戻ったその時こそ言え、「この慈悲ぶかいお方は玉座に登っていたもう(コーラン20章5節)」、と。心が御方とこのような関わりに達すれば、それ以降は仲介者無しに、神はじかに心を御したもう。
- これについて全てを語るには紙が足りぬ。さて、ザイドはどこへ行ったのだろうか?ひとこと忠告しておかねばなるまい、顔に泥塗るような真似はするな、と。
いや、今となってはザイドの姿は見当たらぬ。蹄鉄を嫌って逃げ出した馬のように、どこぞへ逃げてしまったようだ。いや、探すにはあたらない。ザイドが見つかるはずもない - ザイド本人でさえ、自分が何処にいるのか理解していないのだから。
太陽が昇れば、星の影なぞ見当たらぬのが道理というもの。いくら探そうとも、そのかすかな徴も足跡も見つけ出すことは出来ないだろう - 藁の束に藁一本を探すようなもの、天の川に星一つを探すようなもの。
ザイドに限らぬ。私達のこの感覚、この議論、理性と信じて疑わぬところのこれ。全ては、私達を統べる王たる御方の知識と知恵の裡に消滅する。さて、一体どうすれば、怠惰な眠りの枕から頭を持ち上げることが出来るだろうか。死人のように重い睡眠は、死肉のような(非合法の)食物の友だ。商人が眠りにおちる頃、夜盗は仕事に出かけて行く。
あなた方は、自分の敵が誰なのか知っているだろうか?土によって創られた者にとり、火によって創られた者こそ敵となる。火は、水とその系譜に連なる子供達の敵だ。逆に、水は火にとり生命線を脅かす敵でもある。水が火を殺すのは、火が水と、水の子供達の敵だからだ。
続ける前に言っておくが、ここで言う火とは欲望の炎であり、罪と過誤の因を指している。外界に燃える火であれば、水を注いで消し止めることも出来よう。しかし欲望の火であれば、地獄へ引き摺りこまずにはいないだろう。では、一体何を用いれば欲望の炎は消しとめられるのだろうか。
- 宗教の光だ。あなたの信仰の光は、異教の炎を消し止める手立てとなる。アブラハムの光を、あなた方の導師とせよ。そうすれば、薪のようなこの身体に棲みつくニムロードのようなナフス(我欲)の炎から解放されよう。燃え盛る欲望は、楽しめば楽しむほど消すことも減らすことも出来なくなる。何故なら満たすことは不可能だから - ただ立ち去ること。他に方法は無い。
炎を操ることなど出来ぬ、あなた自身が炎の中に横たわる薪なのだから。薪を運び出さずに、どうして炎が消えるだろうか?薪を取り戻せ、それで初めて炎の勢いも弱まる。神への畏怖こそ火にとっての水。神への畏怖は魂の頬を薔薇色に染める。心の座にまします神を知る者の顔は、煤で汚れることも無い。