ハールートとマールート

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

ハールートとマールート

ハールートとマールート、双子の天使。地上のヒトと親しく交わることを望み、そしてたちまちのうちに誘惑に溺れ堕落してしまった。彼らは自らの汚れの無さを恃みとしたが、それが神の怒りを招く元凶となり、双子の天使は毒の矢で射られることとなった。清純さを誇るというのは傲慢なことである。彼らは自らの神聖さに信を置いていた。

しかしそれが何の役に立ったろうか。水牛がライオンに信を置いたところで、それが何の護りとなるだろうか。角を恃みに、百回避けようが二百回避けようが無駄なことだ。ひとたび仕留めると決めたなら、獰猛なライオンは必ずや水牛を仕留めて八つ裂きにするだろう。たとえハリネズミのように、体中に角を生やしたところで同じことだ。水牛は避けようもなくライオンに命を奪われるだろう。

しかし見よ。冷たいサルサラの風(コーラン69章6節)が、木々を根こそぎなぎ倒してゆく時、なぎ倒される木々の葉の、一枚一枚がきらきらと美しく輝くのを。暴れ狂う風が、葉のもろさ、はかなさを憐れんでいるのを - 強くある必要はないし、強く見せようとする必要もないのだ。

愛しいひとよ、私の心よ、どうかありのままであっておくれ。強がりの嘘は本当に、本当に無駄なことだ。木の枝がどれほど太かろうと、どうして斧が怯むだろうか。斧は枝を切るために作られたもの、太かろうが細かろうが、斧の前にあっては、枝は切られて立ち割られるのが必定。

しかし斧は、葉を痛めつけることはしない。斧がその刃を向ける相手は、斧と同じように固く、斧に立ち向かってくるものだけだ。薪がどれほど多かろうとも、薪を燃やす炎が気に留めもしないだろう。羊の群れがどれほど大きかろうとも、肉屋が恐れをなすことなど無いだろう。

真の実在の前にあっては、現象はもろくはかないものだ。天を見よ、空中に逆さまに吊られた杯のごとき天を - 天の車輪の譬え話を思い出せ。生起しては消滅するこの現象なるもの、一体どこから来て、どこへ還りゆくのだろうか。

それは森羅万象を制御する、ひとつの知性より来るのである。鎧のようなこの身体の動作ひとつひとつが、ヴェイルに隠された精神から来るのである。あの風はどこから吹くのか? - 吹く風に眼を奪われるな。風を吹かせる実在をこそ見よ。廻る水車に眼を奪われるな。水車を廻す水の流れをこそ見よ。

この胸、息を吸えば高く膨らみ、息を吐けば低く沈む - その繰り返し。絶え間なく繰り返すこの呼吸も、それを欲する精神以外の、何の働きがあってのことだと言うのか。そして私達に呼吸せしめるこの精神の働きが、発する言葉の一音づつを決めもする。J(ジーム)、H(ハー)、そしてD(ダール) -

呼吸のひとつひとつからして、既に「JIHAD(ジハード)」が始まっている。呼吸のひとつひとつが、ある時は私達に平安をもたらし、またある時は私達に争乱をもたらしているのである。

私達を統べる神の呼吸はどのようであろうか - 神の呼吸は、時として竜のようなサルサラの烈風となり、アードの民を滅ぼしもする。あるいはまた時として穏やかな守護のそよ風となり、信じる者に安寧をもたらしもする。

「神とは実在と見たり」、宗教を知るシャイフは言う。創造の主、真実の根源 精神の海 - 天と地に刻みつけられるあらゆる現象の軌跡は、この海に浮きつ沈みつする藁くずに過ぎぬ。藁くずが急に押し流されるのも、あるいは揺れてゆっくりと漂うのも、全ては水の流れがさせていること。

海がそうと望めば、藁くずは波間から岸辺へと流れつき束の間の休息を得よう。海がそうと望めば、サルサラの風が再び藁くずを岸辺から波間へとさらって行く - こうして海を眺めていると、時はあっと言う間に過ぎ去ってしまう。さて、ハールートとマールートの話に戻るとしようか。


天の高みから、ハールートとマールートは地上を見下ろしていた。地上の人々の罪と不正が、天の窓格子越しにもはっきりと彼ら二人の目に見えた。怒りのあまり、二人はがりがりと自分の手を齧った。しかし彼ら二人には、自らの過誤を見る目は無かったのである。

醜い男は鏡を見て自分自身に出会う。だがすぐさま自分自身から目を背け、あらぬ方角に向けて怒りをまき散らし始める。誰であれ、自惚れた高慢な者というのはまさにこれだ。いつでもどこでも、知らぬ誰かが犯した罪を決して見逃すことがない。

思い上がった者達は、誰かが過ちを犯したとみるや、たちまち自分の中に地獄の炎を引き入れてめらめらと燃やし始める。燃えているのは断じて敬虔な宗教心などではない。宗教に関する地獄のごとく凄まじい優越心だ。そのようにして地獄の炎を吹き上げるとき、自分自身の傲慢さはもはや眼中に入らない。

宗教の守護には、かように二つの異なる様相がある - ひとつめには、このように燃え盛る地獄の炎の赤い色。そしてふたつめには、何もかもを燃やし尽くす地獄の炎からさえも、世界の全てを守護せんと瑞々しく光る緑の色。「汝ら、地上の者達を嘲笑するな」、神は彼ら二人に言いたもうた。

「忘れたのか、あれらの者達には汝らには与えなかったものを与えてあるのだ。昏い意図をもって行なう者達に目を奪われ、われを忘れることのないように。天の住人として創られ、われに仕えることを感謝するがいい。われは汝らに我欲、情欲を与えなかった - それで汝らは、欲望から自由でいられるのだ。それで汝らは、こうして天に住まうことも出来るのだ。

汝らが罪を犯さずにいられるのは汝らの手柄ではない。われが汝らをそのように創造したまでのこと。汝らとて、明日にも地上に行き地上の者と交われば、たちまちのうちにわれを忘れるだろう。心せよ!汝らはわれの声に耳を傾けよ。それとも汝らは、かつての汝らの同輩、呪われたイブリースの声に耳を傾けようとでもいうのか」。

預言者に下された啓示を、書き留めたあの書記もこのようであった。啓示に込められた知恵を、原初の光を、あたかも自らの内側にある自らの所有のように思い込んだのである。自らを神の子飼いの鳥であるかのようにみなし、神に近しい者であるかのようにみなし、神の歌を歌う者であるかのようにみなした。

- しかし実際には、彼は山々のこだまに過ぎなかったのだ。鳥撃ちは鳥の歌声を真似て鳥をおびきよせる。歌声だけならば、その声音だけならば、盗み取って真似るのはたやすいことだ。しかし一体、どこの誰が、鳥の歌に込められた真の意味を知るだろうか?

夜の庭にナイチンゲールが鳴いているのが聞こえる。だがナイチンゲールの鳴く声を聞こうとも、その歌の音色を盗み取ろうとも、一体どこの誰が、ナイチンゲールが薔薇に抱く恋慕の深さまでをも知り抜いていると言えるだろうか。

そしてもしもそれらの秘密を知ろうという者があったならば、覚えておけ - それはあたかも耳の聞こえぬ者が唇の動きを読み取るような、実に繊細な作業であることを。類推の縦糸と、憶測の横糸とを織り合わせた、頼りない透かしの織物に過ぎないということを。