カリフとライラ

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

カリフとライラ

カリフがライラを見て言った、「おまえがマジュヌーンを狂わせ、道を踏み外させたあのライラか?数多の美女達と比べても、おまえが格別優れているというわけでもないが」。「お黙りなさい、」ライラは答えた。「あなたはマジュヌーンではありませぬ」。

(外 的世界に対して)目覚める者ほど、(内的世界に対して)より眠るもの。そうであれば、目覚めていることは眠るよりなお劣る。我らの魂が神に目覚めぬ間は、 目を開けて眠らずにいるのは、目覚めを拒否し扉を閉ざすようなもの。日がな一日中、空想に耽り損得を勘定し、衰亡に怯えるばかり。魂のための歓びも、優し さも誇りも、天空を目指して旅をする手立てもない。

眠れる者、それはありとあらゆる虚しい空想に希望を託して、それらを相手に語り続ける者である。悪魔でさえ、眠る様子は楽園に住まう清らかな乙女のよう。だが次の瞬間には激しい欲望を浴びせかけてくる。

塩気の強い大地に種を蒔いても芽は出ない。その場に執着してみたところで、泥に塗れて汚れるばかりだ。嘆くな、胸を痛めるな。見ているそれは幻。幻を見せるその視覚さえも「視覚」ではない。

鳥 は空高く飛翔する。地上に落とされたその影も、飛ぶ鳥と同じ速さで通り過ぎる。愚か者はその影を追って走る。あまりに遠くまで走って、ついには力尽きてし まう。それが空中を飛翔する鳥の反射であるとも知らず、影の根源がどこにあるかも知らない。影に向って矢を放ち、探しまわるうちにやがて矢を使い果たし、 矢筒は空になる。彼の生命の矢筒が空になったのだ。夢中で影を追い回す間にも、人生は過ぎ去っていったのだ。

追っていたのが、神の御影で あったならば。神の御影は彼の乳母となり、あらゆる錯覚と幻影から彼を守るだろう。神の御影とはすなわち神の従僕。現世を通さず、神を通していのちを生き る者。臆することなくその衣の裾を掴め。この世の終末の日に、その裾にあなたが守られてあるように。「神の御影」というコトバを用いて影を引き延ばすそ れ、それは聖なる太陽の光へと導く聖者達の姿だ。

案内する者なしに、この谷に入ってはならない。خليل(ハリール:友。預言者アブラハム を指す)が語ったように語れ、「私は沈むものを好まない」、と。行け、影を追って影から太陽を得よ。タブリーズの太陽、精神の王たるお人の裾にすがりつ け!この饗宴、この婚礼へ至る道を知らぬと言うのなら、ضياء الحق(ズィヤーゥ・ル・ハック:真理の光輝)たるフサームッディーンに尋ねよ!

そしてもしもこの道の途中で、妬みがその喉を捕えるのなら。度を越した妬みこそはイブリース(堕天使、悪魔)の特性であることを知れ。彼が天より墜落したのも、まさしくアダムを妬み軽蔑しようと試みたため。妬みゆえに、至福に戦いを挑む。

この道を歩む途上において、これほどの難所は他に無い。妬みを道連れにせずに済む人の、なんと幸運なことだろうか。この肉体、これこそが妬みの棲み処と知れ。見よ、そこに住まう同胞ですら妬みに染まっているのを。

肉 体は妬みの棲み処。 - とは言えそもそもその肉体を、神は極めて清く創られたのだ、我が友よ。「我が家を浄めよ(コーラン22章26節)」という御言葉 の解釈はまさしくこれ、清浄を指している。浄められた心は(神聖なる)光を宿して、それは地上の護符となろう。たとえこの肉体が、泥土より創られたものだ としても。

妬まぬ者に虚偽を行い、妬まぬ者を妬むとき、その妬みは心に黒い染みを生じさせる。神の従僕の足許の、あなたは塵のようであれ。妬みの頭に塵を投げつけよ、ちょうど我らもまたそうするように。