『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
終わりに:世辞と称賛の害について
肉体は鳥かごのようなもの。魂は、鳥かごに閉じ込められた鳥のようなもの。口車にのせられて自ずから鳥かごに閉じ込められることもあれば、褒めそやされ、おだてられて鳥かごから離れられなくなることもある。うぬぼれをくすぐる言葉はすべて、魂にとってはちくりちくりと突き刺す棘のようなものだ。
ある者は言う、「あなたの親友は私ですよ」。またある者は言う、「いやいや、私こそはあなたの味方ですよ」。またある者は言う、「あなたほど美しく、気高く、情け深く寛大な人など、どこを探してもいませんよ」。負けじとばかりに、またある者は言う、「現世も来世も、あなたの望むままですよ。私も私の仲間達も、あなたのおかげで生き存えているようなものです」。
人々が自分と杯を交わしたがっているのを見れば、人々に求められ、欲されているのを見れば、自制心もゆるんで次第に傲慢になっていく。このようなことは今までにも何千、何万と繰り返されている。破滅へと向って流れる川の横に、悪魔が立っている。泳ぐことも出来ないのに、泳げるかのように思い込んだうぬぼれ者を、目ざとく見つけて溺れさせるのが彼の仕事だ。
世辞と欺瞞は現世のいたるところに出回っている。それは一口でつまめる甘い菓子のようなものだ。菓子はほどほどにしておけ。最初の一口は甘く感じても、後々になってのどがひりつく。腹にたまった菓子は、やがて炎になって内臓を焦がす。最初の一口は炎には見えない、だが後々になってのどの奥から煙が立ちのぼるようになる。
「私はそれほど騙されやすい人間ではないぞ」、と言う者がある。「世辞を言うのも、何かしら下心があってのことだ、そんなことは見抜けているさ。こいつがどんな見返りを欲しがっているのか、どれ、暇つぶしに見ていてやろう」。だが世辞を言う者の魂胆など問題ではない。自分の問題であることに気付けぬのが問題だ。他人の欲は見抜けても、自分の欲を見抜けぬことが問題だ。
誰かしらに、人前で批判や皮肉を言われれば、それから数日の間は悔しさに胸が焼け焦げるような思いを味わうだろう。批判の言葉をぶつけた者は、よほど相手に高い希望を抱いていたのだろう。批判されて口惜しいのは何故か。究極には、相手を失望させてしまったことを否も応もなく思い知らされるからだ。時が過ぎれば、やがて悔しさは薄れてくる。だが相手を失望させたという思いは、様々なかたちで後々まで影響を及ぼすだろう。
これが批判の言葉ではなく、逆に賞讃の言葉であっても、同じことが起こりうる。だが突き刺さるような苦い批判の言葉とは違い、すぐには理解できないだろう。なぜなら、賞讃の言葉は甘く耳に心地よいからだ。批判や非難の言葉は苦い。煎じ薬や練り固めた錠剤と同じで、飲みくだすのは容易ではない。ようやく飲みくだしても、口にも喉にも嫌な味と匂いがいつまでも残り続ける。
しかしハルワのように甘い菓子なら、ほんの一瞬で食べ終えてしまえる。実に簡単、実に安楽。世辞もこれと同じだ。ほんの一瞬だけの楽しみ。その楽しみは、後々まで続くものではない。楽しみが続かないからといって、だが何ひとつ残らない、ということではない。わずかづつでも、気付かぬうちにそれは沈殿してゆくのだ。
知ると知らざるとに関わらず、全ての事象は連関している。全ての事象には、その対極が存在している。砂糖を食べ続けていれば、甘い楽しみが過ぎ去った後でもその影響は残る。やがて甘みは出口を求めて、吹き出物を生じさせる。捧げられたありあまるほどの賞讃をファラオは楽しんだ。やがてその賞讃が、ファラオを滅ぼすことになったのだ。
全てを手に入れようなどと思うな、穏やかにふるまい、謙虚さを保て。選ばねばならぬものならば、可能な限り奴隷であれ、君主ではなく。選ばねばならぬものならば、可能な限り打たれる球であれ、打ち付ける棒ではなく。たとえ今は持てる者であっても、いつ何どき持たざる者になるかは誰にも分からないのだぞ。
全てを失い、何ひとつ持たざる者になったとき、仲間と思っていた人々もきびすを返して立ち去って行く。持てる者に群がり、機嫌を伺い、世辞を使って欺くことで現世を渡ろうという人々はごまんといる。そうした人々というのは、相手が持たざる者と見れば、あべこべに罵りの言葉を投げつける。持たざる者が彼らの扉の前に立ち、ほんのわずかな慈悲を乞うても、彼らは言う、「死人が墓場を抜け出して、こんなところで何をしている。墓場に帰れ、ここにはおまえの居場所などないぞ」。
- そうそう、まだ髭も生え揃わぬ、骨も固まらぬ年頃の少年を、神の創りたもうた美の極地、などとほめそやし、崇めるようにもてなし、臥所に引き込む連中がいる。それで神秘主義者を名乗るのだから唾棄すべき輩どもだ。
少年達もやがては成長し、一人前に顎髭をたくわえる年頃になる。するとどうだ、あれほどちやほやと可愛がっていたくせに、手のひらを返す。彼らの後を追い回すのをぴたりとやめて道端へ放り出す。外道中の外道め、下衆め。あのような連中、美など理解できているはずがない。悪魔の所業でも何でもない、あれらはヒトだ。そしてあれが、あの連中の本性なのだ。
悪魔ですら、あの連中を避けるだろう。悪魔の仕事は善人を悪と不正に引きずり込むことだ。だがあの連中、居ながらにして悪魔よりも十分に悪い。人間が人間である限り、悪魔は常につきまとうもの。ほんの一口、飲んでみないか、と、親しげに彼の杯を差し出してくる。だがろくでなしがろくでなしを好むとは限らない。悪業が骨の髄まで染み付いている者のところなど、悪魔でも走って逃げ出すだろう。
かつて衣の裾にまとわりついていた者が一人、また一人と去って行く。批判する者も、賞讃する者も居なくなる。去って行く者達を悪い、と言ってももう遅い。後に残るのは、去って行った者達よりもなお悪い自分だけだ。