年表・The A to Z of Sufismから (12)

前回からの続きです。

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1809/1224 アフマド・イブン・アジーバ没。モロッコの学者。初期スーフィーたちの著作の解説と自伝が有名。

1810/1225 ミール・タキー・ミール没。詩人。形の上ではスーフィー・コミュニティに属してはいなかったが、ウルドゥー語による神秘詩を著した。

1811/1226 シーディー・ムフタール・アル=クンティー没。西アフリカのスーフィー。部族の指導者。

1815/1230 アフマド・イブン・ムハンマド・アッ=ティージャーニー没。北アフリカのスーフィー教団の開祖。

1823/1239 ムライ・アル=アラビー・アッ=ダルカウィー没。北アフリカのスーフィー改革者。シャーズィリー教団の分派ダルカウィー教団の開祖。

1824/1239 シャー・アブドゥルアズィーズ没。インドのナクシュバンディー派法学者、解釈者。

1826/1242 アブドゥルワッハーブ・サッチャル・サルマスト没。シンドのスーフィー詩人。

1831/1246 サイイド・アフマド・バレルヴィー没。インドのスーフィー改革者。シーア派とヒンドゥーの混淆的な要素をイスラムから排除しようと試みた。シャー・イスマーイール・シャヒード没。インドの学者、改革者。

1838/1253 アフマド・イブン・イドリース没。モロッコの改革者、スーフィー著述家。

1838/1254 シルヴェストル・ド・サシ没。初期アラブ諸学の代表的な学者、東洋学者、翻訳家。

1843/1259 ダーウード・アル=ファターニー没。マレー人。ウジュード論争に加わった。

1851/1267~8 ムウミン没。近現代初期の重要なウルドゥー詩人。

19世紀中頃/13世紀 特に北・中央アフリカにおいて、スーフィー組織が対宗主国闘争における重要な役割を担った。

1856/1272~3 ヨーゼフ・フォン・ハンマー=プルクシュタール没。ドイツ人東洋学者。スーフィー詩を翻訳した。

1858/1274 エンク・ムダ・ラージャ・アブドゥッラー没。マレーの統治者。ナクシュバンディーのシェイフでもあった。

1859/1276 ムハンマド・イブン・アッ=サヌーシー没。北アフリカの学者、サヌーシー教団の開祖。

1864/1281 アル=ハッジ・ウマル・イブン・サイード・タール没。西アフリカのティージャーニー派指導者。

1866/1282~3 フリードリヒ・リュッケルト没。ドイツの主要なスーフィズム研究者。

1869/1286 ミールザー・アサドゥッラー・ガーリブ没。著名なウルドゥー詩人。真の神秘主義的愛は死によってのみ表現されうる、という点を主要なテーマのひとつとしている。
1871/1288 馬化龍(ま・かりゅう、ま・ふあろん)没。中国のスーフィー、殉教者。

1874/1291 馬徳新(ま・とくしん、別称ま・ふちゅう)没。雲南省の中国人学者。スーフィー文献を中国語に翻訳した。

1877/1294 F. A. D. トールク没。ドイツ人の著述家。1821年、スーフィズムに関する初の包括的な書籍を刊行した。

1882/1300 エドワード・ヘンリー・パーマー没。『東洋の神秘主義Oriental Mysticism』(1867年)著者。

1883/1300 アミール・アブドゥルカーディル・イブン・ムヒユッディーン・アル=ハサニー没。フランス植民地主義に抵抗し戦ったアルジェリアのスーフィー。結果、放逐を余儀なくされた。

1885/1302~3 アーネスト・トランプ没。ドイツ人宣教師。1866年、『シャーの書』を編纂・刊行。

1892/1309~10 ジェームス・レッドハウス卿没。英国人の東洋学者、ルーミー研究者。

1898/1315 サイイド・アフマド・ハーン卿没。ナクシュバンディー派、インド=イスラムの改革者。

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最後のサイイド・アフマド・ハーンさん。東インド会社に就職なさったご経歴の持ち主でいらっしゃる。のちに簡易裁判所の判事職に就任。1857年、インド大反乱の際には多くのヨーロッパ出身者の人命保護に尽力。反乱の鎮圧後、「インド大反乱の因」と題する考察を執筆し、英国の政策を厳しく批判した。その一方で、柔軟さに欠く宗教保守派の姿勢がムスリムの未来を脅かしているとも考え、のちのアリーガル・ムスリム大学の前身となるムハンマダン・アングロ=オリエンタル・カレッジを設立。西洋的科学教育の普及に努めた。……と、いう方です。

追加すべき人物が他にも何人もいそうですが、ひとまず以下のお二人にしぼりました。

ファーティマ・ビント・ハマド・アル=フダイリヤ。1831年没。優れた書道家として知られ、イスラム諸学にも通じていた。多くの著名な学者からイジャーザ(師範免状)を与えられている。メッカに在住し、ムハッディス(ハディースの伝承者)として弟子たちにハディースを教え、後進の育成に努めた。晩年はメッカに蔵書豊富な図書館を設立し、一般に開放した。長らく受け継がれてきた女性ムハッディスの伝統の、最後の学者の一人とみなされている。

オマル・イブン・サイイド。1864年没。セネガルの富裕な家庭に生まれ、伝統的イスラム学の権威の許で25年間を勉学に捧げ、数学からアフリカ古来の神話に至るまで網羅した博学のイスラム学者として活動。1807年に拉致され、奴隷として米国で使役される。最初の奴隷主から逃亡ののち、ノースカロライナ州で再び拿捕。二度目の主人となるノースカロライナ州議会議員ジェームス・オーウェンに売却される。

「アンクル・モロー」「プリンス・モロー」といった呼び名で親しまれ、94歳でこの世を去った。オーウェンの許でキリスト教に改宗したとされているが、「主の祈り」をアラビア語で記すよう命じられて書いたものとして残されている文書が、コーラン110章(援助の章)であったことが後々になって判明している。

Omar ibn Said Writes Qur’an Verses as "The Lord’s Prayer"
Omar ibn Said Writes Qur’an Verses as “The Lord’s Prayer”

「神の助けと勝利が来て、人々が群れをなして神の宗教に入るのを見たら、汝の主の栄光をほめ讃え、お赦しを願え。主は悔い改めに寛容なお方である。」

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