わたしの本棚に、『イブン・シーリーンの夢辞典(”Ibn Seerin’s Dictionary of Dreams”)』という御本がある。
Ibn Seerin’s Dictionary of Dreams: According to Islamic Inner Traditions
何て言うか、たたずまいからして「いかにも」な感じの。printed in Indiaとなっている。
イブン・シーリーンさんというのは8世紀ごろの人物で、ハディースの語り手の一人であるアナス・イブン・マーリクさんと同世代。御本にもよるがシーリーンさんは、サハーバ(ムハンマドの生存中に彼と宗教を共にした、いわゆる「教友」と呼ばれる人々)の一人に数えられていることもある。
ここでちょっと説明を入れると、(ここから)
歴史を通じて、ムスリムたちは夢を非常に重要視してきた。ムスリムたちによる夢判断の歴史は、ほとんどイスラムという宗教の始まりと同じ頃くらいまで遡ることができる。ハディースにも「夢判断」の項があるくらいだ。
コーランの一部は、夢を介してムハンマドに啓示されたとも信じられてきた。生前のムハンマドは、コーランとして啓示されたもの以外にも預言的な夢を数多く受け取っていたし、天に召される直前には「わたしが死ねば預言という(かたちでの)吉報は届かなくなる。ただし、『正夢』を除いては」という言葉を遺している。それも相まって彼の死後、夢はますます大切にされるようになった。神さまとのコミュニケーションの、唯一かつ主要な手段が夢の他に何も無くなってしまったからだ。
ムハンマドはまた、「夢の中で私に出会った者は、実際に私に会ったのだ。シャイターンも、夢の中では私のふりをすることが出来ないから(偽物の生じる余地がない)」とも言い残している。それで彼が出現する夢は、他のどのような夢とも違って別格の扱いを受けた。
ここで「誰が見た夢なのか」というのが重要になってくるのは自然なことで、そこを利用して…と言っては言葉が悪いけど、まあそのようなわけで「こんな夢を見た」「あんな夢を見た」という報告が沢山収集されるようになった。ことに禁欲主義者/のちのスーフィーの皆さんは、こうした夢に関する報告の収集に大変熱心で、時としてそれが権威付けの根拠になるようなこともあった。
The Early Muslim Tradition of Dream Interpretation (Suny Series in Islam)
(ここまで、ジョン・ラモローちう学者せんせいの御本の受け売りな)
ここで最初の御本に戻るが、
「夢判断」と言えばシーリーンさん。夢判断関連の御本でシーリーンさんの名に触れていないものはないというくらいの、この分野の第一人者と呼んで差し支えないような人物。と、「されている」。
シーリーンさんの名が冠されている夢判断の御本は巷に沢山あふれている。いるのだけれど、 大層な博学者さんだったというシーリーンさんが、実際に夢判断の分野でもとても優れていたのは本当だとしても、彼の名が冠されていようが何だろうが、シーリーンさん自身が実際に何かしら御本を執筆したとは考えにくく、大体が後世の聞き書きだったりするそうだ。これを最初に知ったときはちょぴっとだけがっかりした。
それはそれとして、『夢辞典』はとても面白い。全部を全部読んだわけじゃないけど。辞典なので、例えば「蟻」とか、「黒色」とか「青色」とか、そういうふうにひょこっと気になるのをめくってはながめ、めくってはながめしている。ちなみに蟻は(蟻の夢は)、 「弱い者」を意味するんだって。夢の中で蟻のおしゃべりの意味が分かったら、それは「権力」を意味するんだって。夢の中で蟻を踏んじゃったら、「弱い者いじめ」を意味するんだって。「黒色」はとにかく金!財産!売上倍増!とかそんな感じらしい。でも普段は黒い服を身につけない人が夢の中で黒い服を着てたら、それは悲しい出来事という意味なんだそうだ。「青色」も、悲しいとか寂しいとかそういう意味の何かなんだって。
この御本、一応「イブン・シーリーン」の名が冠されており、「テンプル大学宗教学部マフムード・アイユーブ教授」のご推薦の一文なんていうのもついている。これが「後世の聞き書き」である可能性には全く触れられていない。でもおもしろい。出来過ぎている感じも含めて。やっぱり偽作なのか。そうなのだろうな。面白いけど。ぬーん。
と、なっていたところに『オリエントの夢文化』という御本があるのを見つけた。
第二章「中世オリエントの夢判断」の2、「アラブの夢判断とイブン・シーリーン」の項で、著者の矢島せんせいはトゥーフィーク・ファハドという現代の学者氏の御本を引用しつつこう仰っている:
……イブン・シーリーンの項目はなんと三ページ半しか割かれていない。イブン・シーリーンがきわめて篤信の敬神家であり、学識の深いイマームであったことを記してから、著者は次のように言っている。
私の知る限り、イブン・シーリーンの唯一の夢判断はイブン・サアドが伝えるもので、彼と同じ年(110年=西暦728年)に亡くなったアルハサン・アルバスリーに関するものである。(それによると)ある男がイブン・シーリーンに言った。「私は鳥が飛んでいて、アルハサン(イブン・アビー・アルハサン・アルバスリー)を捕らえ、小石のようにモスクに落とすのを見ました」。彼は答えて言った。「あなたの夢が本当ならば、アルハサンは(じきに)死ぬ」。アルハサンはそののち僅かしか生きなかった。
イブン・シーリーンの「超能力」をたたえるこの種の逸話は広大に数多く作られたようだが、イブン・シーリーンに「夢判断」に関する著作はなかったようであり、かなりの大学者であったこの人物への尊敬の念が最大の夢判断者という俗説を作り上げたというのが真相のようだ。それはあたかも、日本において多くの奇蹟的な出来事を弘法大師に帰するようなものであった。
矢島せんせいはこの項でイブン・シーリーンの名に帰されている『タフシール・アルアフラーム』について解説なさった上で、結論づけつつ最後のとこで「…一篇の小文学作品の趣があり」としつつ「今これらを取り出す余裕はないので別の機会にゆずることにする」としめくくっておられる。
が、この御本は矢島せんせいの遺稿でもあるそうで。と、いうことは、別の機会は(少なくともこの世では)もう無いのであった。あー。
シーリーンさんご自身はとにかく御本が好きじゃなかったらしい。どうしても読まなきゃいけないもの(手紙とか)はしぶしぶ読んでも、読み終わったらすぐに捨てちゃう。お友達に「ちょっと引越しするんで、その間だけでも荷物預かってくれない?」と頼まれても、「本以外なら預かるけど、本は絶対やだ。本なんかにおれんちの敷居をまたがせない。引越しなら、良い機会だからおまえも捨てろ」と断った。と、いう話が、これはEncyclopedia of Islam & the Muslim Worldに出ていた(気がする。要確認)。
ちなみに『夢辞典』には「本」の項もある。けっこう長々、細々と書かれている。例えば夢の中で、子どもが(御本を)持ってきてくれたら近いうちに良い知らせが届く。 右手に持って歩いてたら幸運が舞い込む。左手に持って歩いてたら災難が舞い込む。
そして御本を破ったり捨てたりしてたら、「災難が解消し、試練から解放され、邪悪な敵対者が消え去る」んだそうだ。あー。
秋ですね。