続)商人とオウム

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

続)商人とオウム

さて、商人は旅先で全ての取引を終え、心の底から安堵した様子で嬉しげに帰ってきた。奉公人達ひとりひとりの留守番をねぎらって褒美をわたし、また女中達ひとりひとりにもこまごまとしたみやげものを渡した。「私のおみやげはどこですか?」、オウムが尋ねた。「何もないのなら、せめておはなしだけでも聞かせてください。あちらの様子を教えてください」。

「いやいや」、商人は答えた。「それについては勘弁しておくれ、私は本当に後悔しているのだよ。思い出すだけでも、後悔のあまり自分の手指を噛みたくなる。それにしても、一体どうして私はあんな愚かなことをしたのか。伝言など、気楽に引き受けてしまうのではなかった。あんなむごいことになるだなんて、思いもしなかった。まったく、ひどく無益なことをしたものだ」。

「ああ、ご主人様、」オウムは言った。「いったい、どうして後悔などなさっているのですか、いったい、どうしてそんなに悲しそうにしているのですか?悲しみを通り越して、怒ってさえいらっしゃるようです」。「おまえの愁訴はちゃんと伝えたさ」、商人は答えた。

「おまえにそっくりの、オウム達の群れに出会ったよ。だから彼らに、おまえの願い通りにおまえの言葉をそっくりそのまま伝えたさ。群れの中に、おまえの言葉にすっかり感じ入ったらしい一羽がいたのだ。よほど悲しんだのか、心を痛めたのか、聞くなり空から落ちて死んだのだよ、震えながらね。

それで私はすっかり気落ちしているのさ。『何であんなことを言ってしまったのだろう』と、ずっと考えていた。しかし言ってしまった後で後悔したところでもう遅い。全く後悔など、何の役にも立ちはしないね」。

- 言葉とは、舌の弓から勢いよく放たれる矢のようなものだ。年若いわが友人達よ、弓から放たれた矢は、再び引き返すことはできない。水がひとたびあふれ出せば、水源でせきとめる以外には、流れをとめる手立てはない。水源を離れ、堰を切って流れ出した水は、あっと言うまに世界じゅうを駆けめぐって、ありとあらゆる場所へと流れこむ。

我らの行為は、常に不可視の力動がもたらす影響から逃れられない。行為は我らから生じても、行為がもたらす結果については、我ら自身ではどうすることもできぬ。行為そのものの責任は我らに帰される。だが行為がもたらす結果を創造したもうはただ神のみ。同位者を持たぬ、唯一の御方のみ。

ザイドが弓矢を放ったその先に、アムルがいたとしよう。ザイドの放った弓矢が、豹のごとくアムルをとらえたとしよう。それ以来、弓矢の傷が長く尾を引く痛みを生じさせたとしよう。痛みを創造するのは神だ、人ではなく。弓矢を放ったザイドが、アムルを傷つけたことへの畏れのあまりアムルよりも先に死んだとしたら? - しかしそれでも、傷の痛みを引き受けねばならぬのはアムルに他ならない。痛みは残り続ける、やがてアムルが年老いて死を迎えるまで。

弓矢の傷に苦しんで、その結果アムルがザイドよりも先に死んだとしたら? - 弓矢を放ったザイドは、アムルを死なせた殺人者と呼ばれるだろう。殺人者と呼ばれ、罰の痛みを引き受けるのはザイドに他ならない。だがこれら全ての痛みを創造するのは神だ、人ではなく。

きっかけをつくり、言葉をかわし、誘惑し、罠をしかけ、抱き合って一夜を共にする - 行為の責任は我ら自身に帰される、しかしこのような交わりが生起し得たのも、常に神のご意志の働きあってのことなのだ。

聖者達とは何者か?彼らは、神の力動そのものである。神のご意志の働くままに働く。彼らには、空を切って飛ぶ弓矢の行き先を変えることすらできてしまう。全ての結果は原因に根ざし、全ての原因は結果をもたらす。これを論ずるのが因果論というもの。だが聖者達が悔悟して嘆けば、主に与えられたその手は結果と原因を根源から断ち切る。

聖者達に因果論は通用しない。彼らが悔悟するとき、一切の扉が閉ざされる。再び扉を開くのは神の恩寵のみ。そして再び扉が開かれたとき、かつて語られた言葉は跡形もなく消え失せている。 - 言葉とは、まことにかくありたいもの。勢いにまかせて吐き出したり、吐き出された言葉を拾いあげて酷評したりなぞしていると、やがて言葉だけではなく、その中身まで焼け焦げてしまう。

かつて聞かされた言葉を我らの心から消し去り、再び思い起こすことのないようにするのは、御方にとっては雑作もないこと。 - 論者、識者の方々よ。ご立派なことだ、何が何でも自分の言葉が正しいと思っておられる様子。自分の言葉の正しさを証明しようと試みるなら、まずは詠まれよ、「われらは啓示のいずれかを消し、またいずれかを忘れさせる」。5「汝らは彼らを笑いものにし、そのためにわれを念ずることを忘れた」。6

これ、このように聖者達には、人の心に忘却を生じさせる御方の力動が働いている。御方は彼らを通じて、ある時は思い起こさせ、またある時は忘却せしめる。どのような者の心であれ、(神の)被創造物である限り、その力の及ばぬところはない。聖者が忘却の石を置き、精神の知覚が走る道を塞いだならば、どれほどの知識や伎倆を備えた者であっても、次に打つ手は何ひとつない。

村の領主は王のごとくふるまう。ああした者どもは、あなた方の肉体を土地に縛りつけて支配しようとする。だがあなた方の心までは縛れない。あなた方の心を占める王こそが真の王、あなた方の真の支配者だ。

一体、行為とは何であろうか。疑う余地もなく、行為とは思考の枝葉である。視覚は思考をとらえ、行為という反応を示す。その意味において、ヒトとは全くちっぽけなものだ。眼の中の瞳孔のように、せわしなく伸びたり縮んだりする。しかしこれについて、全てをあからさまに語りつくすほどの蛮勇をわしは持たぬ。

- 否、むしろ「隠せ」と、わしに命ずるものがある。「守り通せ」と、わしの内奥、わしの中心からわしに命ずるものがあるのだ。何を忘却し、何を記憶するか、全ては御方の御心次第。何を望み、何を祈るかも、また何が叶えられ、何が聞き届けられるかも御方の御心次第だ - 幾千、幾万もの祈りと願いが、善きものも悪きものもすべて唯一の御方の許へ届けられる。

御方は毎夜、全ての心を開け放ちたもう。昼のあいだは、あれやこれやの思案や想念で騒がしいこの心も、夜が訪れて眠りにつけば、御方により開け放たれてきれいさっぱり空っぽになる。わずらわしい心配も苦悩も、ともかくも一晩眠ってしまえば、夜に隔てられて確実に過去のものとなる。

過去のものとして眺めれば、心配事の多くは、何のことはない、自分の感情や気分が生じさせていたまぼろしであったと知るだろう。感情や気分に振りまわされるな。それはほんの一時だけ、雲が空を覆ったに過ぎぬ。空が晴れれば、技術も力量も持ち主の手に戻ってくる。閉ざされた扉を、開ける手立ても見えてくる。

復活の日とは、あなた方自身を映す鏡のようなものだ。あなた方のなした仕事が、あなた方の心映えが、ふるまいが、そっくりそのままあなた方の手に戻される。夜の眠りから目覚める朝も、これと同じだ。あなた方が眠りから目覚めるとき、あなた方の仕事、あなた方の性質が、寸分も違えることなく正しい所有者のところへ戻ってくる。

夜明けが訪れるまでのあいだ、あなた方の行為、あなた方の思考は、あなた方を離れて遠くを旅している。「かつていたところ」を、善悪の彼方を、森羅万象の根源を旅している。「かつていたところ」の、あちらからこちらへと旅している。そしてあなた方が目覚める頃に再び戻ってくる。伝書鳩のように「かつていたところ」から、あなた方にとっての新たな吉報をたずさえて。

さて、遠く離れたかの地の、仲間のオウムに起きた出来事を聞かされて、鳥かごのオウムは激しく身をふるわせて止まり木から落ち、それから冷たくなってしまった。オウムが落ちたのを見て商人は飛び上がり、被っていた帽子を掴んで床に叩き付けた。おそるおそる覗き込み、オウムが動かないのを見ると、商人は身もだえて上着を引き裂き、胸をかきむしった。

商人は言った、「甘い声で鳴くオウムよ、可愛らしい姿のおまえよ!これは一体どうしたことか、何故こんなことになったのか。ああ、ああ。私の親友、私の心よ。おまえの歌は私の喜びだったのに。おまえの声も姿も、甘い香草のようだったのに、私の、心のぶどう酒だったのに。誓って言うが、全ての鳥を統べるソロモン王だって、おまえのようなオウムが傍にいれば、それで十分満足しただろう。他の鳥まで支配しようなどと思いつきもしなかっただろう。ああ、ああ。

- しかし今になって思えば私ときたら、おまえを手に入れる時も値切りに値切って、相当安く買ったものだった。それですっかり満足してしまい、きちんと顔を見ようともしなかったし、ましてやおまえの心など、考えてやりもしなかった。

ええい、忌々しいこの舌め。おまえのせいで、どれほど私が痛めつけられたことか。どれほど大きなものを失ったことか。しかしそうは言っても、しゃべるのがおまえの仕事だ。おまえに文句を言おうにも、おまえがいなくては何ともならぬ。舌よ、おまえはまるで火のようでもあり、同時に積み上げられた干し草の山のようでもある。干し草の山もおまえなら、そこへ次々と火を投げ込むのもおまえだ。

いったい、いつまでこんなことが続くのか。いったい、どれほど多くの魂が、おまえの仕業のおかげで人知れずひっそりと隠れて涙を流したことか。それもこれも、おまえが焚きつけた火事のせいなのだぞ。舌よ、おまえは尽きせぬ財宝のようだ。それでいて、舌よ、同時におまえは癒す薬もない疫病のようだ。

舌よ、おまえは狩人のように口笛を鳴らして鳥達をだましておびき寄せる。それでいて、舌よ、同時におまえは恋人を見失った孤独をなぐさめもする。舌よ、おまえは無慈悲なやつだ。私という鳥をおびき寄せ、今この瞬間は禁漁の域で私をくつろがせる。だが次の瞬間には、舌よ、おまえは復讐の弓で私を狩ろうとする。

見ろ、見ろ!おまえのせいで、私のオウムは去ってしまった。何という不正、何という悪業!悪事という名の牧草地で、新芽をむしゃむしゃとはむような真似にはもう我慢がならない。ええい、舌め、答えろ!私につぐなえ。私にあやまれ。そうでなければ、私を喜ばせる何かを持って来い。ああ、とうとう真っ暗闇に取り囲まれてしまった - 私の夜明けを返してくれ!私の昼を返してくれ、私の光を返してくれ!

ああ、ああ。私のオウムよ。おまえが、そんなにも良く飛ぶ鳥とは知らなんだ。私の体のこちら側から、私の心のあちら側まで、そんなにも遠く深く飛ぶ鳥とは知らなんだ。あわれんでおくれ、無知な男が永遠にかなわぬ恋をしたのだ。詠んで聞かせておくれ、『われらは、人間を苦難の中に造った』。7

おまえの顔を見てさえいれば、何の災いもなかったものを。おまえの声を聞いてさえいれば、何の痛みもなかったものを。私は泣く、今は遠く引き離されてしまったおまえを想って泣く。私は泣く、かつて私のすぐ近くにいたおまえとの至福を想って泣く - 神の嫉妬に見舞われたのだ、私は。だが神に逆らうすべなどあるはずもない。心など、はかなくもろいものだ。神の愛を受けてなお、粉々に打ち砕かれずにいられようか。

そうだ、これは(神の)嫉妬だ。全てを超越し、同位の者を持たず、言葉などものともせず、解釈も説明もただの雑音にすぎぬ御方の、私は嫉妬に見舞われたのだ。ああ、ああ!私の涙よ、海となれ!あちら側の浜辺には、私のかわいい恋人がいる。私の涙よ、波となって恋人に届いてくれ!

私のオウムよ、賢い鳥よ。私の思案を良く読み取る通辞であった。私の心の、私自身すら気付かぬほどの奥深くまで読みとることにたけていた。オウムの言葉に、耳をかすべきであったのに。あれは最初から、全てを私に打ち明けていたのに。しかしこうなってしまったからには、私の上に降りかかった善いことも悪いことも、全て受け入れねばならぬのだろう」。

いったい、鳥はどこから来るのか。あの歌はどこから来るのか。
聖なる霊感に導かれて歌うのが鳥なるもの。
有と無とのはざまに導かれて歌うのが鳥なるもの。

心の奥の、さらにその奥深くに始源の鳥が隠れている。
空を飛ぶ鳥も鳥かごにいる鳥も、
眼に見える鳥という鳥は、全て心の奥に隠れる始源の鳥の反射だ。
心の奥に隠れる始源の鳥が、あなた方の喜びを司っている。

始源の鳥の喜びが、あなた方の喜びとなる。
時として、始源の鳥はあなた方を傷つける。
だが喜びのためならば、あなた方は傷つくことも厭わない。
それどころか、始源の鳥のふるまいをかばうことまでしてのける!

喜びの炎に魂が焼け焦げる、喜びの炎が魂に光を添える。
喜びの炎に精神が焼け焦げる、喜びの炎に肉体が焼け焦げる、
- 私は炎の中にいる、御方の愛が私を焼き焦がす。

火種を欲する者があるならば、
誰でも私の近くに寄れ、いくらでも持って帰れ。

捨ててしまいたい何かがあるならば、
誰でも私の近くに寄れ、どんなガラクタでも遠慮せず投げ込め、
跡形もなく焼きつくしてやろう。

そして喜びを欲する者があるならば、
誰でも遠慮せず炎の中に入れ、共に御方の愛の火種となろう、
難しいことなど何ひとつあるものか。

ああ、ああ。何ということだ、折角の満月の夜だというのに - 雲よ、霧よ、恥を知れ!満月がすっかり隠れてしまったではないか。月明かり無くして、どのように言葉を紡ぎだせというのか。暗闇に、心の炎はいよいよ激しく燃えさかるばかり。愛する者との別離の悲しみが、ライオンとなり血を求めて暴れている - そら、心の檻から放たれたぞ。

そやつときたら、しらふの時でさえすさまじく凶暴で荒れっぽいのだ - ましてや、今のようにぶどう酒の杯を重ねた後では尚さらのこと。怒り狂ったライオンを、言葉の網で捕まえることはできぬ。牧童が、たった一人で地平線の果てまで見えるほどの草原を見守ることなど出来るはずもなかろうが。放たれたライオンをながめつつ、醒めた頭の半分で、私は詩作について、韻について考えている。すると愛する者が言う、 - 「これ、この浮気者め」。

詩人よ。何をぼんやりと考え込んでおるのか。
汝の眼はわれを見るためにあり、
汝の心はわれを想うためにあるというのに。

悩むな、わが詩人よ。心やすらかに、気楽にしておれ。
われと共に在れ、われを見よ。
そうすれば汝の詩は全て、終わることのない至福の韻をふみ続けるだろう。

言葉ひとつが、これほどまでに汝を思い悩ませるとは。
いったい、そもそも汝は言葉を何と心得るのか。
言葉など葡萄園を取り囲む垣根のようなもの、
葡萄そのものでは断じて無いのだぞ。

言葉、音、そして論。
われはこれら三つを、混沌の中へ投げ込んでおいた。
故にこれら三つにわずらわされること無く、
またこれら三つを用いることもなしに、
われと汝とが語り合うことも出来るのだ。

混沌に耳をかたむけて何になる、
われに耳をかたむけよ、われに意識をかたむけよ。

われは汝の意識に向けて語ろう、
アダムにも明かさずにおいた秘密の『言葉』を。
われは汝の意識に向けて語ろう、
アブラハムにも明かさずにおいた秘密の『言葉』を。

愛と、愛の痛みを汝に知らせよう -
知りたくはないか、詩人よ。
愛も愛の痛みも、
天使の身であるガブリエルには知ることすらかなわぬのだぞ。

- 救世主イエスは多くを語ったが、「神」の一語については、小声でささやくこともしなかった。用心深いかのお人は、常に「ما(マ―:ペルシャ語で『私達』の意)」と表現した。しかし一体、「ما」とは何という語であろうか。音は同じでも、ペルシャ語のそれとアラビア語のそれとではまったく異なる。その語は肯定とも否定とも、正とも負ともなりうる。

私は正ではない。私は負だ、愛の裡にすっかり消滅した。実のところ真の個性というものは、個性を捨て去り消滅し切ったところにのみ見出せるものだ。「私」すなわち「私達」だ。それを知ってからというもの、私は私という個を糸にして、皆と共に全体という絨毯を織り続けている。

すべての王侯達が、彼ら以前に倒れた者達と同じ轍を踏んで倒れる。泥酔者達はしらふの者を嫌う。人は皆、同じひとつの杯から共に飲んで酔う者を好んで群れになる。鳥撃ちは、鳥を捕まえて彼らの上に自分の生計を立てる。鳥は鳥撃ちの犠牲ではあるが、逆に鳥撃ちの一生もまた、鳥に捧げられた犠牲だともいえる。

恋のやまいを患う者は、魂をとらえて離さぬ愛しい者のとりこだ。だが同時に、愛しい者の魂もまた、恋い慕う者にとっての獲物でもある。愛する者、愛される者というのは視点の相違により生ずるもの。相対的に見れば、愛する者が、同時に愛される者であってもおかしくはない。喉がかわいて、水を探し求めてさまよう者があるならば、水の方もまた、喉がかわいた者を探し求めている。

愛する者があるならば、慎み深く沈黙を守るのが無難というものだろう。愛する者がそなたの耳をつまんだなら、つまませておけ。全身を耳にして、それでもあわてずさわがず、落ちついておれ。感情の水はせき止めておけ、洪水のごとくあふれさせるような真似はするな。あふれさせれば、何もかもが文字通り水の泡となるぞ。洪水の後に残るのは、からっぽの廃墟と恥のみだ。

私ならばどうするか、とな。私ならば一向に構わぬ。たとえすべてが滅び去り、廃墟となったところで困ることなぞ何ひとつありはせぬもの。むしろ望むところだ - 荒れ果てた廃墟の下に埋もれた財宝にこそ、私は心惹かれる。神に溺れた者は救いなど欲しはしない。より深く溺れることを欲するのみだ。大海の波に身も心もまかせて、あちらからこちらへと漂うのみだ。

- 「海ノ底ト波ノ上デハ、ドチラノ方ガ楽シイカシラ?御方ノ、矢ト盾トデハ、ドチラノ方ガ素晴ラシイカシラ?」。ははは。わが心よ、もしもおまえが、未だに歓喜と悲哀とを別々の異なるものだと考えているようなら、それはおまえが、未だに邪悪なる何ものかのささやきに耳を貸している、ということだ。

愛を欲する、とおまえは言う。だが実のところ、おまえが欲しているのは愛ではなく砂糖の甘み、ご褒美のお菓子に過ぎぬ - 愛を欲するならば、愛がおまえに何を欲しているのかをまずは知れ。おまえは知らないのか、愛される者のうち最も愛される者(神)は、おまえが何ものをも「欲さない」ことをこそ欲しているのだ、ということを。

星々が満天に輝いている。御方があれらを夜空に配したもうたのは、ただあの月を際立たせるため。御方が望みたもうならば、世界など、一夜のうちに廃墟となっても不思議ではない。いったい、我らの生とは無償であろうか。命とは、魂とは、御方の助けもなしに、我らがあがなおうとしてあがなえるものだろうか。

愛とは、死の裡にのみ見出せるもの。愛する者とは、死の裡に生を得る者を指す。自分の生だの自分の心だの、自分の想いだの、全て、全て捨ててしまえ。でなければ、最愛の恋人の心になど、触れもせず届きもしないままで恋は終わるだろう。

恋しいおひとの心を得ようと、ありとあらゆる手練手管を私は講じた。だが何をしようと、何を贈ろうと無駄に終わった。恋しいおひとは、むしろ私を軽蔑したように冷たくあしらっただけだった。私は言った、「心も魂もあなたの虜、あなたもそれをご存知のくせに」。

恋しいおひとは言った、「放っておいておくれ、今すぐ立ち去っておくれ。このような子供だましのまじないなど、二度と見たくない」。言葉では愛と言いつつも、行為は愛とかけ離れていることを見破られたというわけだ。二元論者のおちいる罠、とはまさしくこれ。最愛の恋人の心を得ようというときに、自分の取り分を残しておこうなどと考えていたのでは、結局、得るところなど何ひとつ無い。

「これはまた、ずいぶんと安くにみつもられたこと。ひとたび、言い値で安く買いたたかれてしまえば、すぐに飽きられて更に安い値で売り払われることは火を見るよりも明らか。さあ、さあ。今すぐに立ち去っておくれ、そして忘れてしまっておくれ。真珠を、一切れのパンと引きかえにしようなどという子供の相手をしてはおられぬ」。

思えば、あれが私の初恋であった。それ以来このように愛に溺れて、溺れ切って深みにはまってみれば、最初の恋も最後の恋も、全て同じひとつの愛の裡に、もとから在ったものと分かる。 - いやいや、恋の全てを語るような真似はするまい。そんなことをしていては、心も舌もすりきれてしまう。

「唇」という語ひとつにしても、私にとっては海辺ほどにも広大な意味を持つもの。寄せては返す波のすべてを、語り尽くすことなど出来はせぬ。「否」という語ひとつにしても、私にとっては一大事だ。「لا(La:否)」と言ってしまえば、「الله(Allah:神)」と言わずには済まされぬ。8

日常、私が黙ってやり過ごすのは何も語ることが無いからではない。その逆だ。言いたいことは山のようにある、私の中にはありとあらゆる言葉が詰まっている。私がしかめっつらをしているのは、苦いものを食べたからではない。その逆だ。私は甘美を味わっているのだ。

こうしてさも気難しげに顔をしかめていれば、私の中に詰まった甘いものを隠し通せるだろう。私から掠めとろうなど、誰も思いつきはしないだろう。にこにこと愛想良く笑っていれば、それだけで誰もかれもが近寄って来る。だが誰も彼もが、聞くに値する耳を持っているというわけではない。聞く者を選ぶ物語というものが存在するのだ。

少し寄り道をしよう。これから語るのは、まさしくそうした物語のひとつだ。 - さて、さて、秘密を聞くにふさわしい耳が揃ったところで、語って聞かせよう、数ある秘密の中でも、間違いなく最上の部類に入る、とっておきの物語を。

 


*5 コーラン2章106節。 「もしわれらがいずれかの啓示の文句を抹消したり、あるいはわざと忘れさせたりする場合は、それよりもよいものか、またはそれと同等のものを授けるようにしている。神は全能におわすことをおまえたちは知らないのか。」

*6 コーラン23章110節。 「おまえたちは彼らを笑いものにし、そのためにわしを念ずるのを忘れた。おまえたちは彼らを嘲笑<ちょうしょう>していた。」

*7 コーラン90章4〜5節。 「われらは、人間を苦難の中に造った。彼は、だれ一人おのれを左右するようなことはないと思っているのだろうか。」

*8 「لا(La:否)」に始まり、「الله(Allah:神)」で終わるイスラム教徒の信仰告白の文言「la ilaha illa Allah」を指している。