解題:あるいは神の人ノアに寄せて

『精神的マスナヴィー』1巻
ジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー

 

解題、あるいは神の人ノアに寄せて

ノアはどうであったか。ノア - 平安が彼と共に在らんことを - は、彼の一族の人々に対してこう言っている。「私と戦っても無駄なことだ、私と争っても無駄なことだ。私は一枚のヴェイルに過ぎぬ、ヴェイル相手に怒り狂って何になるというのか。あなた方が本当に向き合うべきなのは、ヴェイルではなくヴェイルの向こう側に控えたもう神なのだ。けれど見捨てられた人々よ、あなた方はそれに気付かない」。

ノアはこうも言った、「あなた方ときたら、本当に頑固で分からず屋だ。私は私であって私ではない、と、何度言えば理解するのだろうか?私はすでに死んだのだ、私の裡にある獣の魂を葬り去った時に。今ここにいるこの私は、魂の中の魂、王の中の王によって生かされている。

父よりもたらされたヒトの子の感覚、肉体がもたらす感覚は、もはや私の内側の、どこを探しても見当たらぬ。私は神の裡に聞き、神の裡に食し、神の裡に見、そして神の裡に息をする。私が私を葬り去ったからには、今ここにあるのはただ神の息のみ、今ここに発されるのはただ神の言葉のみ。おのれのために息する者は神に背く者、今すぐ私の目の前から立ち去れ!」。

姿かたちはキツネのように見えても、そこにいるのは実はライオンかも知れぬ。たかがキツネと侮ってうかうかと近づくな、目に見えるものが見える通りのものとは限らない。聞こえないか、キツネの姿かたちをしたそれが、ライオンの唸り声をたてているのが。

ノアの一族の人々は、そのようにしてノアを見誤った。ノアはライオンであった、星座よりもなお輝く永遠の獅子座であった。そうでなくて、どうしてノアが全世界を混沌の中へ放り込むことが出来ただろうか?ノアの裡には唸り声を発するライオンが、神の光があった。

そうだ、ノア一人の裡に、百頭、千頭のライオンがいたのだ。その時ノアは炎であり、全世界は積み重ねられた干し草であった。干し草がほんの少しばかり、十分の一税ほどの支払うべき注意を、敬意を、怠らず支払っていたならば、炎もああまで燃え広がることもなかったろうに。

誰であれ、隠されたライオンとも気付かずに、その眼前で尊厳に欠く振る舞いに及ぶ者には、あのオオカミと同じ運命が待ち受けている。隠されたライオンがたちまちにして顕われ彼を引き裂く、かつてかのライオンがオオカミにそうしたように。それからライオンは厳かに告げる、「われらは彼らに懲罰を下す、われらのしるしを嘘だと言っておろそかにした報いとして(コーラン7章136節他)」。ライオンの眼前で大風呂敷を広げたところでどうにもならぬ、自らの愚かさが証明されるだけのこと。

さて、彼らの肉体はライオンの一撃によって滅ぼされた。だがその先には何があるのだろうか。彼らの信仰は、彼らの魂はどうなるのだろうか。あるいは肉体を盾に、彼らの魂は無傷のまま救われるのだろうか。 - ここに至って私は口をつぐまざるを得なくなる。これが私の限界だ。この先にある秘密について、かくかくしかじかである、などと、どうして私に断言出来ようか。

私に言えることはただひとつ。ある点についてはキツネのように振る舞え - 自らを卑しき者であると知れ、あのキツネのように。だがある点についてはキツネのようには振る舞うな - 順番さえ違えば、引き裂かれていたのはキツネの方であったかも知れない。つまり、だ。御方の眼前にあっては、駆け引きが通用するなどとは思わないことだ。

あなた方の中にある「我ら」「我」の全てを地に置け。王国の全ては御方に属する。王国の全てを御方に明け渡せ。正しき道の途上にある者、「我」を捨て去ったことにより困難に陥る者がある。そうした正しき道の途上にある者、ファキール(貧者)達こそが、ライオンと、ライオンの獲物を得るだろう。純粋と栄光は彼らファキールにこそ宿る。そして純粋と栄光は御方の御名そのものだ。

彼らは目先の「よいもの」になど興味がない。麦粒の、核にも殻にも惑わされない。全ての報奨、全ての贈り物は彼らのためにある。王にのみ目を注ぎ、王にのみ仕える者、神のみを欲し、神のみのしもべたる者のために。彼らは知っているのだ、王の中の王は何ものにも属さず、従って何ものをも欲することがないことを。自らの王国と、そこに住まう全てを創造したもう御方、目に見えるものと目に見えぬもの、ふたいろの世界を創造したもう御方 - 御方を知る者にこそ祝福のあらんことを!

御方の眼前にあって私達が見るべきものはただひとつ、それは私達自身の心の中だ。注意深く見張らねばならぬ。万にひとつでも邪悪な思念が生まれたなら、すぐに摘み取れ、替わりに羞恥の種を蒔いておけ。御方は意図を見る、心を見る、魂を見る。ミルクの注がれた皿に、髪の毛一筋でも浮かせてはならぬ。

偶像を持たぬ者の胸中は、よく磨かれた鏡のよう。どこまでもありのままを映し出す。故に偽善者は、信仰者の前に立つことを怖れるのだ。御方の魂は、全ての魂にとり試金石のよう。どの魂が金貨で、どの魂が贋金か、信と疑の違いを知らしめる。故に偽善者は、御方の前に立つことを怖れるのだ。