モーセと魔術師、隠遁について

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

モーセと魔術師、隠遁について

かつて呪われたファラオが支配した時代があった。ファラオの魔術師達は、モーセを敵とみて戦いを挑んだ。戦いを挑んだものの、それでいて彼らは知ってか知らずか、彼ら自身の言葉がモーセの優位を示していた。彼らは言った、「貴兄が先か、我らが先か、決めるのは貴兄だ。おのぞみとあれば、我らよりも先に、まず貴兄からその杖を振り下ろされよ」。2

「否」、モーセは答えた。「汝らが先だ。汝らの魔術を披露せよ。上でもなく下でもなく、中央に向って披露せよ、誰の目にも明らかになるように」。 - 彼らは、戦う前からモーセに主導権を引き渡していたのだ。これ、このほんの一さじほどの畏れが、やがて彼らを正しい道へと導いたのである。ほんの一さじほどの畏れが、彼らの手足(行為)がおかすあやまちから彼らを救い、彼らを魔術から浄めたのである。

魔術師達が魔術を捨て、正しい道に立ち戻り、あらためてモーセと向かい合ったとき、彼らはモーセの歩みの正さを知った。彼らは彼らの手足を、騒擾と争議を仕掛けた罪のつぐないとして差し出した。ほんの一さじの食物、ほんの一さじの言葉であっても、合法なのは、それを口にするのが達人であればこそ。未だ目覚めぬ者と、同じ一さじであるはずがない。軽々しくものを食べるな、ものを言うな。達人が舌なら、その他は耳だ。師と弟子が、同じであるはずがない。神が申された通りだ、「心静かに耳傾けよ、汝らへの恩寵となろうから」3と。

乳飲み子は、生まれ落ちるときには生まれることへの恐怖のあまり大声で泣き叫ぶ。だが生まれてしまえば、あとは全身を耳にして沈黙する。小さな唇をきゅっと閉じ、もの言うすべを学ぶ。もの言うすべを学ぶのに、もっとも必要とされるのは耳で聞くことであり、舌を動かすことではない。耳のように沈黙して学ぶ前から、無駄に舌を動かしたところで、それで「ものを言う」すべを知っている、と言えるだろうか?乳飲み子の口から出るそれは「音」に過ぎぬ。

生まれつき、耳の聞こえぬ乳飲み子もいる。耳持たぬ乳飲み子に、何の手当てもせずそのままにしておけば舌持たぬ子になる。「ものを聞く」ことなしに、どうして「ものを言う」すべを身につけられるだろうか。だがこれは、何も耳の聞こえぬ乳飲み子にのみ限ったことではない。手当てが必要なのは、実は誰であれ同じなのだ。「ものを言う」すべを身につけるには、「ものを聞く」ことが肝心であると知らねばならない。

「汝ら、館に入る時は正しい扉から正しく入れ」。4正しい扉から入らずに、垣根をこえて裏から入ろうと試みた者達の末路を見るが良い。「ものを聞く」こと無しに、「ものを言う」ことをあらしめることは不可能だ、何ひとつ欠けるところのない創造の御方をのぞいては。

全ては御方によって始まる。御方こそは主であり、追従すべき主を持たぬ。全ては御方によって支えられる。御方こそは主であり、支えを必要とせぬ。だが御方でもない我らが、真に「ものを言う」すべを身につけるためには、誰であれ師を持つなり、手本を持つなりする以外に学ぶ方法はない。

- さて、ここまでの話に異存はあるか。「ものを聞く」ことに異存はないか。無ければ、今すぐにデルヴィーシュの長衣をその身にまとえ。デルヴィーシュの長衣を身にまとい、喧噪を離れて沙漠を目指せ。ひとり沙漠に座れば、知らずしらず涙が溢れてくる。ひとり静かに、座して泣け。

アダムもまた、地上で静かに座して泣いた。そもそも、アダムは何故地上へ降ろされたのか?罪に対する罰としてではない。罰を猶予されるため、赦されるために地上へ降ろされたのだ。涙を流すということは、悔悛する者にとっては呼吸のようなもの。アダムが地上に降ろされたのも、涙を流し、嘆き、悲しみを味わうためであった。

アダムは楽園を追われ、七層の天よりも高い住み処から、地上の、履物よりも更に低い処(悔悟の階梯)へと降ろされたが、それも全て赦されるためには必要なことであった。誰であれアダムの末裔ならば、アダムの肋骨から生じた者ならば、赦しを必要としない者などいない。人々の受容と寛大を、一瞬たりとも求めずにおられる人などいるはずがない。

悲しみも、流される涙も絶やしてはならぬ。菓子はふたいろ用意せよ、「心の炎(悲嘆)」と「目の水(涙)」と。庭園も、太陽と雨雲のふたいろあればこそ緑はしげり花も咲く。「目の水」の味を知っているか?あなた方には、何ひとつ見えてはおらぬ。

物乞いのように、ひたすらパンばかりを追い求めるのは「目の水」を心の底から味わったことがないからだ。あなた方の財布がパンに費やされ、空っぽになってしまわないことには、数々の貴重な宝石を得ることはできない。下腹をパンでふくらませているうちは、財宝の入り込むすきがない。

魂が幼い乳飲み子である間は、悪魔と同じ乳を欲しがるのも道理。しかし成長したいならば、やがて天使の乳に馴染まねばならない。鬱々として気も晴れず、怒って当たり散らしたり、希望を見出せず悶々としているのは、悪魔の飲む乳と同じ乳を飲んでいるからだ。あなた方に光を与え、あなた方を完成へと導くのは悪魔の乳ではない。合法な報酬によって得た、合法な一さじこそが天使の乳だ。注いだ時、我らを照らすランプの灯火が消えるなら、注がれたのは油ではなくただの水だ。

合法な食事の一さじは、知恵と天啓の知識を生じさせる。合法な食事の一さじは、愛と優しさを生じさせる。非合法な食事の一さじは、無知と無関心を生じさせる。ねたみ心と狡猾さとが生じるならば、口にしたその一さじは非合法の一さじだ。小麦を蒔いたところで、どうして大麦が収穫できようか。ロバが、どうして立派な駿馬を産みおとすだろうか。

その一さじが種となり、思考という果実を結ぶ。その一さじが海となり、思考という真珠を与える。合法な食事の一さじを口に含めば、舌の上に神への想いを味わうだろう。神への想いを味わえば、あちら側の世界への希求が生じるだろう。

 


*2 コーラン20章65節。 「彼らは言った、『モーセよ、おまえが投げるか、それとも、われわれが先に投げようか』」

*3 コーラン7章204節。 「コーランが朗読されているときは、沈黙して耳をかたむけよ。そうすれば、きっとお慈悲がいただけるであろう。」

*4 コーラン2章189節。 「新月について汝に尋ねる人がいれば、答えてやれ、『それは、人々のため、また巡礼の時節の目やすである』。ほんと うの敬虔とは、裏口から家に帰ることではない。ほんとうの敬虔とは、神を畏れる者のことである。入口から家に帰り、神を畏れよ。おそらくおまえたちは栄え るであろう。」