15.03.16. 「今どき誰でも知ってるだろう」

*別のところに書いためもをこちらに保存しました。

「メヴレヴィー教団最後のシャイフ(※1)」と呼ばれたシェフィック・ジャン氏の、96歳でお亡くなりになる直前(と、いうか前夜)のインタビュー記事を。

Interview with Mevlevi Sheikh Sefik Can
2005年ですからもう10年前のインタビューではありますが、

インタビュアー「『来たれ、誰であれ来たれ』を、現代人は理解していますよね」
ジャン氏「あれはメヴラーナの作ではない。そんなことは今どき誰でも分かってるだろう」

ホジャ、お言葉ですがそれはちょっと……。

いや、まあ、分かっていらっしゃる人には分かりきっていることではあるのでしょうが、10年後の今どきであっても「誰でも」というわけではないのでは。

と、思ったので紹介しておくことにしました。

あれはメヴラーナの作ではない。そんなことは今どき誰でも分かってるだろう。デルガー(メヴレヴィーヤの道場的施設)の図書館で働いていた今は亡きネジャーティ・ベイという者が、この四行詩の書かれた古いカリグラフィーを見つけて、原典を探しもせずにこれはメヴラーナの四行詩だとあらゆるところで吹聴してまわった。ところが実際には、この四行詩はズィヤー・パシャが編纂した選集『ハラーバード』に、別の詩人の作として紹介されていたものだった。わたしもこれとは別の写本を見たことがある。

まあ、そうは言ってもメヴラーナはこれに似たような四行詩も数多く遺しているし、これよりももっと熱情的なものだってある。そういう意味では、これもまたメヴラーナの四行詩と看做せないこともない。それは大した問題ではない。本当に問題なのは、こういう行き違いを生じさせた者に加えて、この四行詩の表面だけを見てその精神には無頓着な人々だ。

来たれ、誰であれ来たれ
異教徒、偶像崇拝者、拝火教徒も
たとえ汝が百の誓いを破ったとしても来たれ
われらの扉は希望の扉、来たれ、汝あるがままに来たれ
われらの扉は希望の扉、来たれ、汝あるがままに来たれ

これは聖コーランの「言え、『おお、自分の魂を浪費しすぎたわが僕たちよ、神のお慈悲に望みを捨てるな。神は罪悪すべてをよく赦したもうお方である。まことに神はよく赦したもう方、慈愛あつきお方である』(コーラン39章53節)」を指しているのだろう。そしてコーランの章句には、すべて神の御ことば「おお、汝ら人類よ」が全体として含まれている。罪の深さに関わりなく、誰であれ心から悔悟して神の赦しを乞うた者は、その罪が浄められる。

つまり、メヴラーナが言わんとしているのはこういうことである。「おお、人々よ。あなたの心は偶像で占められている。だがたとえ世俗の偶像に占められていようが、ありとあらゆる場面で現世に縛られ、肉体の罪を重ね、汚名を被ろうが、絶望に陥ってはならない。われらのデルガーに来て、愛と信仰の斧をもってあなたの心の中にある偶像を打ち破れ。酒に溺れる者なら、ここへ来て、われらのデルガーであなたのナフス、エゴを鍛え、その酒瓶に石を投げ、この聖なる葡萄酒を飲め。われらの手にある真の水をもってあなた自身を浄めよ。あなたの罪から浄められて清らかな人になりなさい」。

彼は「来たれ、われらのデルガーでは何をやっても構わないぞ。外でやったら受け入れられないようなことでも、われらのデルガーでは大歓迎だ」と言っているのではない。しかしそのことを人々は誤解している。繰り返し、この四行詩ばかりを読み続けているのは人々に悪い影響しかもたらさない。人々はメヴラーナを、間違った見方をしている。この世が永遠に続くと信じ、あの世を拒否し、肉体が死ねば魂も一緒に死ぬと信じる実利主義者のように捉えている。あるいはメシュレプ(※2)か他の宗教か、異なる分派の者かのように思われている。まるでメヴラーナが、アッラーがお認めにならないことや預言者が不適切とみなしたことまで、全て許して受け入れているかのように思われている。どうしてそんなことがまかりとおるのか?メヴラーナは「命ある限りわたしはコーランのしもべであり、選ばれし者ムハンマドの道の塵である」と書いているのに。

われらが預言者ムハンマドの伝承の中には、もしもある人が悔悟して神に赦しを乞うたにも関わらず、同じ罪を再び繰り返すようなら、それは以前よりもなお悪い、と仰ったという一文がある。誓いを百回たてておきながらそれを破り、しかもそれを何でもないことのように考えるなら、それがイスラムの信仰にかなっていると言えようか?

そのようなわけで、この四行詩の意味と真髄を知らずに額面だけを受け取る人々というのは、確実にメヴラーナを誤解している。メヴラーナは他にも色々と言葉を遺しているだろう。どうして誰も別の方の四行詩、「命ある限りわたしはコーランのしもべであり、選ばれし者ムハンマドの道の塵である」と、こちらの方を読もうとはしないのか?それともこちらはメヴラーナを表わしてはいないというのか?もう一方(「来たれ、来たれ」)を理解しようと思うなら、深く考える必要がある。だが誰もそういうことは引き受けない。だからあたかも万人に通じるかのように見えるのだろう。

※1 メヴレヴィー教団最後のシャイフ
トルコにおいては20世紀初頭の一時期、メヴレヴィーヤを含めあらゆるスーフィー教団の活動は公的には禁じられていたという経緯があります。現在では政府(観光庁)の管轄下で旋回舞踏なども行われていますが、シェフィック・ジャン氏という方はそういう諸々以前からホジャであったということで、そういう意味で「最後のシャイフ」と形容されています。

※2 メシュレプ
ウイグル族の伝統歌舞。2010年にユネスコの「緊急に保護する必要のある無形文化遺産」一覧に追加されています。


ご参考に。

2000年の初め頃、Ibrahim Gamardさんという方が「『来たれ、来たれ』はルーミーの作じゃない!」という見解を主張しておられるのを目にしました。「マスナヴィーの勉強をしたいのだが」と尋ねると、「それならペルシャ語を勉強しなさい。わたしもしている」と正し過ぎるほど正しい答えが返ってきました。

Gamardさんは足かけ22年の歳月を経て、2008年ついに『ルバイヤート(四行詩)』を完訳・刊行してしまわれました。

The Quatrains of Rumi: Ruba ‘Iyat- Jalaluddin Muhammad Balkhi-Rumi
この御本には附記として「メヴラーナのじゃない(にも関わらず、メヴラーナに帰されている)四行詩」というのが数十ページに渡って掲載されています。何という不存在証明。「来たれ、来たれ」については「フォルーザンファル版には掲載されていない」と但し書きした上で、

Baba Afzal Kashani(1274没)
Abu Said ibn Abi Khayr(1048没)

の作に原型とおぼしきものがあると紹介されており、また上記で紹介したシェフィック・ジャン氏のインタビューからの引用がされています。併せてこの四行詩については、コーラン66章8節「おお、信ずる者たちよ、神にまことの悔悟をするがよい。主は、おまえたちから悪をとり除いて、下を河川が流れる楽園にはいらせたもうこともある。(略)」に帰されるのではないかとも述べられています。

シェフィック・ジャン氏のインタビュー、他の部分も面白いので時間ができたら全文を読み下したいところではあります。おじいちゃん、おばあちゃんの昔話が大好きなのです。

それにしても「それは大した問題ではない」って。待って下さい何を言っているんですかおじいちゃん!とちょっとだけなります。まあ楽しいからいいのですが。

こういうの、わたしは個人的にターキッシュ・ディライツと呼んでいます。