『大旅行記』も『アラビアン・ナイト』も、ちょこちょことつまみぐい的な読み方しかしてないし、なんかよろしくないねと思って「積みっぱの東洋文庫を残さずきちんと食べよう」というのを、新年の、まあ目標にしようと決めてみました。
ので、とりあえず『アルファフリー』から読んでみました。
アルファフリー〈1〉イスラームの君主論と諸王朝史 (東洋文庫)
全2巻。おもしろうございます。「サラディン」じゃなくて「サラーフ・アッディーン」だよー、と、いうような、地名や人名にさえ慣れてしまえば、読み進めるのに特に予備知識みたいなのを要求されることもない(し、巻末にシンプルで分かりやすい訳註がついているのであんまり気にしなくてもいい)。するする読めたのは著者のアッティクタカーさん自身が、最初に「いたずらに弁論術を誇示し、修辞法をひけらかし、かえって難しい表現にしてしまうのを避けた」と言っている通り、もったいぶった感じの言い回しなんかがほとんどなく、文章自体がするすると書かれてるおかげだ(もちろん、翻訳のひともすごい)。
のっけから、「『マカーマート』とかもわるくはないけど、あれよりおれの書いた本の方がよっぽど役に立つよ!」みたいな、これはまあお約束というか、最初にこういう立場表明みたいのをするのは様式美の一種なのだろうけれど、でもその仁義の切り方が何だかわるびれてなくてかわいいです。だいたいの場合、現世に対するなんだか呪いみたいな感じになってるのをよく目にするような気がするのですけれども(それがわるいというわけでもないですけれども)。おまけに、『マカーマート』のついでに『ナフジュ・アル=バラーガ』について、「あれはアラビア語の勉強するにはいいんじゃないの」とか書いてるのには笑いました。
『ナフジュ・アル=バラーガ』というのはイスラム教第四代目の正統カリフでもあり、シーア派の初代イマムとも数えられているアリーさん(ムハンマドの娘婿にあたる)が書いた(とされている)訓戒の書、あるいは名言集的な、特にシーア派のひとびとにとっては、例えばスンナ派の『ブハーリー』であるとか『サヒーフ』であるとかといった、そういう感じの扱われ方か、あるいはそれ以上の、位置づけとしては一般に非常に「ありがたい御本」なのだけど、その『ナフジュ・アル=バラーガ』について、
……一部の人々は、信者らの長アリー・ブヌ・アブー・ターリブの言葉を集めた『ナフジュ・アルバラーガ』という書物に傾倒している。英知や訓戒、説教、タウヒード(一神論)、勇気、禁欲、高尚な志などが学べる書物である。少なくともこれは、正則アラビア語の使い方、および修辞法に役立つ書物である。
「少なくともこれは、正則アラビア語の使い方、および修辞法に役立つ書物である」。自分の御本については、
……私の考えているところをよく理解してもらえるよう、明白な表現を用いて説明した。いたずらに弁論術を誇示し、修辞法をひけらかし、かえって難しい表現にしてしまうのを避けた。私は、しばしば雄弁さや修辞の技をひけらかすのを好んだがために、それがあだとなって、目的が曖昧となってしまった著作の書き手たちを見てきた。
「修辞とかとっぱらって分かりやすく書いたよ」ってアピールしたその同じ口で。やだ、このひとおもしろい。
後はどこそこのなにがしという王様はこう言った、とかどこそこのなにがしという宰相がああ言った、とか色んな逸話と、歴代カリフのお話と、それから「統治者の条件とは」というお話と、まあ聞いていて飽きないです。こういう人って好きだ。ドラマティックをこじらせてない感じがよろしい。
「アッティクタカー」というのは、「流暢」とか「饒舌に話す」とかという意味なのだそう。ぴったりだなあと思ってこれにも笑いました。ティクタク。
別のところに書いたのを、こちらに保存しました。