なつやすみにアリー・アブデル=ラーゼク『イスラムと政治権力の諸原則』を読みました。今、勝手に邦題をつけましたがアラビア語の原題は”Islam wa Usul al-Hukm”というのだそうで、読んだのはその英訳です。英題は”Islam and the Foundations of Political Power”。編者のまえがきとか時代背景の解説とかを含めても120ページとちょっと、アブデル・ラーゼクの本文だけなら70ページ程度のエッセイです。
Islam and the Foundations of Political Power
(御本のAbout the Authorによれば)、アリー・アブデル=ラーゼクとは、
1888年、エジプト中部アブ・ジルジュの裕福で政治活動にも熱心な地主の一族に生まれる。彼の父と兄弟はリベラルとして知られ、英国のエジプト支配からの独立運動を戦ったワフド党(国民党)にも、またそのほとんどが立憲党員であった保守派にも抵抗した。アブデル・ラーゼクは伝統的イスラム教育を受け、1915年、アル=アズハル大学卒業時にアーリムの称号を得る。
アル=アズハル卒業と同時に、アブデル・ラーゼクは現代的な大学教育機関からの招きを受け、新たに設立されたエジプト大学での講義をいくつか受講している。彼はまたオックスフォード大学でも数ヶ月を過ごし、政治・経済を学ぶが、第一次大戦が勃発したため留学は短期間で切り上げられた。そののちアラビア語の教師となり、同時にアレクサンドリアの伝統的イスラム法廷で裁判官(カーディー)をつとめるようになった。
カーディーの職に従事するうち、彼はイスラム的司法制度の発祥について研究するようになり、そこから更に「イスラム的」な社会秩序の中心に据えられ、司法制度をその機能として備えた政治機構としてのカリフ制を考察した(ここでカリフ制の廃止と、それにより生じた大いなる社会不安という当時の全体的な文脈について言及しておかねばならない)。
アーリムの称号と、それに付随するあらゆる地位を剥奪されると、アブデル・ラーゼクはただちに自分の身なりを激変させ、ヨーロッパの服装を取り入れ、従来的なスタイルも趣味も、服装も軽視するふうを装うようになったと伝えられている。彼のエッセイが巻き起こした批判の嵐の後、彼が公職に復帰したのはイスラム問題担当相をつとめたわずかな期間のみであった。アブデル・ラーゼクは思想界から身を引き、自らの築いた塔の自室にこもり頑なに沈黙を貫き、余生を学問の探求に捧げて過ごした。
自分専用の象牙の塔。豪勢ですね。ちぇ、いいないいな地主の息子。と、ちょっとだけ思ったことを最初に正直に告白しておきます。
アーリムの称号を剥奪される要因となったのがこの御本におさめられた”Islam wa Usul al-Hukm”です。訳者のMaryam Loutfiさんいわく、ラシッド・リダーであるとかムハンマド・アブドゥフであるとかといった同時期のイスラム復興論者の御本はわりとたくさんヨーロッパ諸語に訳されているのに、20世紀初頭に事件と呼んでいいくらいの大騒擾を引き起したこの御本とその著者のことが全く知られていないというのに驚き、まず仏訳したのが1990年代の初めのことで、それからその仏訳を下敷きに、アラビア語から今度は英訳に起こし直して刊行(2012年)、ということだそうです。
冒頭にアブデル・ラーゼクのお孫さんにあたる方の「祖父の思い出」をつづった一文が寄せられているのですが、そのお孫さんがおっしゃるにはおじいちゃんは「優しくて情け深くて信心深い宗教的な人物」だった、とのこと。紹介されているエピソードの中ではアブデル・ラーゼクの食卓の話が気に入りました。野菜の煮物とサラダが定番で、時々そこにヨーグルトとかハリーシュと呼ばれる白いチーズが添えられる。アブデル・ラーゼクの息子さんたちはそれを「いつもの草飯」と呼んでいたそうです。
で、そういうものを乾いたパンと一緒に食べていた、とおっしゃるのですが、そのパンというのがアブデル・ラーゼクの「生まれ故郷の村から毎日届けられていた」というから地主っぽくてかっこいい。
ちなみにここまで名前をアブデル・ラーゼク(アリー・アブデル=ラーゼク)と表記していましたが、これは英訳での表記Ali Abdel Razekを無理やりカタカナ読みにしたもので、岩波イスラーム辞典ではこんな表記でした:
アリー・アブドゥッラーズィク [‘Ali ‘Abd al-Raziq]
エジプトの宗教・政治思想家。ミニヤの大地主の家に生まれる。アズハル大学卒、オックスフォード大学に留学。帰国後マンスーラのシャリーア法廷のカーディーを務める。1925年に『イスラームと統治の諸規則』を出版、カリフ制が宗教的に命じられた政体であることを否定し、政体の選択をムスリム社会の自由な判断にゆだねられたものであると主張した。
同書に対し、同年、高等ウラマー評議会はアブドゥッラーズィクのウラマー位を剥奪、公職から追放した。彼の議論は、現実のイスラーム世界において、理念上のイスラーム法が及ぶ範囲と及ばない範囲とを確定し、そのうえで、政体の選択をイスラーム法の及ばない範囲に置いたものであって、イスラーム法そのものの否定を意図したものではなかった。むしろ、近代化によって事実上浸食されたイスラーム法の及ぶ範囲を再画定し防衛する、という意義が認められよう。主流派ウラマーによるアブドゥッラーズィク批判は、イスラーム法の及ばない領域が実際上は存在するというイスラーム世界の現実を対象化し追認すること自体は、イスラーム法の貫徹性・自己完結性の理念を否定し、イスラームの規範体系を揺るがす、という危機感に基づいたものである。
引用してみたらこの項の執筆者が池内恵氏っていうね。何でしょう、えもいわれないこの感じ。まんべんないですね。
『イスラームと統治の諸規則』といわれると、日本語にもなっているマーワルディーの、あの1ミリのスキもないアッバース朝の御用学者さんの方の御本が思い出されます。マーワルディーの『イスラームと統治の諸規則』がカリフ制度の宗教的正当性を論証したものとするなら、その約1000年後にアブデル・ラーゼクが書いた方のは、そもそもカリフ制度って宗教的な要請があって始まったものではないじゃん?というもの。最終章の最後尾から少し引用するとこのような:
ムスリムが一般にカリフ制として認知しているこの制度は、実のところは宗教とは何ら関わりがないのである。権力への渇望と脅迫の行使の他には、この制度と関わりのあるものは何ひとつないのである。カリフ制は信仰の教義のひとつではない。そのことは、その他のいかなる政体機能や国家形態における司法制度も信仰の対象でないのと同様である。それらが存在するのは政治的要請による以外の何ものでもなく、知ると知らざるとに関わらず宗教には何ひとつ関わりがない。宗教はこれを主唱することもなく、また否認することもしない。なぜなら理性の諸原則と人類の経験、政治学の法則に従っておのずから組織化するという取り組みは、宗教が人類に一任している課題だからである。
この真理はイスラムの軍隊を整備すること、町や要塞を建設すること、政府を組織することにも同様にあてはまる。それらは宗教にとり全く重要ではないが、戦場の作法、建築技術、専門家の意見などはむしろ理性と経験に付随するのである。
ムスリムが社会学・政治学の全分野において、他国の民と協力するのを禁じる信仰の教義はただのひとつも存在しない。ムスリムを卑しめ、隷従させ、冷酷にうちのめし続けてきたこの旧弊、この制度をムスリムが自らの手で解体するのを妨げる信仰の教義など何ひとつ存在しないのである。
御本は1915年にカーディーに任命されて以降、自分はムスリム社会における政治体制の一翼を担ってきた司法制度について色々と勉強してきたが、勉強するにつれこの政治体制/ひいてはカリフ制度というものについて根源的に考える必要に迫られるようになった。イスラムの司法制度は歴史的な視点からの研究を必要としていると考えるようにもなった。そういうわけだからここに自分の思うところを述べる。これを踏み台にしてみんなも議論してみてほしい、というようなことが書かれた序文と、第1・第2・第3と大きくみっつに分けられた本文で構成されています。さらに本文の下にいくつかの章がぶら下がっており、章にはそれぞれタイトルがつけられているのですが、これが分量的にも用途的にもタイトルというよりはサマリーというか、学習参考書の一番最初のとこに「この単元のキーワード」みたいなのが書いてあるのがありますね、ああいう感じです。お孫さんがおっしゃる通りとてもやさしい&親切。以下、その「この単元のキーワード」を書き出しておきます。
第1の書 カリフ制とイスラム
(1)カリフ制の本質 「カリフ制」という語の言語学的起源 –– その従来的な用法 –– 預言者の代理者性理論の重要性 –– 用語の選択にかかる解説 –– 一般的通念に見られるカリフの諸権利 –– カリフの特権は、シャリーアに定められているのか否か –– カリフ制と君主制 –– カリフの権力の諸源泉 –– カリフはその権力を神からじかに与えられるとする論 –– カリフはその権威を民衆から与えられるとする論 –– 西洋の思想家たちの間にも普及している、同様の意見の相違
(2)カリフ制の現状 カリフ制を必須のものとする支持者たちの論 –– その反対者たちの論 –– 前者による諸論点 –– コーランとカリフ制 –– コーランにおける諸々の節をめぐる疑念に対する解答 –– スンナとカリフ制 –– (カリフ制は)スンナによって正当化されうると主張する者の論への反証
(3)社会的視点から見たカリフ制 イジュマーを根拠とする主張 –– この主張に対する検証 –– ムスリム間における政治学の劣化 –– ギリシャ哲学に対するムスリムの関心 –– カリフ制に対する、ムスリム間における反乱 –– カリフの、強制と抑圧(という手段)に対する依存について –– 人類の平等と名誉の宗教としてのイスラム –– 愛執的感情と熱狂的興奮の集約点としてのカリフ制組織 –– カリフ制、独裁政治、抑圧 –– カリフ制を支持する議論の最終段階 –– 知識人と政治学の復活に対するカリフ制主義者たちの抵抗 –– イジュマーにかかる教理の棄却 –– 宗教は政府という制度を認めている –– 政府とカリフ制は同義ではない –– 政治的権威(形態は問わず)の必要性 –– 宗教的・世俗的いずれの基準に照らしてもカリフ制は不要である –– イスラムにおけるカリフ制の終焉 –– エジプトにおける名目上のカリフ制 –– 結論
第2の書 イスラムと政体
(4)預言者の時代における権力の構造 預言者によるカーディーとしての実践 –– 預言者はカーディーを任命したか? –– オマルによるカーディーとしての実践 –– アリーによる同様の実践 –– ムアードならびにアブー・ムッサによる同様の実践 –– 預言者の時代における司法実践のあり方を確認する上で生じる諸問題 –– 預言者の時代における王権の不在 –– 預言者のレジーム構造の検証に関する歴史家たちの怠慢 –– 預言者は王か?
(5)預言者性と権力 預言者が君主であったか否かを検証すること自体に異論が挟まれる余地はない –– 預言者性と君主制は互いに全く異なる現象である –– 特定の神学者たちによる、預言者による政治制度の詳細な報告 –– 預言者の時代における国家機構とみなしうるものについての分析 –– ジハード –– 財政管理 –– 預言者の模範的ふるまい –– 預言者による地域を管理する知事の任命と推定されるものについて –– 現世における国家の樹立は、預言者の諸使命のひとつなのか? –– 神のメッセージとその実現 –– イスラムとは、啓示のメッセージを伝播し施行するための立法のシステムであるとするイブン・ハルドゥーンの説について –– この説への諸反論 –– 預言者のレジームには政体としてのあらゆる特徴が備わっていたとする説 –– 預言者によって実践されたシステムについて、我々が見落としている可能性のあるもの –– 預言者によって確立された権威システムの原始的な純真さを理解する –– ムスリムの信仰の純真さ –– この見解に関する議論
(6)イスラムとは政体システムである以前に神のメッセージであり、国家である以前に宗教である 預言者は神の使徒であり王ではない –– 現世における統治者の権威とは対照的な神の預言者の権威 –– 預言者に特定の美徳 –– 「皇帝」「政府」といった諸用語の解明 –– コーランは預言者が現世の統治者であったことを否定する –– 伝統は先例に従う –– イスラムはその性格上、国家の諸特質とみなされるものとは相容れない
第3の書 カリフ制と歴史に見られる政体
(7)宗教的統一とアラブの人々 イスラムはアラブ人のみが排他的に占有する宗教ではない –– アラブ諸族に見られる宗教的統一性と政治的多様性の併存 –– イスラムにおける制度は宗教的というよりもむしろ政治的な性格を有する –– 預言者の時代における政治的分化の初歩的起源 –– 預言者の死に伴う預言者的権威の終焉 –– 預言者はカリフに彼の後を継ぐよう定めていない –– アリー・イブン・アビー=ターリブの継承についてのシーア派の教理 –– アブー・バクルの継承に賛同するジャマーア(スンナ派)の教理
(8)アラブ諸国家 預言者の時代以降の権威は、必然として政治的にならざるを得ない –– アラブ諸族へのイスラムの影響 –– アラブ国家の誕生 –– バイア(忠誠)の問題に関するアラブ諸族間の相違
(9)カリフ制の本質 「預言者のカリフ」という称号の出現 –– アブー・バクルの就任により偽装された「預言者の後継」の真の意味 –– この称号が選択される理由 –– アブー・バクルの反対者たちが、いかにして背教者とみなされるようになったか –– 全ての反対者たちが背教者であったのではない –– ザカートの支払いを拒否した者たちについて –– 続けて引き起される戦争は宗教的というよりはむしろ政治的 –– 真の背教者の存在 –– アブー・バクルの宗教的資質 –– カリフの職能における宗教的性質に対する信仰の流布 –– この信仰についての、諸王や現世の統治者による伝播 –– 宗教はカリフ制なる制度を必要としない