発作的に本棚の整理整頓をしたくなって何もかもを床にぶちまけたところで発作がおさまって途方に暮れている。どうせなら整理整頓が全部終わったところでおさまってほしいです。
でも発作のおかげで、こないだ「岩波の東洋講座でしか見たことない!」とおおえばりで書いてたアフマド・ガザーリーについて、別のとこでも触れられていたのを見つけました。アンリ・コルバン『イスラーム哲学史』(共訳:黒田・柏木)の「スーフィズム」の項でバスターミーさんやジュナイドさん、ハッラージュさんと並んで「スーフィズムの形而上学と呼ばれうるものの何たるかを垣間見させてくれるであろう」として、アフマドさんの「sawanih」から2つばかり紹介されている。
アフマド・ガザーリー(イラン、カズウィーンにて五二〇/一一二歿)は、偉大な神学者アブー・ハミード・ガザーリー(上述第五章、7)の弟であり、おそらく彼から多少の影響をうけていると思われるが、「一方アフマドの作品中に灼けさかる飽くことなき欲望、純粋な愛の熱情を兄に伝えることには成功しなかった。」(L. マッシニヨン) アフマド・ガザーリーが『愛に忠実な者たちの直観』(Sawanih-l-‘shushaq)と名づけている、簡潔、何回なペルシャ語で書かれた小冊子は、紛うかたなき愛の規範の書といいうるが、この書はかなりの反響を呼んだ。ラプソディー風の構成、互いにさして密接な関連性をもたない短い章の連続からなるこの書は、極度に微妙な心理学を援用している。この貴重なテクストの編纂者ヘルムート・リッターは、「かくも精緻な心理分析がなされている作品を、他に見出すことは極めて難しい」といっている。ここでは二つの短い文章を引いてみることにしよう。
「確実に愛が存在すると、愛する者は愛される者の養分となる。愛される者は愛する者の養分とはならないが、それは前者が後者の受容しうる域外にいるからである。……炎の恋人となった蝶は、遠くに離れている限りこの曙の光ともいうべきものを滋養とすることができる。これは蝶に呼びかけ、彼を歓迎する黎明の光のさきがけなのである。しかし蝶は、炎のもとに達するまで飛び続けねばならない。ところで蝶がそこに辿りついたとき、炎に向かって進むのは蝶ではなく、炎がその中につき入ってくるのである。炎は蝶の養分ではなく、蝶こそ炎の養分に他ならない。ここに偉大な神秘がある。そして束の間のあいだ彼は、彼自身の愛の対象そのものとなる(なぜならば彼は炎自身にほかならないから)。かくて彼は自らを完成させることになる。」(第三十九章)
「愛のめざすところは高い。なぜならばそれは、愛される者のうちに崇高なる資性を要求するのだから。それゆえ愛される者は合一の網により捕えられなくなる。次のような会話が成り立つのは、おそらくこのような機会においてなのだろう。神が悪魔(イブリース)に向かって、『お前は呪われてあれ!』(クルアーン第三十八章七十八節)といった時、悪魔(イブリース)は『貴方の稜威にかけて!』(クルアーン第三十八章八十三節)と答えている。この意味することは次のごとくである。私が貴方のうちに愛するものは、何人もそこまで身を高めることができず、何人も相応しくありえないような貴方の、高き稜威なのです。なぜならばもしも誰か、何ものかが貴方に相応しいとしたならば、それは貴方の稜威のうちに欠けるものがあることを意味するからです」(第六十四章)。かくして《愛に呪われた悪魔(イブリース)》の有名な主題が登場することになる。
引用おしまい。
↑この部分、(第六十四章)とあるけれど、プールジャヴァディさんの新訳注解では六十六章になっていた。そう、四十八とか何とか書いてたのも大法螺だった。お詫びに平凡社の大ガザーリーを注文しました。
それはそれとして、プールジャヴァディさんはこの箇所について、「”Sawanih”においてガザーリーが非・顕教的な解釈をイブリースに付与しているのはこの章のみである。この論に従えばイブリースあるいは悪魔は真に神を愛する者であり、その不服従も彼の一途な愛によるものであったということになる」と解説している。
これだけだと、つくづくイブリースはとんだ変態やろうだ。というかこんな解釈を施すアフマドさんが変態なのか。どうなのだ。という感じなのだが、続く六十七章では、アフマドさんはこうも書いている。
……愛される者との合一を望む愛する者が、不完全かつ無知の状態にあるのは疑うべくもない。さりながら、そこには二つの異なった方向性があることを承知すべきだろう。すなわち(状態を主導するのが)愛される者の慈悲か、あるいは愛する者の利益かである。前者においては、愛する者の利己主義的な側面は愛される者の慈悲に自らを全面的に委ねることによって打ち消され均衡が生じる。この場合、愛する者の欲求は罪無きものと言えよう。しかし後者においては、愛する者は自らを愛される者との合一に値する者とみなすことで自らの欲求を正当化するという過ちを犯す。かくして愛する者は自分本位な利己主義に陥り、その欲求も罪深きものに分類される。
イブリースを若干マイルドにしたのが、一時期ちまたにはやった「お互いを高め合える関係」とかいうやつですね。いや、そういうのが好みで、当事者どうしが満足しているんなら、それはそれで良いんですけどね。でも何て言うか、それは「無条件の愛」からはそうとうに遠いよな。「無条件の愛」なんて言うとご大層な感じしますけど、要は「鼻毛出てるよ」とか「チャック開いてるよ」とか「あしがくさいよ」とか、そういうことです。でもいくらなんでも、二時間ちょっと卓球にはげんだ後で雨に濡れた靴下をこたつの中で脱がれたりしたら殺意がわくのは仕方が無いと思う。それが許されるなら正義って何なのよ、ってはなしですよ。
いやまあ、こっちのはなしです。
別のところに書いたのを、こちらに保存しました。