預言者の伝承『春にありて来るべき冬に備えよ』

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

預言者の伝承『春にありて来るべき冬に備えよ』

「春の肌寒い日の過ごし方」について、預言者はこのように語ったと伝えられている -

「我が友人達よ。肌寒いからといって、春だというのにそうそう衣を厚く重ねて縮こまるものではない。春の嵐の、なんと嬉しいものだろう。春の風が私達の魂に、どれほどの恩恵を運んでくれるのか考えてもごらん。木々を見てごらん。彼らにとっての春の雨と同じくらい、春の風は私達にとって喜ばしいものだ。

けれど秋の冷たい風からは、身を守った方が良い。同じ寒さではあっても、それがもたらすものは春と秋とでは全く違う。秋の寒さは、庭を枯らし木々を死なせてしまう」。

- 伝承者達は、これらの言葉を一字一句違えることなく私達に伝える。そして、言葉を伝えたというただそれだけで、自らの役目を果たしたとばかりにすっかり満足しきってしまう。伝承は素晴らしい、だが伝承主義者は考えものだ。彼らは往々にして、言葉に拘泥するばかりで魂について考えようともしないし、また知ろうともしない。彼らは山をただ見ているだけで、山の内側にある鉱脈を探そうとはしない。

神の風景にあっては、「秋」とは、自我と自我に備わる利己的な欲望を指している。これに反して「春」とは、理性と、上昇する魂の意志を指している。春の本質は永遠の芽吹き、永遠の生命にある。山の内側に鉱脈が隠されているように、あなた方の内側にも鉱脈が、賢い知性のかけらが隠されている。こちらの世界にあって私やあなた方がすべきことは、完成された知性の持ち主を探すことだ。完成された知性を通して、一片のかけらであったあなた方の知性も完成する。完成された全的な知性は、あなた方の御し難い自我の首に嵌められた首輪となるだろう。

- これがかの伝承の精髄、かの伝承の解釈である。春の風とはすなわち神の吐息、聖なる呼気そのもの。春の冷たい風は、一枚の葉である私達ひとりひとりをそよがせる。そよぐ毎に私達ひとりひとりが、新たないのちを吹き込まれている。

聖者達の言葉を、耳を塞がずにじっくりと聞いてみることだ。彼らの言葉は、時として優しく、また時として激しくもある。いずれにせよ、私やあなた方の信仰を助けるものであることには違いがない。彼らの言葉が暖かければ、その暖かさを楽しめば良い。冷たければ、その冷たさを楽しめば良い。そのようにして魂が、暖かさ、冷たさに慣れ親しむうちに、体もまた、暑さ、寒さに慣れ親しむようになる。地獄の炎に焙られてさえ、平静を保てるようになるだろう。

御方の送り届ける「暑さ」も「寒さ」も、実際のところはそのどちらもが「春」なのだ。生命にとっては、どちらもが新たな季節、新たな創造の訪れであり、どちらもが御方を根源とし、どちらもが知性と誠心、友愛の糧となることには違いがない。

魂の庭は常に御方と共に在る。その木々が御方によって育まれる限り、心の海は次から次へと、尽きることのない真珠で満たされることだろう。賢い人は魂の庭の、ほんの一枚の葉の揺らぎをも見逃さぬことだろう。そしてほんの一枚でも葉が枯れて落ちれば、賢い人の心の海は、千の悲しみで満たされることだろう。