『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー
礼拝の魂 1
ジャラールッディーンは問われた。
「定められた礼拝以外に、神に至る道はありましょうか」
「否、」彼は応えた。
「だが礼拝とは、定められたかたちのみを指すものではない」
定められた礼拝には、始まりと終わりとがある。
かたちあるもの全てに、始まりと終わりとがあるように。
肉体もやがては滅び、言葉も終には途切れて静寂が訪れるように。
だが魂には、いかなる条件の制約もない。
魂には、終わりというものがない。
預言者達が、礼拝の本質を指し示している……
礼拝とは、魂が魂自身をも含めて、全てを忘れ去ることにある。
そのとき、かたちあるものは全て消え去ってしまう。
純粋なる精神そのものである天使ガブリエルですら、
その領域に立ち入ることはできない。2
「このような礼拝は、もはやいかなる宗教とも呼べぬ」
おのれの理性を崇拝する者はそう言うだろう。
だが真の崇拝とは、神との合一にこそある。
礼拝の魂は、まさしくそこにあるのだ。
1. 『フィーヒ・マーフィーヒ』15. スーフィー達はしばしば、礼拝( salat )を行うにあたり、全ての感覚を神のみに集中した結果として生ずる「自意識の消滅( fana’u ‘l-sifat )」について言及する。預言者は、内的感覚において神を観ずること無しには、礼拝の完成はあり得ないと断言したと伝えられる。彼にとって、あらゆる礼拝は新たな昇天( mi’raj )を意味した。それに臨む際には、彼は天使ガブリエル –– 理性の象徴 –– すらも後に残した。『隠されたるものの開示( Kashf al-Mahjub )』p302参照。