ムスリムとして、より「宗教的」になるということは、アラブ風になってみたり、アラブ化してみたりするという意味なのだろうか?
英国に移住してみて、私はいくつかのムスリム・コミュニティに、ある奇妙な帰着が存在することに気づき始めた。つまり、非アラブのムスリムの中には、より「宗教的」になろうとして、よりアラブ化していく人たちがいるということだ。私はこれを、問題だと思っている。何も文化的簒奪 cultural appropriation だと言いたいわけではない。より良いムスリムになるのに、そんなことをする必要は全くないのに、と言っておきたいだけだ。
預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)は、ある有名なハディースにおいてこう語っている。
「人類はみなアダムとイヴから生まれた。アラブが非アラブより優れているとか、また非アラブがアラブよりも優れているとかといったことはない。白い肌の者が黒い肌の者よりも優れているとか、黒い肌の者が白い肌の者よりも優れているとかといったこともない」。
聖クルアーンにも、同じような言葉がある。
「おお、人類よ。われはあなたがたを一人の男と一人の女から創り、それから人々をそれぞれの一族に創った。それによりあなたがたが、お互いに知り合うようにさせるためである。本当に、アッラーの目に最も高貴な者とは、あなたがたの中で最も公正な者である。本当に、アッラーはすべてをご覧になり、すべてをご存知のお方である」。
(49章13節)
このクルアーンの節や上述のハディースからも、神はひとつの人類として私たちを創ったということ、違いの中にある美しさやユニークさを通して、私たちはお互いに知り合うことができるということ、誰かがより優れているとしたら、それはただ善良な行いによってのみであるということが分かるはずだ。
とは言うものの、神との関係を深めようとするとき、非アラブ系ムスリムの一部は、その過程で自分をアラブ化してしまうという罠に陥っている。英国では、この類いの例に事欠かない。特に若者の間で多いのが、男ならトーブ、女ならアバーヤを着用するといった人たちである。どちらもアラブの人々の伝統的な衣装で、どちらかというと中東地域に一般的な服装だ。もちろん、それが好みだからとか、快適だからといった理由でそうした服装をすることに、何か問題があるわけではない。でも時として、「24時間」いつでもどこでもアバーヤを着ることこそがヒジャーブの最高峰、というような言われ方をすることがある。私には、これは非常に奇妙に思える。私は、フィジカルな意味でのヒジャーブとは、身体の特定の部分をカバーしてくれるゆったりとした服装だと理解している。つまりヒジャーブとは、特定の服装を指しているわけではない。シャルワール・カミースだろうが、西洋風の服装だろうが、アフリカの衣装だろうがマレーシアの衣装だろうが、フィジカルなヒジャーブの条件さえ満たしていれば、何であれヒジャーブのはずだ。それなのに、イスラム的な服装というよりも、中東やサウジアラビアの服飾文化に過ぎないアバーヤが、なぜこうもイスラムと強く関連しているかのようにみなされるのだろうか?
これと同様に、複数のムスリム男性が実践している中で最も奇妙に思えるもののひとつが、英国の非アラブ・ムスリムの若者の多くが、自分をより「イスラム的」に見せようと、中東の伝統的なクーフィーヤを身につけていることだ。本当に、不思議な現象だとしか言いようがない。一体、何の目的があってあなた(あるいは、あなたの宗教)とはまったく関わりのないものを身につけたがるの?と尋ねたい。文化的な意味でよりアラブ風になったからといって、より敬虔な、あるいは実践的なムスリムになったということにはならないというのに。
これ以外にも、こうした「アラブ化」現象が見受けられるのが、言葉の問題である。非アラブ、あるいはアラビア語を第一言語としないムスリムが、特に話題がイスラムの時に限って、まるで自分の言葉を正当化する飾りか何かのようにアラビア語の単語を混入させることがしょっちゅう行われている –– 大抵の場合、それは yaani とか khalas とかといった言葉なのだが。これが毎日の普通の会話の中でも頻繁に起きている。主張自体は最初から最後まで完全に英語のところへ、出し抜けにアラビア語の単語を投げ込んでくる。個人的に、全く意味が理解できない。確かに、偉大なるクルアーンはアラビア語によって啓示されている。けれどこの宗教を宗教として成り立たせているのはクルアーンの中にあるメッセージだ。たとえそれがどれほど美しかろうと、特定の言語によってではない。
英国の(あるいは他のどこでもそうなのかもしれないが)非アラブのムスリムたち、特に若い世代の人たちは、アイデンティティの危機に陥っているように思われる。信仰を深めよう、信仰に近づこうとして、宗教と文化を混同しているのだ。この罠に陥るのは、とても危険だと私は思う。それはある種の自己植民地化 self-colonizing だ。アラブに対し、他と比べて(不必要な)高い地位を与えると同時に、非アラブのムスリム・コミュニティの間に劣等感の感覚を醸成する。これは非イスラム的であるばかりではなく、ムスリムはひとつのウンマであり、暗喩としての神の視点からすれば、全員が平等である、という考え方にも反している。
イスラムは、全人類のために啓示された宗教だ。これが最初に、改めて啓示されたのが「無知の時代」のアラブたちに対してだったのは、彼らが選ばれた人々であったからでも、その文化が優れていたからでもない。当時の社会に、腐敗と不正が蔓延していたからだ。私は自分の信仰を受け入れ、愛することと、それぞれに独自の文化や背景、個々人の人格を受け入れることは両立すると信じている。
あなたは、どう思いますか?
元のコラムはMuslim Vibesのこれです→Does becoming more ‘religious’ mean becoming more Arabized?
ど〜〜〜しても、アラブ・セントリズムに転んでしまいがちなところがありますね。メッカじゃなくてマッカと言え、メディナじゃなくてマディーナと言え、なんていうのも一種のアラブ・セントリズムと呼べなくもないかもしれないです。でもまあ、そのくらいならまだ理解できるし地元の人がそういうなら尊重するのが筋かな、という範囲ですが、同時に長らく多くの人々が「メッカ」「メディナ」と呼んできて、何の問題もなかったことにも留意しておきたいですし、さらにこれが実際の生活習慣というか、衣食住に関わってくる事柄だったりすると「うーん?」となります。
まあまあ、それでもまだまだ許容範囲内ですよ。良いんじゃないですか。良いんですよ、野菜にマヨネーズかける代わりにターヒンかけても。ヘルシーだね。
ただ、それをあたかも宗教的義務であるかのように考えたり、他人にも強要し始めたりするのはやめとこうね、とは思います。目に見えるものがすべてではないんじゃよ。