『ルーミー詩撰』
メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミー
見せかけの知識 1
ねえ、きみ、
きみはいったいそれを知っているのだろうか、
きみはそれを理解しているのだろうか。
それともきみは、薄々は感じているのだろうか?
きみの学んできたことなど、まるで子供だましの、
葦の茎のように、脆くはかないおもちゃであることを。
心で憶えたことなら、それはきみの翼となって、
きみは今すぐにでも空よりも高く飛び去るのだろう。
けれど体に染み付いてしまったことなら、
それはきみにとって、背負わされた重荷でしかないだろう。
かみさまだってこんなふうに言っている、
「書物を運ぶろばよ、あわれなものよ」と。2
けれどかみさまのこぼす、あわれみなどには背を向けて、
重荷を運び続けるのも、それはそれでわるくはない。
無心に、ただひたすらに歩いて行けば、
きみはいつか、辿り着かずにはいられないだろう。
そのとき重荷は取り去られるだろう、
そこで初めて、きみは歓びの何たるかを知るのだろう。3
それを知ることなしに、どうして自由になれるだろう?
きみというきみの全てが それのしるしそのものだというのに。
きみが見ているそれ、感じているそれを、人はまやかしと呼ぶだろう。
けれどまた同時に、まやかしほどに真実へと至る道を知らせるものはない。
いったい、リアリティを含まないファンタジィがあるだろうか?4
それとも、きみは「薔薇」という文字から花を摘めるのか?5
きみはその名前を知ってはいるだろう、だがそれだけで、
きみはほんとうに「薔薇」を「知っている」、と断言できるのか?
名前の背後に何が隠されているのか探すといい。
月はいつでも空にある、水面に映るのはただの影に過ぎない。
きみはきみの心ひとつを信じて行け、
全ての偏見、全ての誤解、全ての常識からきみ自身を無垢にして。
きみの心の中には、全ての知識がすでに用意されている。
それを信じて歩め、書物を捨てて、理解を捨てて、学んだ全てを捨てて。
1. 『精神的マスナヴィー』1-3445.
2. コーラン62章5節からの引用。
3. または、「神があなたを、真の知識で満たすだろう」。
4. 神の美名や属性を表わす語彙は、神の本質についてのぼんやりとした影( khayal )を示すに過ぎないが、それでもそうした語彙を復唱し瞑想するスーフィーは、それらが指し示すものが何であるのか、愛と共に気づくだろう。あらゆる神名( ism )は、それを客体として名づける者( musamma )と究極には同一である。外側から見ればそれは「名前の名前」であり、名づける者の本質を覆い隠す「ヴェイル( hijab )」を構成している。
5. 外側にあらわれる姿とリアリティが必ずしも完全に分離できるわけではない、という教理については[泥の中の蓮]参照。ペルシャ語で薔薇はgul。「g( gaf )とl( lam )の文字から、gul を摘む」。