『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー
サナーイーの散文に寄せて
ハキーム7が、このような言葉を遺している。
この世の空よりもなお高いところに、魂の空が広がっている。
意志の向かうその先に、低地があり高地があり、
さらにその先には高くそびえ立つ山々が、果てしない海原がある。
目には見えないあちらの世界に、こちらとは別の雲があり、こちらとは別の雨が降る。
こちらとは別の水があり、こちらとは別の空には、こちらとは別の太陽が巡っている。
その光景を目にすることが出来るのは、選び抜かれた御方の友のみ。
御方の友以外の人々は、見るどころか知る由もない。
何故ならば、「彼らはあらたな創造のことなど信用していないのだ8」。
幾通りかの雨がある。
滋養に満ちた恵みの雨もあれば、もたらすものはただ衰微のみという雨もある。
春に降る雨は素晴らしい、庭に多くの恩恵をもたらしてくれる。
だが秋に降る雨は、流行り病のように庭を苦しめ喘がせる。
秋に降る雨に庭は患い、その顔は色を失ってみるみる青ざめていく。
春に降る雨がそっと大事に見守り、庭を慈しみ育て上げるのとはまるで裏腹に。
雨だけではない。風も、太陽も、同じように変化する。
様々に変化するごとに、こちらにも様々な変化が生じる。
日々、私達はどのような変化を目にしているだろうか?
ひとつひとつ、見つけ出して数え上げてみるだけでも随分と賢くなれる。
目には見えないあちらの世界にも、
様々な変化があり、様々な相違があるのはこちらの世界と同様だ。
利益もあれば損失もある。
害になるものもあれば、害にならぬものもある。
ハキームのような、聖者と呼ばれる人々の呼気というものは、
あちらの世界における春の訪れにも通じるものが含まれている。
こちらの世界にいる私達の、心と魂の庭に緑を育む。
彼らの呼気、彼らの言葉は、春に降る雨が木々を育むのと同じ働きをする。
そのような呼気、そのような言葉に、
巡り会うことができるというのはとても幸福なことだ。
まるで沙漠の砂のように、立ち枯れて乾ききった木々ばかりが並ぶ庭もある。
吹きすさぶ風に、その生命を吸い上げられてしまったのだろうか?
いやいや、風のせいではない、風を責めるにはあたらない。
風には風の役割がある、風はそれを果たしただけだ。
吹きすさぶのが風の役目、こちらからあちらへと去って行っただけのこと。
だが風に吹かれた後で手入れをするのも、手入れを怠り荒れるがままにするのも、
庭の持ち主の選択ひとつ、魂についての考えひとつにかかっているのである。
*7 ハキーム サナーイーを指す。サナーイーについては「商人とオウム」註を参照。