試訳:スーフィズムの本質

「スーフィズムの本質」
レイノルド A. ニコルソン

Essence of Sufism

“THE ESSENCE OF SUFISM”と題されたニコルソン教授の小論文、のようなもの、です。表紙含めて20ページにも満たない小冊子です。

スーフィズムに関心のあるひとなら、眺めればすぐに「ん?どこかで読んだことがあるような・・」となることでしょう。そうです。この小冊子、『イスラムの神秘主義―スーフィズム入門』という邦題で現在は平凡社ライブラリーから出版されているニコルソン教授の“The Mystics of Islam”と重複する箇所が沢山あるのです。重複というかほぼ要約のような感じです。とは言っても『イスラムの神秘主義』には見当たらない箇所もあったりしますし、何よりア○ゾンのマーケットプレイスで100ドル超の値段がついていたりする2011年9月現在のがしゃくだったので訳しました。

そのようなわけなので、『イスラムの神秘主義』を未読の方は是非そちらも併せて読んでみて頂きたいと思います。既読の方は「間違い探し」をしてみて下さい。

一点、注意喚起として指摘しておきます。文中にコーランの引用がありますが、章・節番号は(原文ママ)にしてあります。これは現在一般的に入手可能なコーランとは微妙にズれています。ニコルソン教授は19世紀末から20世紀初頭にかけての学者さんですが、これがいわゆるフリューゲル版というものか。


本稿において、私はイスラムの宗教的原理における重要な理論を提示する。またその例証として、スーフィー達の言葉を引用し彼ら自身に自らを語らしめることとする –– もちろん、アラビア語やペルシア語ではなく私の英訳を通してではあるが、訳出に際しては可能な限りの精確さを期しており、これが最も有益であると私は考えている。

とは言え、まず最初にスーフィズムについて、その意味するところや起源、歴史的展開、イスラムとの関係ならびにその一般的な性質について若干の説明を試みたい。これらの問題は比較宗教学研究者の興味の対象であるばかりではなく、こうした知識は誰であれ、スーフィズムそのものを真剣に学ぶ者にとり必要不可欠なものである。

全ての神秘体験が、究極的には一点に帰すると言われる。確かに、これは真実であると言えよう。しかしその一点は、神秘主義者の宗教や人種、気質によって大いに異なった様相を見せるだろうし、その一点に至る道筋はほとんど無限とも呼べる多様性を呈するだろう。すべからく偉大な神秘主義は何らかの共通性を有する。だが同時に、各々はその発生期や全盛期の歴史的背景、また宗教的環境などが生み出す独特の性質により特徴づけられている。キリスト教神秘主義がキリスト教と切り離しては理解不可能であるのと同じように、イスラム教神秘主義、すなわちスーフィズムはイスラム教の外面的・内面的展開との関連において考察されなくてはならない。

「スーフィー」という語はアラビア語で「羊毛」を意味するsufに由来し、最初に用いられたのは西暦800年頃である。当初はキリスト教の修道僧や隠遁者に倣い、悔悛と現世的虚栄を放棄したことの象徴として、羊毛製の祖末な衣を身にまとい禁欲生活を送るムスリムを指す語であった。ヨーロッパの学者達はその語源をギリシア語の「ソフォス」に求め、スーフィーと神智論者を同一視しようと試みた。またスーフィーたち自身はしばしば、「純正」を意味するアラビア語を語源とする解釈を好みもする。しかしこれらの説は世辞的でありこそすれ、言語学的な正確さからは最もかけ離れている。

記録によれば、最初期のスーフィーたちは熱狂的な篤信者であった。コーラン中に鮮やかに描写される最後の審判の日や、地獄の業火と懲罰に対する恐怖、またそれに結び合わされた圧倒的な罪障意識が –– 現代の私達には理解し難いことではあるが –– 彼らをして現世から逃避させ救済を求めさせた。また同時にコーランは彼らに対し、救済はアッラー、すなわち善人を正しく導き、悪人を堕落させる神の意志にのみ完全に委ねられると警告している。彼らの運命は、主の摂理を記した「永遠の碑」に書かれており、何ものもこれを変更することは出来ない。断食、礼拝、慈善の行為による救済が運命付けられているならば、彼らは救済されよう –– 確実なことはただそれのみである。このような信仰が静寂主義、すなわち神の意志に疑義を挟まぬ絶対的な服従の形態をとるのは当然の帰結であろう。そして最初期のスーフィズムの特徴は、まさしくこれに相当するのである。

スーフィーはコーランにおける特定の教義に並外れた重要性を付加した。大多数のムスリムたちが、それと同様に重要と考えるその他の教義を犠牲にしてその教義を発展させた。その点を除けばスーフィーと、熱心な保守派ムスリムとの相違は、従来それほど大きなものではなかった。やがて禁欲主義運動はキリスト教の掲げた理想の影響を受けたものであり、それは行動的・享楽的なイスラムの精神とは鋭く対立するものであることを認めなくてはならない時が来る。「イスラムに修道院は無い」(la rahbaniyyat fi ‘l-islam)という有名な言葉でも知られる通り、預言者は修道僧的な禁欲を非難し、彼の信者たちに対して、その生を不信仰者に対する聖戦(jihad)に捧げるよう説いた。そしてまた周知の通り、彼が結婚を奨励したことは疑う余地のない証言によって明白である。

イスラム暦3世紀/西暦9世紀を迎えると、スーフィズムは禁欲主義の段階を超えて決定的に神秘主義的になり、汎神論的信仰の方へと接近する。スーフィーたちが禁欲や清貧を誉れとする生活から退いたというのではない。しかしここに至って、彼らは禁欲生活を長い旅における最初の段階、禁欲主義では辿り着けぬより広大な精神的境地のための準備と訓練の段階としてのみとらえるようになった。

イスラム支配下における神秘主義の急速な発展は、この時代を取り巻く複数の状況によるものである。非常に重要な事実のひとつに、ヘレニズム思想、とりわけ新プラトン主義の影響がある。多くの哲学・神学上の著作が、ギリシア語から古代シリア語、古代シリア語からアラビア語へと翻訳された。例えば『アリストテレス神学』と題された訳書は、デュオニュシオス・アレオパギテスの著述と考えられている。しかし実際には、これはポルフュリオスとプロクロスによる新プラトン主義の見神論の書なのである。

6年前、私は王立アジア協会のジャーナル誌上に論文を発表した。研究の成果として、極端な汎神論的思想の最初の提唱者として看做されるペルシアの高名なスーフィー、バーヤズィード・ビスターミーが、おそらくインドから着想を得たと考えられるのに対し、スーフィズムの神智学的側面は、主にギリシア哲学理論の産物である旨を述べた。導き出した結論については今も撤回するものではない。最も多大な影響を及ぼしたのはギリシア哲学であるという主旨に変更はない。しかし現在の私はスーフィズムの発達について、以前よりも多くの言説を仏教との関連に割り当てるべきだと考えるようになっている。

コーランを基盤とした宗教がこの新しい体系を許容し、ましてやそれと同意に至るなどということがどうして可能であったのかを疑問視する向きもあるだろう。被創造物から隔絶した超越的存在として崇拝されるアッラーという人格的対象と、生命の根源として宇宙に偏在する真理といった非人格的対象との調和など、明らかに不可能であるようにも考えられる。しかしイスラムはスーフィズムを受容した。スーフィーたちは破門されることも無く、むしろムスリム共同体の内部に確固とした地位を築いた。ムスリム聖者たちの伝説群は、東洋的汎神論における最も激越な表出の記録である。

ここでコーランを再読してみよう。イスラムにおけるあらゆる理論と実践の絶対確実な試金石であるコーランの中に、神秘主義の萌芽を見出すことは可能だろうか?コーランは、すでに指摘した通り唯一かつ永遠の、人間の感情や願望をはるかに超越した全能の神であるアッラーという概念を出発点としている。アッラーは子供に対する父ではなく、奴隷に対する主人である。厳格な正義を以て罪人を処断し、その慈悲は献身と悔悟、間断無き信仰によって主の怒りを避けた人々にのみ向けられる。愛よりも、むしろ畏怖の神である。これはムハンマドの教えの一面ではあるが、しかし最も顕著な一面であるのは疑う余地がない。

しかし世界とアッラーとの間に超えられない一線を画する一方で、彼のいっそう奥深い直観は、神から魂への直接的な啓示を切望してもいた。神を遠くにもまた近くにも感じ、外在であると同時に内在であるとするのは、神秘家の論理にあっては何の矛盾もなく併存する。時を経るにつれアッラーは天地の光であり、外在する世界と内在する精神の双方に働きかける存在として描写されるようになってゆく。以下、コーランから引用する:

「われについて、わがしもべたちが汝に尋ねるとき、われはすぐ近くにいる」
(コーラン2章182節)

「われは人間の頸動脈よりも人間に近い」
(コーラン50章15節)

「地上は、真に信じる者へのしるしに満ちている。汝らの中にもある。それでも、汝らは見ないのか」
(コーラン51章20、21節)

彼らが「見る」までには長い時間を要した。やがて訪れる恐るべき怒りの終末という未来像は、絶えずつきまとって離れることが無かった。そうした意識からの解放という思想の重要性に、ムスリムたちは時間をかけて覚醒したのである。それは苦痛を伴う作業でもあった。

私が引用した語句は単独で孤立するものではない。そしてこうした語句が、イスラムにおける神秘主義的解釈の基礎となっているという理解は、多数の同意を得られるものと私は考えている。スーフィーたちは彼らの解釈を、詳細に渡って構築した。彼らは、フィロンがモーセ五書を扱うのと酷似した手法でコーランに接した。

だがそれ以上に闘争的な保守派ムスリムたちが、スコラ哲学的制度と体系を組織し始め、「神聖なるもの」を純然たる形式の中に押し込め、変化を避け、絶対的な統一を強要し、あらゆる温情や感情を排除した意志そのものとし、人間という被創造物にはささやかな交わりも親密な関わりも不可能な、圧倒的で計り知れない権力にしてしまうことが無かったならばスーフィーたちも、信心深い大多数のムスリム民衆をこれほどまで完璧に彼らの側に引きつけることは不可能だっただろう。しかしそれこそがイスラム神学における神であり、これに代替するものはスーフィズムの他には無かったのである。そこで本主題に関する、西欧における最高の権威の一人であるD. B. マクドナルド教授は、次のように述べている。「思慮深く宗教的なムスリムは、誰もが神秘家である」。更に「また誰もが汎神論者である。しかしそれに気付かない者もいる」、と付け加えている。

ここまで私は、不完全ながらもスーフィズムとイスラムの歴史的関係の概略を説明した。それを踏まえ、私はここでより大きな主題に取りかかろうと思う。スーフィズムとは何か?スーフィーを構成する条件とは何だろうか?

言うまでもなくこの質問に対しては、多くのスーフィーたちが断定的な解答を述べている。「スーフィー」、アラビア語で「タサッウフ」という語については、彼らの著作群の中に数えきれないほどの定義を見出せる。しかしその始めから終わりまで、全体にくまなく眼を通したところで、得られる理解はごく些細なものに過ぎないと断言できる。

ジャラールッディーン・ルーミーの著作『マスナヴィー』の中に、あるインド人が真っ暗な見世物小屋で象を見せたという話がある。多くの人々がそれを見るために集まったが、小屋は象を見るにはあまりにも暗かった。そこでそれがどのようなものかを知るために、彼らは自分の手でそれに触れてみることにした。ある者は鼻に触れ、この獣は水道管のようだと言った。ある者は耳に触れ、これは大きな扇に違いないと言った。またある者は脚に触れ、これは柱に違いないと言った。また別のある者は背に触れ、象とは巨大な王座のようだと言った。スーフィズムを定義しようと試みる人々もこれと同様で、彼らは自分がどう感じたかを表現する以上のことは出来ない。そして個人の、私的かつ直接的な宗教的経験にまつわるあらゆるニュアンスを網羅する方法など、創案しようにも不可能なのである。

スーフィーはセクトではない。彼らはドグマ的な組織を持たない。同じひとつの家族を構成する者としての類似点ならば、彼ら全員に見出せるだろう。だが彼らが神を探求する道、あるいは「タリーカ」は、決して同一ではない。そこで私は、スーフィズムの本質について執筆するならば、その前景として完全に成熟した型を示すのが適しており、また目的を充分に果たせるとも考えた。私が選んだ型とは、ペルシアの偉大な神秘詩人の作品に見受けられるものである。

ヨーロッパの読者たちに対し、これほど感動的に訴えるものは他にない。文学的洗練と歓喜、光輝といった感情の自然な発露が詩の中に融合している。スーフィズムの深奥を学びたいと望むなら、もはや神学的論文に煩わされる必要も、形而上学的な曖昧さによって不明瞭にされる必要もない。これらの素晴らしい頌詩を翻訳すれば、その韻律は破壊され、昇華の情熱を地に落とすことになってしまう。しかし彼らを鼓吹した真理探求への愛や、美に関する洞察は、たとえ散文調の訳出というヴェイルを通してであってさえも、完全に覆い隠せるものではない。

スーフィズムの第一原理とは「タウヒード」すなわち「神的統一」であり、これはイスラム教そのものである。ムスリムもスーフィーも、同じように神の唯一性を宣言する。しかし宣言の帯びる意味合いは各々の立場によって異なる。ムスリムは、神はその本質、属性、行為において比類無く、その他全ての存在とは絶対的に異なる、と言う。スーフィーは、神は唯一の実存的存在であり、全ての現象の根底にある、と言う。この主張は、やがて非常に極端な結論へと至ることになるのだが、それについてはこれから検討してゆくとしよう。

さて、神以外に何ものも存在しないとするならば、人間を含む宇宙の万物は、神的統一の原理を損ねること無く本質的には神と一体であるということになる。それは例えば太陽が光線を放つように、神を中心に発せられる放射のようなものなのか、あるいはまた神の属性を反射させる鏡のようなものなのか。いずれの説明にしても不可解なのは、万物と一体であり、万物に内在する神が自らを出現させる理由は何なのか –– なぜ「一」が再び「多」へと移行しなければならないのか?

スーフィーたちは、かの有名な伝承を引用することによって –– 哲学者なら、彼らは難問から逃避しているだけだ、と非難するところだろう –– この問いに答える:「われは隠れた財宝であった。われは知られることを欲し、そのために天地を創造した」。言いかえると神は永遠の美であり、愛を欲するのが美の生来の本質なのだ、ということになる。

一なるものの自己開示というこの主題を、神秘詩人たちは華麗なイメージを豊富に用いて飾り立てている。例として、ジャーミーを挙げよう:

見られぬことの孤独から、永遠の『愛する者』は
ヴェイルを取り除き美をあらわにした

鏡を取り上げて自らのかんばせを映すと、
鏡の中に自らの美を映し出された

かれは『見る者』であると同時に『見られる者』、
かれの眼の他には宇宙を見渡す眼も無い

あまねくすべてが<一>であり二元性も無く、
「我」と「汝」の隔ても無かった

無数が往来する天空の巨大な軌道も、
<一>の点に隠された

創造は揺りかごに揺られて非存在の眠りの中、
息する前の赤子のよう

『愛する者』の眼が非存在を捉え、
やがて非存在の裡に存在を見出した

かれは自らの属性と性質が、
完璧にかれの精髄とひとつになっているのを知っていた

それでもかれは、
それらが別々の鏡に映し出されることを欲した

かれの有する永遠の属性の、
ひとつひとつを異なる姿で顕すことを望んだ

そこでかれは、
青く輝く草原を創造し時間と空間の柵で囲んだ

それを世界と名付けられ、
生命を与える庭園となった

ありとあらゆる枝と葉、果実は、
自らの多様性をもってかれの完璧さをあらわにした

糸杉はかれの疵なき美を伝える暗喩となり、
薔薇はかれの麗しいかんばせについてささやいた

美がこっそりと顔を覗かせれば、
そこにはいつでも愛が寄り添っていた

愛が自らの炎で松明を灯せば、
美のかんばせは薔薇のように輝くのだった

美が黒髪を住処と定めればそこにはいつでも愛が寄り添い、
心は巻き毛に絡めとられた

美と愛はまるで体と魂のようなもの、
美が鉱脈ならば愛はその宝石

原初の頃からいつも共にあり、
互いから離れて旅をすることもなかった

別の著述においてジャーミーは、神と世界の関係についてより哲学的な語彙で以下のように語っている。

真実在(al-haqq)とは、どのような現象も限界も、また多性も拒絶する唯一の絶対者を指す。その一方で多性、複数性の様相から見れば、創造された宇宙の万象全体は、かれが現象性をまとって出現した姿そのものである。従って宇宙とは、外側に向けて発せられた真実在の表現であり、同時に真実在とは、宇宙の内側にある不可視の現実なのである。外在として宇宙が可視化される以前には、真実在は宇宙と不可分であった。そしてこの進化を経て以降は、真実在は宇宙と分かち難く同一である。

灯した松明を高速で回転させると、灯火はあたかも円のように見える。同じように、現象界そのものの本性は非実在であり、それは諸感覚が見せる単なる幻想に過ぎない。

万物創造の最高かつ最終の目的因は人間である。人間は、創造の順序においては最後にあたるが、神的思考の過程においては最初にあたる。人間の本質は、神格がじかに放出した原初的知性、もしくは普遍的理性であるからだ。それはロゴス –– 万物の原理に生命を吹きこむとされる –– に相当しており、預言者ムハンマドと同一視される。ここでキリスト教徒とスーフィーの教義の間に、興味深いパラレルの存在が見出せるだろう。聖ヨハネや聖パウロ、また彼ら以降の神秘主義神学者達がキリストについて用いたのと同様の表現が、イスラム教の創始者についても用いられているのである。

例えば、ムハンマドは「神の光」とも呼ばれ、万物創造よりも前から存在したとさえ言われ、既存・未存を問わずあらゆる生の根源として敬慕されている。彼は神の属性の全てが顕現された「完全なる人間」なのである。スーフィーの伝承によれば、彼は「私を見た者はアッラーを見たのである」と語ったと言われる。しかしムスリムの理論体系においては、ロゴスなる教義が占める位置は従属的なものに過ぎない。人間に課せられた義務の全てが、神の唯一性を受け入れ、神的統一を理解することにあると信じられている以上、それが当然であるとされねばならない。

ヨーロッパの神秘主義に対する東洋の神秘主義の、際立って示唆に富む特徴とは、個性と名のつくあらゆるものが跡形も無く消滅され切ってしまうほどの統一意識の広さ、深さであろう。スーフィーが目指しているのは、神「のよう」になることでも無ければ、「個我として」神的意識に加わることでも無い。非実在たる「個我」の束縛から解き放たれることにより、唯一かつ無限の実在と再び結び合わされることなのだ。ここで私は、最初期のスーフィーであり詩人でもあったシーラーズのバーバー・クーヒー(西暦1050年没)による頌詩の翻訳を引用したい。

市場に、回廊に、 –– 私は神のみを見た
山に、谷に –– 私は神のみを見た
苦難と共にあるとき、私はいつでもかれを傍に見た
喜びと共に、幸せと共に –– 私は神のみを見た
礼拝と断食に、崇拝と熟考に –– 私は神のみを見た
魂も体もなく、偶然も必然もなく、因も果もなく –– 私は神のみを見た
私が目を開くと、主の御顔の光が私を取り巻いていた
目に映るもの全てに –– 私は神のみを見た
かれの炎の中で、私はろうそくのように溶けた
燃え盛る炎の中に、 –– 私は神のみを見た
私が私の目で見れば、 –– 私は私のみを見た
けれど神の目で見れば、 –– 私は神のみを見た
私は私を消し去り、やがては無へと帰りつく
すると、見よ、私は終わりなき生であった  –– 私は神のみを見た

西洋的な自己主義を重んじる立場からすれば奇妙に見えるかもしれない。だが現に、墓の向こう側で死後も生前と同じく「個人的な生活」が続くとする思想は、最も熱心な信者を熱狂へと駆り立てている。それと同様に、スーフィーを勝利の祝祭にも似た興奮に駆り立てているのは、人間の魂が個を捨てることによって個を超越し、普遍と不滅とを分かち合えるようになるとする展望なのだ。ジャラールッディーン・ルーミーは、物質的世界における人間の進化を振り返り、その延長線上に精神的世界における更なる進化を、希望を込めて予言する。それから彼は、心からの祈りを捧げる –– しかし何のために? –– 至高至大なる海原への回帰、自己消滅のために、である。

私は鉱物として死に、植物となった。
私は植物として死に、動物となった。
私は動物として死に、人間となった。
どうして恐れることなどあるだろう、
かつて死によって失ったものもない。
それでも私は、人間として再び死ぬ。
その時は天使となって空高く飛ぼう。
だがさらなる次の階梯を目指すなら、
私は天使の姿をも脱ぎ捨てるだろう。
そして私は想像もつかぬものとなる。
最後には全て消滅し、残るは神のみ。
無となった私に、オルガンが告げる、
「われわれはなべて神へと還りゆく」

スーフィズムには、一種のニルヴァーナともとれる「ファナー」と呼ばれる概念がある。語義的には「入寂」「消滅」といった意味だが、詳細を語る前に、これを達成するための準備について触れておこう。

精神生活の向上について、あらゆる人種や宗教の神秘主義者達はそれを「旅」あるいは「巡礼」と形容する。同様の目的を形容するのに、他にも様々な象徴が用いられてきたが、これに関してはほぼ全世界的に共通していると言っても過言ではないだろう。神の探求を志すスーフィーは、自らを「旅行者」(salik)と名乗る。そして「真実在の中へ消滅する」(fana fi’l-haqq)という到達点に続く長い「道」(tariqa)を、「階梯」(maqamat)に沿ってゆっくりと進む。もしも旅行者が、この内的上昇を描いた地図を敢えて作成したとしよう。彼以前の、あるいは彼以外の旅行者の地図と彼の地図は、必ずしも一致するものにはならないだろう。

そうした「完成の度合」を計測する地図めいたものは、スーフィズム初期の導師たちによって念入りに作成された。加えて幸か不幸か、何もかもを体系立てずにはおれないムスリムたちの生真面目な習慣が、これについての厖大な裏作を生じせしめた。スーフィズムに関する最も古いアラビア語の論文である「閃光の書」(kitab al-Luma)の著者は、「道」についてこう記している:

道とは、

(1)悔悟
(2)節制
(3)放棄
(4)清貧
(5)忍耐
(6)敬神
(7)充足

以上七つの「階梯」から成り立っており、それぞれが(一番最初の階梯を除けば)ひとつ前の「階梯」の結果である。

これらの「階梯」はスーフィーたちの倫理規範を構成するものであり、これといわゆる「状態」(ahwal、halの複数形)とは、慎重に区別されねばならないだろう。双方は類似するが、「階梯」が行為規範であるのに対し、「状態」は心理的変容の連鎖を示したものである。たとえば前述の著者は「瞑想」「(神への)接近」「愛情」「恐怖」「希望」「敬慕」「親密」「静寂」「熟考」そして「確信」を、十の「状態」として列挙している。「階梯」が、自身の努力によって獲得・理解が可能であるのに対し、「状態」は、自身では制御不可能な霊的経験や傾向を示している。「それらは、神の御許からじかに心に送り届けられる。やって来るそれを拒否することも、去っていくそれを引きとめることも出来ない」。

スーフィーの「道」は、「階梯」にふさわしく自らを鍛えて次の「階梯」へ進むといった具合に全ての「階梯」を通過し、またどのような「状態」が授けられようとも喜びと共にそれを経験し、神のご満悦を望み、実際に神が彼に満悦するまでは完成しない。完成して、そこで初めてスーフィーが「真実」(haqiqat)と呼ぶ、より高い意識の階梯へ引き上げられ、以降は永遠にそこに留まるのである。その階梯では、神的統一の秘密が見る者の目に開示される。「探求者」(talib)は、これを以て「知者」または「覚者」(arif)となる。

ここまでで私は、スーフィーたちがその目的を達成するプロセスのいわば外的な概略を可能な限り簡潔に描いた。ここからは、内的な面での働きについて若干申し述べることにする。もちろん私に出来ることなど、私自身が特に重要だと考える2,3の点について指摘するだけに過ぎない。

「階梯」について記されたあらゆるリストの、最初の項目は「悔悟」(tawbat)で占められている。ムスリムの語法では「回心」を意味し、新しい生が始まる転換点を示すものである。一般の信者にとり、「悔悟」とは犯した罪を改悛することを指す。スーフィーの場合は、神を忘れて過ごした日々を「悔悟」する。そして全身全霊を傾け、字義通り「再び神を振り返る」のである。慣習的に、回心し新たに入門者となったムスリムは、シャイフ(Shaykh)と呼ばれる精神的導師に最大限の敬意を払い、甘んじてその指導に自らを委ねる。フジュウィーリーは以下のように語っている:

スーフィーのシャイフ達が従う規範とは次の通りである。現世を捨てる目的で新たな入門者が彼らの許へやってきたとしよう。最初に、彼らは入門者に三年間の精神的修行を課す。修行の成果を、入門者が充分身に付けることが出来たならそれで良い。だがそうでない場合、彼らは入門者に『道』に入ることは許されないと告げる。

最初の一年は人に奉仕することが求められる。二年目は神に奉仕することが求められる。そして三年目は、自分の心を見張ることが求められる。人々に対して真の奉仕が出来る者とは、自分を下僕とみなし、自分以外の人々を主人とみなすことが出来る者だけである。すなわち、どのような場合においても自分を除く全てを優れたものとみなし、分け隔てなく奉仕することが自分の義務であると考えるようにならなくてはならない。また神に対し真の奉仕が出来る者とは、何の打算も意図も無く、神が神であるがゆえにのみ祈る者だけである。現世や来世における利益を求めて祈る者とは、神ではなく自分に対して祈る者である。そうした利己的な欲望を捨て、神に向き合うがために祈る者だけが、神に仕えることが出来る。

最後に、何の迷いも憂いもない者のみが、自分の心を見張ることが出来る。神との交わりが邪魔されないよう、不注意によって生じる思いがけない攻撃から心を防衛しなくてはならない。そのためにも、思考を集中させ心配を取り除く必要がある。

このように、これらの条件を入門者が満たすことが出来たなら、彼は単なる模倣者ではなく、本物の神秘主義者の証として、「ムラッカア」(muraqqa’a)と呼ばれる修行者たちが身につけるつぎはぎの外衣を与えられることになるだろう。

こうした禁欲的な修行については、その詳細をくどくどしく語る必要は無いと私は考える。食事を断ち睡眠を断ち、沈黙を誓い、孤独を守り、昼夜を問わず瞑想し、俗世との関係の全てを切り捨て、清貧の精神に従い努力する –– 「外敵との聖戦よりも困難であり、それゆえに賞賛に値する」と預言者が断言した内敵との聖戦のための、これらは武器であり戦術である。もたらされる結果を価値判断という名の善悪の秤にかけ、取り返しのつかない重大な虐待であるかのように語ったり、あるいは反対に、気高く崇高な理想であるかのように語ったりすることに割く時間を私は持ち合わせていない。

だがひとつだけ触れておこう。スーフィーの修行の中で、積極的要素を持ち合わせ、「ファナー」の論理に直接の関わりがあるだけではなく、ムスリムの神秘主義者たちが宗教実践の要石と認めるもの、「ズィクル」(dhikr)についてである。エドワード・レイン『近代のエジプト人』や、最近出版されたD. B. マクドナルド教授『イスラム教の側面』といった、細心の注意が払われた著述を通じて西欧読者にもすでに馴染みとなった修行である。

「ズィクル」とは「(口に出して)言う」、「記憶する」、あるいは単に「想起する」などを意味している。コーランにおいて信仰者たちは、「何度でも繰り返し神を思え」と命ぜられている。これ自体には特に神秘主義的なところはなく、単なる崇拝行為の推奨である。しかし初期のスーフィーたちは、これを神の名や宗教的文言 –– 例えば「神に賞賛あれ」(Subhan Allah)、「神以外に神は無し」(La illaha illa Allah)といった定型句 –– を繰り返し唱えるという修行へと発展させた。ひとつひとつの語に全感覚を傾け、神経を集中させて機械的なイントネーションと共に反復し続ける。このズィクルという修行とその影響に関するガッザーリーの記述を、マクドナルド教授が以下のように要約している:

存在するものもしないものも、自分にとり全ては等しく同じことであるという境地にまで心の活動の状態を引き下ろさなくてはならない。それから、どこかふさわしい一隅に一人坐す。孤独を守り、宗教実践も必要最低限に留めなくてはならない。コーランを復唱したり、その意味について考えたりすることは厳禁である。宗教に関わる学問書や伝承の書などを読んでもいけない。そうした類いのことに心奪われるのを避けなくてはならないのである。

至高の神以外の何かが、彼の精神に入り込んでこないよう注意深く見張らなくてはならない。その上で、一人坐したまま神の名を唱える。舌が繰り返し「アッラー、アッラー」と唱え続けることだけに集中する。やがて舌を動かしているという感覚は消え、語が勝手に流れ出てくるかのような状態に至るだろう。舌の運動感覚の痕跡が全て消えるまで続けさせなくてはならない。そうすれば、心が思考にしがみついていることに気づくだろう。語の外側、すなわち文字やその形状といったものが全て消えるまで続けさせなくてはならない。やがて全てが消え去った後に、語の持つイデアのみがしがみつくように、沁み込むようにして心に残っていることに気づくだろう。

それまで、行為の全ては自分の意志と選択によるものだと考えていた。しかし神の慈悲を得られるか否かは、自分の意志や選択ではどうにもならないことなのだ。その慈悲の息吹の中に裸で横たわっている今となっては、かつての預言者たちや聖者たちがそうであったのと同じように、もはや神の開示を待つ他にすべきことは何一つ残っていない。

別のあるスーフィーは、この主題を下記の一文に要約している:

ズィクルの最初の段階とは、自らを忘却することである。ズィクルの最後の段階とは、礼拝の際に礼拝行為をする自らを忘却し、礼拝行為を意識することもなく礼拝の対象に没入することである。このように没入する者は、礼拝する自分に再び戻らず永遠に没入することになる。これを「消滅からの消滅」(fana al-fana).と呼ぶ。

今の引用は、ニルヴァーナを目指したブッダの八道説と多くの点で類似しているように思われる。スーフィズムの理論と実践が、少なからぬ範囲に渡り仏教の影響を受けていることは、誰であれその論拠を研究した者ならば決して否定出来るものではない。ニルヴァーナとファナーの歴史的な接続点については未だ推測の域を出るものではないが、しかし大いにあり得ることではある。

更に付け加えるならば、スーフィズムが採用した実践方法は、倫理的自己啓発、禁欲的瞑想、知的な抽象概念の体系である限りにおいて、その多くを仏教に負っている。しかしこれら二つの宗教体系に共通する特徴は、むしろ双方の根本的な違いを強調するものである。その真髄において、これら二つの宗教は全く両極端に位置している。仏教徒は自分で自分を教化する。スーフィーは神を知り、神を愛することを通してのみ自らを教化し得るのである。

では人は、どのようにして神に関する知識を得るのだろうか?神は物質ではない。従って感覚でとらえることは出来ない。神は不可知である。従って知性でとらえることも出来ない。演繹や帰納をもってしても、神は論理をやすやすと超える。議論は何の証明にもならない。書物によって学ばれた学問は自惚れ以外の何ものも育てず、虚しい言葉の雲は真理の思考を覆い隠してしまう。ルーミーは推論を弄ぶばかりの神学者たちに宛てて、憐れむようにこう問いかける ––

呼応するものが何もない名前を知っているか?
きみは「ば」「ら」という文字から薔薇を摘んだことがあるか?
きみはその名前を知ってはいるだろう、だがそれだけで、
本当に「薔薇」を「知っている」などと言えるのか?
きみは神にまで名前をつける。ならば行って、その実体を探せ!
名前の背後に何が隠されているのかを探すといい。
月はいつでも空にある、水面に映るのはただの影に過ぎない。
きみはきみの心ひとつを信じて行け、
全ての偏見、全ての誤解、全ての常識からきみ自身を無垢にして。
きみの心の中には、全ての知識がすでに用意されている。
それを信じて進め、書物を捨てて、理解を捨てて、学んだ全てを捨てて。

この知識をもたらすものは照明と啓示、そして直観である。「汝の心の内を見つめよ」、スーフィーは言う、「神の国は汝の心の内にこそある」。

神を知る者とは、真に自分を知る者である。何故なら人の魂こそは、あらゆる神性を映し出す鏡だからだ。しかし錆の浮いた鋼の鏡が反射する力を失うように、執着や情欲、悪癖といった現象的自我の暗闇に覆われている間は、スーフィーたちが「心の眼」と呼ぶ内的・霊的な感覚は、天の光輝を感知出来ず見ることも出来ない。この覆いを取り除き、この暗闇を浄化するのは、ただ神の御業のみである。だがそれが効果的になされるためには、人間の側にもある種の内的な恊働作業が求められるだろう。

徹底した服従と完全な静寂主義の中に沈むことをよしとする人々は、今一度「神を信じ、駱駝を繋げ」という預言者の言葉を思い出す必要がある。行為とは、それが自分自身から生じたものだと考えるならば過誤であり自惚れに過ぎなくなる。しかし覚醒したスーフィーは、神こそはあらゆる行為の真の行為者であると考える。従って慈善の行為を自慢することもなければ、善行の報いを欲することもない。彼は祈り、善を為し、慎み、耐える。神の慈愛と慈悲がもたらした倫理的な変容が、彼の内側から外側へ向けて開花したのである。



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