続)商人とオウム

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

続)商人とオウム

- 寄り道が長くなり過ぎた。そろそろ、商人とオウムの物語に戻るとしようか。あの善良な男に、何が起こったかを見るとしようか。かの商人は、燃えさかる炎のような悲しみのまっただ中にいる。苦悩に取り乱し、熱情に浮かされたような言葉の数々を、次から次へと狂ったように口走っている。

おぼれかけて息も出来ず、魂を苦悶に捉えられた者は、もがきながらも何かにつかまろうとする。それが藁であってさえ、手当たり次第につかまろうとする。正気を失うことは死にも等しい。死に怯え、恐怖にかられた者は手足をばたつかせて大暴れする。おぼれかけた者に手を差し出せば、助けるどころか、逆にもろとも危険に陥る場合の方が多い。

ところが我らが真の友(神)は、この種の動揺、この種の撹乱をこよなく愛したもう。我らが目を閉じて眠りこけているよりも、たとえ無駄と思われようが、あがき、もがき、助けを求めて叫ぶことの方を、より好ましいものとして慈しみたもう。王の中の王たる御方は、一瞬たりとも無為には過ごされない。たとえ御方が沈黙しているかのように見えても、その実、奇跡は絶え間なく起こり続けている。

「主は日々あらたなるみわざをなしたもう」。14慈悲深き御方の、この御言葉が意味するところもまさしくそれだ。忘れるな、奇跡は絶えず起こり続けている。あがくも良し、もがくも良し、だがあきらめるな。これと決めたら、一瞬たりともぼんやりとしてはおられぬ。投げ出さず、最後の息ひとつにまで誠心誠意の注意を払うことだ。

最後の息ひとつが、御方の御目にかなうことになるかも知れぬ。最後の息ひとつが、御方の贈り物を引き寄せることになるかも知れぬ。最後の息ひとつが、自分でも知らなかった新たな自分を連れてくることになるかも知れぬのだ。男女の別など、魂の王たる御方にとっては何の障壁にもなりはしない。誰であれ、魂の底から挑み続ける者の姿が、魂の王の御目、御耳に届かぬことなど決してありはしない。

- さて散々に涙を流した後で、商人は鳥かごの扉を開けてオウムをそっと手に乗せ外へと出した。鳥かごの外へ出されるやいなや、かわいらしいオウムはさっと羽ばたいて高く飛んだ。つい先ほど、商人の目の前で死んだとばかり思われたオウムは、光のような敏捷さで窓の外へ、高い木の枝に向って飛んだのだ。まるで東の空から昇る太陽の光のように素早く、確実に。

オウムの飛翔に、商人はただ驚くばかりだった。死なせてしまったとばかり思っていたのに、一体どうしたことか。次の瞬間、商人の脳裡にひらめくものがあった。何の知識も無いながら、商人は鳥の秘密を感知したのである。商人は鳥を見上げて言った、「オウムよ、いや、私の愛するナイチンゲールよ。ほんの少しだけ待ってはくれないか。私に、教えてはくれないか。

私はおまえが死んでしまったものと思い込んだ。だが本当のところ、おまえは私が話して聞かせたインドのオウムの真似をしてみせた、ということなのだろう?私を騙して、隙を見て飛び去っていこうという企てだった、ということなのだろう?」。

オウムは答えた、「あなたの仰る通りです。遠く離れたわが友人が、あなたにして見せたふるまいは、実のところ私に対する助言でありました。つまり、こういうことです、 - 『汝の声と、汝の主人への忠誠を捨てよ。汝の主人をして汝を鳥かごへ幽閉せしめたもの、それは汝の声と、汝の声を愛した汝の主人に他ならぬのだから』。

友人はあなたの目の前で死んだふりをして見せ、それを以て私への秘密の助言としたのです。友人の演技に込められた、私への伝言の意味はこうです - 『声を自在に操る歌い手よ、私と同じようにふるまえ、死ぬ前に死ね。いったん、自分を捨てるのだ。そうすれば善いものを授かるだろう』」。

あなた方が小麦なら、小鳥があなた方をつつき割る。
あなた方がつぼみなら、子供があなた方をつまんでひきちぎる。

小麦を隠して、罠とせよ。つぼみを隠して、屋根の雑草となれ。
何であれ、あなた方の美点を競り市に出せば、
邪悪な運命が襲いかかりあなた方の美点を奪い去ってしまうだろう。

何であれ、あなた方の美点を見せびらかせば、
怒りと妬み、悪だくみが、革袋からあふれる水のように、
あなた方の頭上へ勢いよく注がれるだろう。

- そして嫉妬に燃える敵どもが、
あなた方をばらばらに引き裂いてしまうだろう。

あなた方が友人と思っていた者でさえ、
あなた方から全てを奪い取ろうとするだろう。

春という季節は再生の季節、芽吹きの季節だ。
だが不注意に過ごす者はそれに気付かず、
種蒔きに適した時期と、適さない時期の違いを弁えない。

神への感謝を身の守りとせよ。
神の慈悲こそはまたとない逃げ処、
捧げた感謝が千倍にもなって我らの許へと降り注ぐ。

あちらからこちらへ、こちらからあちらへ、
一体いくつの逃げ処を転々とし続けたのか。
ひとつでも、満足出来る居場所はあっただろうか。

神の慈悲を逃げ処と定めれば、
火も水も友となりこそすれ、敵にはならない。

ノアとモーゼを見るがいい、海は彼らの善き助け手となったではないか。
そして彼らの敵を、海はこの上なく無慈悲に滅ぼしたではないか。
アブラハムを見るがいい、火は彼の善き助け手となったではないか。

- そしてニムロードを見るがいい、
絶望のため息は黒々とした煙となって立ちこめ、
それでもなお燃え盛って彼の心臓を焦がし続けたではないか。

洗礼者ヨハネを見るがいい、
変貌の山は彼の善き助け手となったではないか。
彼を招いてその身を守り、岩のつぶてを次々と撃ち、
彼をつけ狙う敵を追い払ったではないか。

山は言ったではないか、 -
「ヨハネよ、こちらへ来い。私を逃げ処とせよ」と、
「おまえを狙う鋭い剣の切っ先から、私がおまえを守ろう」と。

商人とオウムは、一言、ふたことの言葉を交わした。商人がオウムの言葉をこれほど深く味わったのは、もしかするとこれが初めてであったかも知れない。その様子を見てとったオウムは、「さようなら」と別れの言葉を告げた。「さようなら、さようなら」、商人は応えた。

「もう行きなさい、神がいつでもおまえを守りますように!一度は死んだおまえに、神は新しい日々を授けて下さるだろう。たった今、おまえが私に新しい道を示してくれたのと同じように」。飛び立つオウムを見送りながら、商人はひとりごちた。「鳥かごから自由になったのはオウムだけではない。私もまた、古いものの考え方から自由になったのだ。

私も、あのオウムと同じ道を歩むとしよう。ものごとの、表面だけを見るのではなく、その奥の奥にある知恵をこそ見るように努めるとしよう - 知ってみれば、この道の何ときらきらと輝いていることか。オウムにものを教わるなどと、以前の私なら思いもよらなかっただろう。あんなに小さな鳥ですら、その魂はより善い道を求めるのだ。私の魂が、より善い道へと私を導きますように!」。

 


*14 コーラン55章29節。 「天地にあるものはすべて主に願い求める。主は日々あらたなるみわざをなしたもう。」