サナーイーに関する註釈、預言者の伝承、神の嫉妬について

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

サナーイーに関する註釈、預言者の伝承、神の嫉妬について

ハキーム9を読んでみるとしよう。それから、我らが預言者 - 神の平安がかのお方の上にありますように - の伝承を。

君の歩みを止めさせたものの正誤などどうでも良いが、
そのせいで、君が歩みを止めてしまうことこそが問題なのだ。

君の歩みを止めさせたものの美醜などどうでも良いが、
そのせいで、君が愛する者から遠ざかることこそが問題なのだ。
(サナーイー)

わが友サアドは本当に嫉妬深い。
だがサアドよりも、私の方がもっと嫉妬深い。
だが私よりも、神の方がもっと嫉妬深い。
そして神は、その嫉妬深さゆえに不正を憎まれ、
顕われるものであれ隠されるものであれ、
不正を禁じ給うたのである。
(預言者ムハンマドの伝承)

神は嫉妬深い御方。それゆえ全世界を見渡しても、嫉妬の無いところなどありはしない。御方の嫉妬は、全人類のそれを足したものをはるかにしのぐ。御方が精神なら、世界はその肉体のようなもの。善きにしろ悪しきにしろ、肉体は精神の影響を受けずにはおられない。

真理を見出した者のミフラーブ10は、変化を余儀無くされるもの。以前通りのミフラーブに戻ることなど出来はしない、それは真理に対する裏切りとなるからだ。道を歩む信仰者ならば、常に真理をミフラーブとするもの。新たな真理が見出されたときに、従前の慣習に執着して後戻りするのは恥ずべき行いである。

王のお気に入りとなり、王の手によって学者の礼服を下賜された者が、真に王のためになる助言など出来るはずがない。スルタンの寵愛を受け、スルタンと親密な仲になった者を、扉の外で待ち受けているのは侮辱と奸計であり栄誉ではない。王の手に触れ、王の手に接吻をする特権をさずけられた者が、固辞して手ではなく足に接吻しようとすれば、それは罪として咎められよう。

たとえ頭を垂れて足に接吻する行為そのものは、敬意と謙譲の意を表わすものだとしても、だ。王の意を退け、己の意を押し通したという点において、それは傲慢な過誤とみなされてしまう。王などというのは、誰よりも嫉妬深いものと決まっている。彼を取り巻く人々の顔の上に、ほんのわずかであってさえ、漂う自尊心の芳香を鋭敏に嗅ぎとる。

ヒトの嫉妬であってさえ、これほどまでに凄まじい。だがたとえるならば、ヒトの嫉妬は麦わら一本のようなもの、神の嫉妬は麦そのもの。全ての嫉妬の根源は神にある。ヒトの嫉妬は、神の嫉妬を根とする枝葉である。誰一人として無関係ではない。あなた方も私も、毎日のように悩まされているではないか。

前口上はこれくらいで切り上げてしまおう。そうだ、私は悩んでいる。ぶちまけてしまいたい不満がある。御方は美しく、崇拝してもし足りるということがない。とは言うものの、御方の何と気紛れなこと、何と残酷なこと。私は御方を求めて泣き叫ぶ。私が泣き叫べば泣き叫ぶほど、それはそのまま御方のご満悦となる。泣き叫ぶのは私一人ではない。聞こえないか、現世と来世、二つの世界が共に御方を求めて泣き叫んでいるのが。

御方との、合一を果たした陶酔の輪の中に居られる間は幸福だ。しかし酔いもいずれは醒める。そんなとき、御方のむごい仕打ちをどうして恨まずにおられようか。どうして呻かずにおられようか。どうして嘆かずにおられようか。悲しい、苦しい。まるで太陽が沈み、光を失った夜の空のようだ。

御方に冷たくあしらわれればあしらわれるほど、わが魂は御方を恋い慕う。御方の冷たささえもが、魂の甘露となる。ああ、御方がそれを禁じてさえいなければ、いっそこの心臓をえぐり出し捧げものとしてしまいたい。王の中の王よ。このまま、悲しみと苦しみの中でもがき続けていれば満足なのか。それでも構わぬ、それが御方の望みたもうことならば、御方の喜びたもうことならば。

わが両の眼の底に悲しみが積もる、積もった悲しみはやがて海となる。やがて海は真珠をはらんで、わが両の眼からこぼれ落ちる。何も知らぬ他人は、それを涙と呼ぶだろう。違う、これは御方の形見だ、御方のための真珠だ。魂の中の魂よ。魂を統べるわが王に、私はこうして恋の手紙を書いている。何も知らぬ他人は、それを愚痴と呼ぶだろう。違う、これは御方の形見だ、御方のための物語だ。

わが心が告げる、「これ以上深入りしてはいけない。恋は叶わず、傷つき苦しむばかりではないか」。弱り果てたわが心を、私は弱々しいながらも笑い飛ばそうと試みる。私は祈る、「公正のうち、最も公正な御方よ、善きものを授けたまえ」。私は御方を探し求める。御方はいつも通りの玉座におられ、そして扉は閉ざされたまま。閉ざされた扉の外で、私はただ呆然と立ちすくむ。

しかし「玉座」とは何か。「扉」とは、何であろうか。それらが真に意味するところは何なのか。私が今まで「玉座」と思っていたそれ、「扉」と理解していたそれは、真に「玉座」であり「扉」であったのか?ものごとの輪郭が失われてゆく。領域を分け隔てる境界線が消えてゆく。私とは何か、御方とは何か。「私」と「私達」の違いは何か、そもそもそれは真に異なるものだろうか?

魂の中の魂よ。魂を統べるわが王よ。「私達」と「私」から、ありとあらゆる隔てから自由な御方よ。私が「私」を捨ててしまわない限り、私が御方を「御方」と呼ぶ限り、「私」はいつまでも「扉」の外で、「玉座」の様子をあれやこれやと思い悩み続ける羽目に陥る。

恋人同士が結ばれるとき、その結び目こそは御方である。「ひとつになる」などと言うが、その「ひとつ」こそは御方である。「私」と「私達」を隔てたもうたのは、御方にとってはほんのたわむれ。我らにとっての崇拝の行為は、御方にとっては双六のようなもの、盤上の遊戯のようなもの。「私」と「私達」の隔てとは、やがて取りのぞかれるために用意されたもの。

魂の全てが、隔てを取りのぞいて自由になり、最後には、魂のうち最も愛される魂たる御方の裡に溶け沈む、これこそが最上の道。命じ給え、ただ一言「在れ!」11と。発せられる全ての言葉のうち真に芸術と呼べるのは、ただ御方の御言葉のみ。御方の御言葉はまさしく創造そのもの。

肉体を通じて御方との邂逅を求めれば、自ずと肉体の制約を受けることになる。かと言って、心ならば何の制約も受けないだろう、などと考えるのも早計に過ぎる。ことあるごとに泣いたり、笑ったり。心の方こそ、ひっきりなしにこの世のあれこれに揺れ動いているではないか。悲しみと喜び。このふたいろの感情、このふたいろの幻影に束縛されて生きる者の何と多いことか。確実なものなど、不変のものなど、この世には何ひとつありはしないのに。

愛とは緑したたる永遠の庭。そこにみのる果実は玄妙極まりない色彩をしている、それは悲嘆でもなければ歓喜でもない。愛はふたいろの感情を超える。永遠の庭、始まりを告げる春も訪れず、終わりを告げる秋も訪れない。愛よ、美しい上にも美しい御方よ。その御顔を見せておくれ。役人の眼は節穴に違いない、この美しい御顔という財に税を課さぬのだから。

その眼差しが、わが心に明かりを灯して魂を照らす。ほんの一瞬、ほんの一瞥をくれただけで、わが心臓を飛び上がらせ、私は息も出来なくなる。愛のためなら、私は私の血を流すことも厭わない。わしは言う、「愛よ、そなたに殺されるなら本望だ。そなたが殺すなら、それは合法だ」。

だがそんな口走りを聞いて、愛はたちまちわしの許から去ってゆく。愛には、嘆きの言葉は似つかわしくない。だが我らを嘆かせるのも、愛そのもの、愛の不在ではないか。愛は我らの心の上を蝶のようにひらひらと舞う、嘆きの鱗粉をまき散らしながら - 惜しげもなくあちらこちらに光を振りまいておきながら、何故この私を避けるのか。恋情を募らせ、焦燥にかられたこの私を見捨てるのか。

愛よ、わが恋人よ。甘い蜜の唇は、購おうとして購えるものではない。古ぼけてくすんだ世界に紛れ込んだ、生まれたばかりの鮮やかな魂よ。聞け、魂も心も失って、がらんどうの抜け殻となったわが肉体に響く泣き声を。薔薇の話はもう沢山だ、聞き飽きたぞ。薔薇が美しいのは分かりきったことではないか!語るならばナイチンゲールについて語れ、薔薇との別離を嘆くナイチンゲールをこそ語れ。

我らの感情は、悲嘆と歓喜に起因するものではない。我らの意識は、想像に起因するものではない。眼に見えないからといって、それが架空の産物であるなどということは断じてない。眼に見える領域とは異なる、もうひとつの領域は明らかに存在する。言うな、「私は信じない」などと。眼に見える領域の限界を知れ、それが神を知るということだ。

眼に見える領域に在るヒトの限界を知り、ヒトの判断の限界を知れ。悪行と善行の、ふたいろに分かつ思考の限界を知れ。知らぬものを、どうして超えることなど出来ようか。知らぬものを、どうして「信じない」などと言えようか。悪行と善行、悲嘆と歓喜。それらは全て生じせしめられたものであり、生じせしめるものではない。生じせしめられたものなど、やがては潰える。生じせしめる根源をこそ目指せ。

夜が明けようとしている。「ご加護を求める、わが黎明の主よ。その造りたもうた悪から、ふけゆく宵の悪から」12、 - そして一晩中私に付き合わされ、眠りそびれて寝ぼけ眼のフサームッディーンの恨みから。過ちを犯すのが我らなら、赦しを与えたもうのは御方。御方は万物の心と魂を、あまねく赦したもう。魂の中の魂よ、まるで珊瑚のように光り輝いている。

朝焼けの空は素晴らしい。数ある光のうち、朝の光は際立って輝きも格別だ。我らも朝の光の杯を遠慮なく酌み交わそう。御方に愛されたマンスール13の、ぶどう酒のご相伴に預かろう。御方の下される贈り物は、いつでも素晴らしくわが心をときめかせる。マンスール然り -

私は有頂天だ、こんなに上機嫌にしてくれるぶどう酒が他にあるだろうか。我らに比べれば、地上のぶどう酒など何ほどのものか。我らの酔いに比べれば、地上のぶどう酒の酔いなど何ほどのものか。我らの意識の飛距離に比べれば、旋回する天空など何ほどのものか。

いやいや、酔ってなどいない。酔っているのは我らではない。ぶどう酒の方こそ、我らに酔わされたのだ。天空の方こそ、我らに酔わされて廻っているのだ。我らは肉体に振り回されはしない、肉体に奉仕などしない。その逆だ、我らにこそ、肉体を奉仕させるのだ。我らが蜜蜂なら、肉体は蜜蝋を固めた蜂の巣だ。蜜を集めるのも、蜜蝋で巣を作るのも蜜蜂の為す仕事だ、蜂の巣の為す仕事ではない。

 


*9 ハキーム・サナーイー ガズナ出身の神秘主義詩人。1131没。ガズナは現在のアフガニスタン。ルーミーは、サナーイーと前述のアッタールと いう二人の詩人について「アッタールはわが魂、サナーイーはその両目だ。私(の詩作)は、この二人に学ぶところが大きい」とも述べている。

*10 「ミフラーブ」とはモスクの礼拝堂内部の、聖地メッカに面する壁に設けられるアーチ型の壁龕<へきがん>。イスラム教徒は礼拝の際にミフラーブの設けられた壁、すなわちメッカの方角に顔を向ける。

*11 コーラン16章40節。 「われらがなにごとかを欲するならば、ただこれに、『あれ』と言いさえすればよい。そうすれば、そのとおりになる。」この後に、蜜蜂をモチーフにした譬え話が出て来る。コーラン16章が「蜜蜂の章」と呼ばれていることからの連想。

*12 コーラン113章。 「言え、『私は黎明の王にお加護を求める。その造りたもうた悪から、ふけゆく宵の悪から、結び目に吹きかける老婆の悪から、妬<ねた>む者が妬むときの悪からのがれて』」

*13 マンスール・ハッラージュ ペルシャの神秘主義詩人。922没。「われは真実なり」「わが衣の下には神のみが存在する」といった言葉を口に したことから危険人物とみなされ、バグダードの牢獄に幽閉されたのち当時の支配者であったアッバース朝政府によって異端者もしくは冒涜者として処刑され た。ルーミーは、ハッラージュを「愛の殉教者」と評した。