『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
愛あまねく慈しみ深い神の御名において。
葦笛を聴け、それが奏でる物語を、 別離を悲しむその音色を。
葦笛は語る、 ––
慣れ親しんだ葦の茂みより刈り取られてのち
私の悲嘆の調べには 男も女も涙する
別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ
愛を求めて 痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる
誰であれ遠く切り離された者は乞い願う
かつてひとつであった頃に戻りたい、と
どこにいようとも私は涙の調べを奏でる
不幸を背負う者達の 私は友となり慰める
誰もが己の思惑を胸に私の友となるが
私の胸に秘めた思いを 探り当てた者はいない
私の調べは私の嘆き 胸に秘めるこの思い
だが耳も眼も塞がれた者に 光が届くはずもない
魂は肉体の覆いなどでは断じてない、
また肉体も、魂の錘などでは断じてないのだが
それでも未だ一人としていないのだ
魂を垣間見ることを許された者など
葦笛の調べは燃え盛る炎、それはそよ風などではない。
この炎を胸に持たぬ者など、消え失せてしまえばいい!
これこそは愛の炎、これこそは葦笛の愛。
これこそは愛の熱、それは葡萄酒にも見出せよう。
誰であれ別離を嘆く者の、葦笛は無二の友となる。
葦笛に課された嘆きの深さが、我らの心の眼を開く。
いったい誰が知るというのか、葦笛に優る毒を、薬を。
誰が知るというのか、葦笛に優る心の友を、不変の愛を。
葦笛は語る、かつて多くの血が流されたその「道」について。
マジュヌーンの情熱の物語について、繰り返し奏でる。
愚か者には封印された物語。
だが耳を持つ者であれば、誰にでもその舌は届く。
我らの悲痛に、時は立ち止まりもせず早々と過ぎ去る。
我らの日々とは、燃え盛る苦悩を道連れの旅路に他ならぬ。
過ぎ去るがいい、引き止める甲斐もなき日々よ!
あなた以外には何も残さずに –– あなたこそが聖なる全てなのだから!
魚であれば誰しもが、飽かずあなたの水を飲み続ける。
日々の糧を持たぬなら誰しもが、日の長さにため息をつく。
何であれ生(なま)のものは、熟すとは如何なることかを決して理解せぬ。
ゆえに長々と語りはすまい、ただ「さらば」と告げるのみ。
息子よ、おまえの鎖を断ち切り自由になれ!
いつまで銀貨金貨に囚われた奴隷として過ごすのか?
海を水瓶に汲んだところで、いったいどれほど溜め込めるものか?
一日分がせいぜいではないか?
欲望の眼差しという水瓶は決して満ち足りることがない。
真珠を抱かない牡蠣の殻にいったい何の価値があるというのか。
愛に衣を借り着する者のみが、欲望や全ての瑕瑾から清められると知れ。
味わい楽しめ、愛を –– よきものを我らに贈り届けてやまぬ愛を!
愛こそ我らの病全てを癒す医師、我らの驕慢と自惚れにつける薬。
我らのプラトン、我らのガレノス!
地上を這いずるこの体も愛あればこそ空高く飛ぶ。
重たい岩山さえも愛あればこそ軽やかに舞い踊る。
愛する者よ、愛はシナイの山の魂となった!
シナイの山は愛に酔い、そしてモーセは意識を失い倒れ込んだ。1
思いをひとつにする奏者と巡り会いその唇が触れたなら ––
その時こそ語られるべき全てを語ろう、私もまた葦笛のように。
だがたとえ百の歌を持つ者であっても、
同じ言葉を語る者と切り離されてしまえば舌を持たぬも同じ。
ばらの花も枯れて朽ち果てた庭では、
二度とナイチンゲールの昔語りを耳にすることもない。
愛こそ全て、愛する者はヴェイルにすぎない。
愛こそ生命、愛する者は死体にすぎない。
愛に見放されれば翼を失った鳥も同然、
–– その時こそ一巻の終わりだ、何と言う惨めさ!
前にも後にも愛の光を見出せずに、
前と後とをどうして見分けることなどできるだろう?
愛の意志が私をしてこれらの言葉を語らせる。
だが映さぬ鏡に語りかけたところで何の価値があろう?
君は知っているのか、君の魂という鏡が何も映さぬその理由を。
知っているのか、その表面が錆に覆われているのを。
友人たちよ、この物語を聴け。
我らが内なる世界の、まさしくその髄にあたるこの物語を。
*1 コーラン7章143節。「モーセがわれらと約束した時に来て、主が語りかけたもうたとき、彼は言った、『主よ、私に見えるようお姿をあらわしてください』。主は言いたもうた、『いや、おまえはわしを見ることはできない。しかし、あの山を見よ。もしその場にじっと動かないなら、きっとわしを見ることができるだろう』。主は山に姿をあらわしたもうや、それを崩壊させたまい、モーセは気を失って倒れた。正気に返ったとき、彼は言った、『あなたに栄光あれ。あなたのみもとに悔い改め、最初の信者となります』」